第26話:帰還への潜行
聖大陸エルドラへの転移から二十二日目。
地上では、西のガルディア帝国と東のルミナス王国が、互いの主力を国境付近へと集結させつつあった。
両軍が睨み合う中立地帯の平原。その地下数百メートルという絶対の暗闇の中に、ジン・クロサワと東郷創一の姿があった。
「……静かだな。地上の喧騒が嘘のようだ」
「音を立てるな、博士。声は岩壁に反響して遠くまで届く。それに、ここはただの洞窟じゃない。何が潜んでいるかわからないぞ」
ジンのPM-ギアは、現在「完全隠密モード(サイレント・ランニング)」へと移行していた。
機体を覆う漆黒の粒子金属は、光の反射を極限まで抑える無光沢のマット状に変化している。エネルギーの稼働音や排熱機構はすべて物理的にロックされ、生命維持と最低限の筋力アシストにのみ動力が回されていた。
ベルトのコアユニットが放つ青白い光すらも、分厚い遮光布で厳重に覆い隠している。
目的は二つ。
一つは、真上に展開している両軍の魔術師たちに、未知のエネルギー反応を感知されないため。もしここで派手な戦闘を行えば、その余波は地盤を伝わって地上の警戒網に引っかかり、両軍の標的が再び自分たちへと向いてしまう危険があるからだ。
そしてもう一つは、この地下迷宮の「先住者」たちに自らの居場所を悟られないためであった。
二人が歩を進めているのは、自然に形成された洞窟などではなかった。
壁面は滑らかな直方体の石材で精緻に組み上げられ、天井には等間隔にアーチ状の梁が渡されている。床の石畳には、何千年もの時間をかけて付着したと思われる発光性の苔がびっしりと群生し、不気味な青緑色の淡い光で通路を照らし出していた。
忘れ去られた古代遺跡。それが、この大地の地下深くを網の目のように走っているのだ。
「素晴らしい……。実に素晴らしい構造だ」
東郷博士は、息を殺して進むジンとは対照的に、背後で興奮を隠しきれない様子で壁面を撫で回していた。
彼が手にしている携帯端末の画面は極限まで輝度を落とされているが、そこに表示されるデータ群は凄まじい速度で更新され続けている。
「見ろ、ジン。この石材の継ぎ目に流れている微弱な発光現象。これはただの苔の光ではない。遺跡の構造そのものが、星の内部を流れる『魔力』を吸い上げ、循環させるための巨大な魔法回路として機能しているんだ」
東郷は眼鏡を中指で押し上げ、暗闇の中で粘着質な笑みを浮かべた。
「帝国や王国が使っている魔法など、この遺跡のテクノロジーに比べれば児戯に等しい。この古代の住人たちは、星そのものを一つの巨大なジェネレーターとして利用しようとしていた。……ここを辿っていけば、間違いなく大陸最大の魔力脈のコアへと到達できる。次元のゲートをこじ開けるだけのエネルギーが、そこにはある」
「歴史の勉強は後にしてくれ。……来るぞ」
ジンが低く囁き、歩みを止めた。
彼が右手を水平に上げると、東郷も即座に口を閉ざし、岩陰に身を隠した。
ジンのバイザーの奥の瞳が、暗闇を鋭く見据える。
光学的な夜視センサーは機能させていない。完全な暗闇の中で彼が頼りにしているのは、PM-ギアの装甲を通じて伝わってくる、微細な空気の揺らぎと、自身の研ぎ澄まされた生物としての直感だけだった。
(前方十五メートル。天井付近。……数は三)
発光苔の淡い光すら届かない天井の闇の中から、カサカサという硬質な摩擦音が聞こえてきた。
やがて、その異形の姿がうっすらと輪郭を現す。
それは、地球の蜘蛛とムカデを掛け合わせたような、醜悪な地下生息の魔獣であった。体長は二メートルほど。目は完全に退化して存在せず、代わりに頭部からは無数の長い触角が伸びて、空中の振動や熱を必死に探っている。
前肢は鋭利な鎌のような形状をしており、岩壁を豆腐のように突き刺しながら天井を這い回っていた。
「視覚を持たない代わりに、振動と熱感知に特化した進化か。厄介な相手だね」
東郷が背後から通信機を使わず、極小の声で囁く。
「俺がやる。博士はそこから動くな」
ジンは音もなく腰のウェポンラックに手を伸ばし、高周波ブレードの柄を握った。
起動コマンドは発しない。装甲粒子による刃の形成も行わない。
彼が引き抜いたのは、PM-ギアの基本装備として内蔵されている、純粋な物理金属だけで構成された予備の短剣だった。振動機能すらオフにしているため、切れ味は単なるサバイバルナイフと大差ない。
だが、今の状況ではこれで十分だった。いや、これしか使えなかった。
ジンは姿勢を極限まで低くし、呼吸を完全にコントロールした。
心拍数を落とし、体温の放出を最小限に抑える。地球の防衛軍時代、熱感知型の未確認生命体を暗殺するために叩き込まれた、特殊部隊のステルス技術だ。
天井の魔獣が、触角をピクピクと動かしながら、ジンたちの隠れている岩陰の真上を通り過ぎようとした。
その瞬間。
ジンは足元の石畳を、一切の摩擦音を立てずに蹴った。
