第27話:蠢く毒牙
聖大陸エルドラへの転移から二十五日目。
地下深くでジンと東郷が暗闇の迷宮を潜行していた頃、地上の世界は、いよいよ二大国家の全面衝突という破滅的な熱狂へと向かって大きく動き出していた。
しかし、その巨大な戦争のうねりの裏側では、敵国を打ち倒すという大義名分とは全く別の、身内を食い殺すための醜悪な陰謀が、両国の暗部で同時に蠢き始めていた。
ガルディア帝国の帝都。
皇帝ルーファスの居城から少し離れた、旧貴族たちの広大な屋敷が立ち並ぶ区画。その一角にあるゲオルグ・マクシミリアン公爵の館の地下室は、分厚い防音の結界魔法によって完全に外界から遮断されていた。
「……先日の峡谷での一件。無様に生き恥を晒したようだな、特務親衛隊隊長殿」
ビロードの張られた重厚な椅子に深く腰掛けたゲオルグ公爵が、血のように赤いワインの入ったグラスを揺らしながら、冷ややかに言い放った。
彼の対面に座るセス・オズワルドは、ギリッと奥歯を噛み締め、屈辱に顔を歪めた。
「公爵……。あの野蛮人の装甲は異常です。魔力枯渇帯に誘い込んだまでは良かった。しかし奴は、自らの生命力を直接破壊エネルギーに変換するという、魔道の常識を逸脱した自爆まがいの力で峡谷ごと魔獣を吹き飛ばしました。挙句の果てに、皇帝陛下まで現れ……私は、危うくあの場で処刑されるところでした」
セスの声には、抑えきれない恐怖と、それを上回るほどのどす黒い憎悪が入り混じっていた。
黒騎士ヴォルフの圧倒的な力を前にして、セスの野心は一度完全に打ち砕かれた。しかし、ヴォルフから向けられた「殺す価値もない」という侮蔑の視線と、皇帝ルーファスの冷酷な見下しが、彼の心に再び狂気的な復讐の炎を点火していたのだ。
「フン。皇帝陛下も、あの力にすっかり目が眩んでおられる。実力主義などという聞こえの良い妄想に憑りつかれ、身分卑しき野犬に帝国の命運を預けようとは」
ゲオルグはグラスをテーブルに置き、細い目をさらに細めた。
「数日後、我がガルディア帝国は、東のルミナス王国に向けて歴史上最大規模の大攻勢を仕掛ける。目標は、両国の境界線に位置する中立平原の完全制圧。そしてその先陣、最も名誉ある切り込み隊長を任されたのは、他ならぬ黒騎士ヴォルフだ」
「ええ、知っています。奴は今、特務親衛隊の精鋭数千を率いて、意気揚々と前線基地へ向かっていますよ。このまま奴がルミナスの防衛線を破れば、奴の帝国での地位はもはや誰にも覆せなくなる」
焦りを滲ませるセスに対し、ゲオルグは蛇のように粘着質な笑みを浮かべた。
「だからこそ、これが最後の好機なのだよ、セス殿」
ゲオルグはテーブルの上に、広大な国境付近の立体地図を魔法で投影した。
「奴のあの異常な火力は、周囲の魔力を無尽蔵に吸い上げることで成立している。峡谷では自らの生命力を燃やして切り抜けたようだが、それもたかが数分、相手は知能の低い魔獣の群れだったからこそ通用したに過ぎない。……だが、今度の相手は王国軍の正規兵、しかも数万の大軍だ。いかに規格外の火力を持とうと、単騎で数万を相手に生命力を燃やし続ければ、必ず肉体が崩壊する」
セスの瞳に、暗い光が宿る。
「つまり……奴を再び、完全に孤立させると?」
「その通りだ。黒騎士の部隊は先陣を切って敵陣深くまで突出する。そして君は、後詰めの補給部隊と、魔法支援部隊の指揮を執ることになっているな」
ゲオルグは杖の先で、地図上の黒騎士部隊の背後を指し示した。
「開戦と同時に、君の部隊は『王国の伏兵による奇襲を受けた』と偽の報告を上げ、進軍を完全に停止したまえ。後方からの魔力支援も、物資の補給もすべて絶つ。……前に進むしかない黒騎士は、王国の誇る数万の聖騎士団と賢者たちの集中砲火のど真ん中に、たった一つの部隊で取り残されることになる」