スラスターの加速はない。純粋な筋力と、PM-ギアの関節アシストのバネのみを利用した、無音の跳躍。
「ッ……!」
暗闇を切り裂くように跳び上がったジンは、天井に張り付いていた最後尾の一体の背中へと着地と同時に張り付いた。
魔獣が異変に気づき、悲鳴を上げようと大顎を開く。
しかし、その声が空気を震わせるより早く、ジンの左手が魔獣の頭部を鷲掴みにし、右手の短剣が首の関節の隙間、最も装甲が薄い神経節へと正確に突き立てられた。
ブチィッ、という鈍い音が響く。
中枢神経を物理的に切断された魔獣は、一切の音を立てることもなく即死し、天井のグリップを失って落下し始めた。
ジンは落下する魔獣の死骸を足場にして再び跳躍し、前方を這っていた二体目へと向かう。
仲間の気配が突然消えたことに気づいた二体目が、警戒して長い鎌を振り回した。
鋭利な刃がジンの頬をかすめ、一筋の血が飛ぶ。
だが、ジンは瞬き一つしなかった。
彼は空中で体を捻り、魔獣の振り抜いた鎌の遠心力を利用するようにして、その懐へと滑り込んだ。
無駄な力は一切使わない。魔獣自身の動きと重力に身を任せ、すれ違いざまに短剣の刃を腹部の柔らかい部分から胸部に向けて一閃する。
紫色の体液が噴出し、二体目が痙攣して落ちていく。
残るは先頭を歩いていた一体のみ。
背後で仲間が連続して殺された異常事態に、ついに三体目の魔獣が明確な敵意を持ってジンへと向き直った。
長い触角が荒れ狂い、空中のジンの熱源を完全に捕捉する。
「ギィッ……!!」
魔獣が岩壁を蹴り、空中にいるジンに向けて巨大な鎌を両側から挟み込むように突き出してきた。
スラスターが使えない空中で、回避する術はない。
(……見え透いた動きだ)
ジンは空中で身を丸め、迫り来る左右の鎌を両足の強固な膝装甲で同時に受け止めた。
ガキィンッ! という金属音が地下通路に響くが、これは想定内だ。
ジンはその衝撃を利用して両足を弾き返し、自らの体を弓のように反らせた。そして、魔獣の顔面目掛けて、手にした短剣を渾身の力で投擲した。
真っ直ぐに飛んだ短剣は、魔獣の触角の根元、頭蓋の急所を深々と貫いた。
「ギィル……」
魔獣の動きがピタリと止まる。
三体の死骸とジンは、ほぼ同時に床の発光苔の上へと落下した。
ジンは着地の瞬間、受身をとって衝撃を完全に殺し、音もなく立ち上がった。
戦闘時間は、わずか十秒足らず。
エネルギー波も、魔法の光も一切使わず、三体の凶悪な魔獣をただの物理的なナイフ術と体術のみで沈黙させたのだ。
「……周囲の生体反応、消失。片付いたぞ」
ジンは静かに息を吐きながら、死骸に突き刺さった短剣を引き抜き、体液を拭って鞘に収めた。
「見事な手際だ、ジン」
岩陰から出てきた東郷が、パチパチと音を立てずに拍手の手振りをしてみせた。
「派手な装甲パージや大太刀を使わずとも、君のその研ぎ澄まされた殺人技術は芸術的ですらある。帝国で暴れ回っているヴォルフの火力など、この隠密戦においては何の意味も持たないからね」
東郷は倒れた魔獣の死骸に近寄り、その腹部から零れ落ちている発光性の臓器を興味深そうに端末でスキャンし始めた。
「ふむ。視覚を捨て、魔力による振動感知に特化した結果、この生物の神経系は極めて特殊な魔力伝導率を持っている。……地下の環境というものは、地上の常識をこうも簡単に覆してしまうのだな。実に愉快だ」
血と体液の悪臭が漂う中で、無邪気に解剖学的な興味を示す東郷の背中を見て、ジンは密かに眉をひそめた。
この男の頭の中には、恐怖や嫌悪といった人間らしい感情が欠落している。彼を突き動かしているのは、純粋で狂気的なまでの知識欲と、次元を破壊するという実験への執着だけだ。
ヴォルフやシオンが別の道を選んだ今、自分が背中を預けている相手が、ある意味で最も危険な存在であることをジンは理解していた。
(だが、こいつの頭脳がなければ俺は帰れない)
ジンはインナーの胸元に手を当てた。そこには、防水ケースに入れられたサエとリクの写真がある。
こんな冷たく、血の匂いが充満する暗闇の地下迷宮で、彼の心を正常に保ち、体を動かし続けている原動力は、その薄い紙切れ一枚の温もりだけだった。
「行くぞ、博士。遊んでいる暇はない」
ジンが短く促す。
「ああ、わかっているとも。君の帰還への執念には、いつも感服させられる」
東郷は端末をしまい、白衣の汚れを払って立ち上がった。
発光苔が照らし出す青緑色の通路は、さらに深く、さらに暗く地下へと続いている。
地上では、ヴォルフが属する帝国と、シオンが属する王国の軍勢が、今まさに血みどろの全面戦争を始めようと殺気を膨らませていた。
その戦火の真下で、ジンは誰にも知られることなく、ただ一途に家族の待つ地球への扉を開くため、暗闇の中を潜行していく。
一切の無駄を削ぎ落とした最強の装甲兵は、音のない足取りで、古代遺跡の最深部へとその身を溶け込ませていった。