「なるほど……!」
セスは思わず身を乗り出した。
「奴は功名心に飢えている。後方が止まったと知っても、自らの力で敵陣を突破しようとさらに奥へ突っ込むはず。そして、王国の白魔法の集中砲火を浴びて魔力を使い果たし、自滅する……。完璧だ。これならば、私の手を下さずとも、奴を戦死という名目で合法的に処理できる!」
「その通りだ。そして、奴が死に絶えた頃合いを見計らって、我々旧貴族派が私兵を率いて悠々と戦場に現れ、消耗した王国軍を蹴散らす。皇帝陛下も、頼みの綱を失い、我々の軍事力に依存せざるを得なくなるだろう。これで帝国は、再び正しき血統を持つ者たちの手に戻るというわけだ」
二人の狂気に満ちた笑い声が、薄暗い地下室に響き渡った。
自国の勝利よりも、権力闘争と嫉妬を優先する腐敗した貴族と魔導師。彼らの悪意の刃は、英雄としてもてはやされるヴォルフの背中に、すでに深く突き立てられようとしていた。
一方その頃、東のルミナス王国・聖都。
静謐な祈りの歌が響く大聖堂の最上階、「賢者の間」と呼ばれる純白の円卓会議室においても、全く同じように血も涙もない冷酷な密談が交わされていた。
「帝国軍が、中立平原に向けて全軍の進軍を開始したようです。総勢は五万。数日内には、大規模な衝突が避けられないでしょう」
情報統制を司る賢者オクタヴィアが、無機質な声で報告を読み上げる。
円卓の上座で目を閉じているのは、八賢者の筆頭である厳格な保守派、バルバロス。
そしてその両脇には、司法の賢者カシウスと、防衛の賢者アルベールの姿があった。
「野蛮な帝国め。ついに我が国の神聖なる領土を穢そうというのか」
アルベールが巨大な拳を円卓に叩きつける。
「我が聖騎士団の全力を以て、黒き獣どもを浄化の光で焼き尽くしてくれる。防衛線の構築はすでに完了している。あとは、どの部隊を最前線の『暁の盾』に配置するかだ」
暁の盾。それは国境線に位置する最大の防衛要塞であり、帝国軍の猛攻を最も苛烈に受ける激戦の地である。
「それについては、私から提案がある」
冷たい声で口を開いたのは、異端審問官を束ねるカシウスだった。
彼は薄い唇を歪め、手元の書類をアルベールへ滑らせた。
「先日、我が国の正義に反逆した異界の小娘……聖騎士シオンと、彼女を庇い立てするルカ・エヴァンズの部隊だ。彼らを、暁の盾の最前線に配置するのだ」
「ルカと、あの小娘をだと?」
アルベールが眉をひそめる。
「あの小娘の槍の威力は確かに規格外だが、奴の心には聖典への絶対的な忠誠がない。最前線の過酷な防衛戦で、命令に背き陣形を崩す恐れがあるぞ」
「だからこそ、最前線に送るのだよ、アルベール」
カシウスは冷酷な笑みを深めた。
「あの小娘は、先日の処刑場で下層区のゴミどもを庇って私に刃を向けた。そしてルカは、エリアーナ様の神託などという都合の良い言い訳で彼女を正当化した。……最近、街の住人たちの間で、ルカの甘い思想に同調する空気が広がりつつある。このまま彼らに力を持たせれば、いずれ我々の構築した『完璧な秩序』に綻びが生じる」
バルバロスがゆっくりと目を開き、重々しい声でカシウスの言葉を継いだ。
「病の芽は、小さいうちに摘み取らねばならんということだな、カシウス」
「御意に。ルカもシオンも、自身の掲げる『民を守る正義』に酷く酔いしれている。ならば、その正義感を最大限に利用してやればいい。彼らに『帝国の猛攻から後方の市民を守るため、最後まで要塞を死守せよ』と命じるのだ。彼らはその青臭い正義感ゆえに、決して退くことはしないだろう」
カシウスの瞳が、狂信的な光を帯びてギラリと光った。
「帝国軍の先陣は、あの神話の地竜を一撃で屠ったという『黒騎士』が率いているという情報が入っている。いかにシオンの光の槍が強力であろうと、たった一つの部隊で帝国の主力と黒騎士の突撃を受け止めきれるはずがない」
カシウスの恐るべき計画の全容を理解し、アルベールの顔にも残酷な笑みが浮かんだ。
「なるほど……。帝国軍の猛攻で彼らが全滅すれば、目障りな改革派を一掃できる。そして、彼らが死んだ後に我々の本隊が到着し、消耗した帝国軍を叩き潰す。……シオンとルカの死は『王国の平和を守るための尊き自己犠牲』として美談に仕立て上げ、民の信仰心をさらに高めるための材料とするわけか」
「その通りだ。もし万が一、彼らが生き残って要塞を放棄して逃げ帰ってきたなら、その時は『敵前逃亡』および『防衛義務違反』として、堂々と異端審問にかけて処刑すればいい。どちらに転んでも、我々の庭の雑草は綺麗に刈り取られるというわけだ」
絶対的な平和と秩序を掲げるルミナス王国の最高指導者たち。
しかし彼らの本質は、自分たちの権力と体制を維持するためならば、同じ国の仲間はおろか、真に国を思う若き騎士たちすらも平然と囮として使い潰す、血の通わない怪物であった。
「決定だな。ルカとシオンの両名に、暁の盾への出撃命令を下せ。……すべては、女神の導きと、完璧なる秩序のために」
バルバロスの厳かな宣言により、王国側の冷酷な罠もまた、完全に仕掛けられた。
数日後。
帝都の大通りを、漆黒の装甲を纏ったヴォルフ・シュナイダーが、愛馬である巨大な黒狼に跨り、数千の特務親衛隊を率いて行軍していた。
沿道を埋め尽くす市民たちは、帝国最強の武神の出陣に熱狂し、割れんばかりの歓声と花びらを彼に浴びせかけている。
「見ろ! 俺たちの英雄だ! 王国の白銀の偽善者どもを、すべて吹き飛ばしてくれ!」
ヴォルフは市民たちの歓声に手を挙げて応えながら、獰猛な笑みを浮かべていた。
彼の背後には、補給部隊を率いるセス・オズワルドが、深くフードを被ってその熱狂を冷ややかな目で見つめていることなど、露ほども知らずに。
同じ日の朝。
聖都の白亜の広場を、純白の軽甲冑を纏ったシオン・ミカゲが、ルカ・エヴァンズと共に数百の神殿騎士団を率いて出立しようとしていた。
広場に集まった市民たちは、静かに両手を胸の前で組み、涙を流しながら彼らの武運と安全を祈っている。
「おお、光の騎士様……。どうか、どうかご無事で……」
シオンは市民たちに向かって深く頷き、力強く微笑み返した。
(大丈夫、私が必ず、あなたたちの平和を守り抜く)
彼女の隣では、ルカが悲壮な覚悟を秘めた目で前方を睨み据えている。自分たちが古き賢者たちの罠にはめられていると薄々感づきながらも、それでも民を守るために死地に赴くしかないという、絶望的な忠誠心と共に。
力に酔いしれ、歓声の中を進む黒騎士。
正義を信じ、祈りの中を進む聖騎士。
地球で共に数え切れないほどの死線を潜り抜けた二人のエースは、今や全く異なるイデオロギーの象徴として、数万の軍勢の先頭に立っていた。
しかし、その足元には、両国の腐敗した権力者たちが張り巡らした、逃れられない死の蜘蛛の巣がべっとりと絡みついている。
激突の時は、目前に迫っていた。
偽りの英雄と、偽りの聖女。彼らが互いの存在を知った時、戦場にどれほどの絶望と悲劇が巻き起こるのか。
中立地帯の地下で静かに研ぎ澄まされるジンの大太刀だけが、すべての欺瞞を両断する時を待っていた。




