第24話:初陣と絡みつく罠
聖大陸エルドラへの転移から二十日目。
かつて同じ空の下で背中を預け合った二人の戦士は、奇しくも同じ日、同じ時刻に、全く別の場所で絶体絶命の危機に直面していた。
帝国の北西、魔の山脈と呼ばれる険しい岩山地帯。
その最も深く、最も暗い亀裂である「悪魔の顎」と呼ばれる大峡谷の底を、ヴォルフ・シュナイダーは一人で歩いていた。
「……随分と静かじゃねえか。魔獣の大規模な巣があるって話だったが、ネズミ一匹いねえぞ」
ヴォルフは苛立たしげに周囲を見回した。
赤茶けた岩壁が両側から迫り、空はわずかな隙間からしか見えない。風の音すら途絶えた、不気味なまでの静寂が峡谷を支配していた。
事の発端は数時間前。特務親衛隊隊長のセス・オズワルドから、直々の伝令が届いたことだった。
「峡谷に凶悪な魔獣の群れが結集している。皇帝陛下は、新たなる黒騎士の圧倒的な力でこれを単機で殲滅し、帝国全土にその武威を示すことを望んでおられる」
功名心にはやるヴォルフは、その言葉を微塵も疑わなかった。前回の戦いで得た全能感と、兵士たちの熱狂的な称賛が、彼の警戒心を完全に麻痺させていたのだ。
だが、峡谷のさらに奥へと足を踏み入れた瞬間、ヴォルフの腰のコアユニットが、耳障りなエラー音を鳴らし始めた。
『警告。外部魔力濃度の著しい低下を検知。代替エネルギーの供給率がゼロパーセントに低下しました』
「……あ? どういうことだ、博士のパッチプログラムがバグったのか?」
ヴォルフがベルトのコアを叩いたその時。
静まり返っていた峡谷の岩壁の無数の穴から、カサカサというおぞましい摩擦音が響き始めた。
岩の隙間から這い出してきたのは、体長五メートルを超える巨大な節足魔獣「鎧百足」の群れだった。
鋼鉄の刃のような無数の足と、岩を噛み砕く巨大な大顎。それが十匹、二十匹ではなく、壁を埋め尽くすほどの数でヴォルフを取り囲んでいた。
「なるほど、罠ってわけか。セスのお坊ちゃんめ、俺の活躍がよっぽど悔しかったと見える」
ヴォルフは獰猛に笑い、両腕にファフニールを形成しようとした。
しかし、大気中の魔力を吸い上げようとした瞬間、システムが激しくショートし、粒子金属の形成が途中で止まってしまった。
「なっ……!?」
『警告。周辺大気に魔力が存在しません。生体リンクからのエネルギー抽出に切り替えますが、推奨されません』
ゲオルグ公爵の言った通りだった。この峡谷は特殊な磁場により、大気中の魔力が完全に枯渇している「魔力枯渇帯」なのだ。
東郷のプログラムは、外部の魔力を取り込むことで無限の駆動を可能にしていた。それが絶たれた今、ヴォルフのPM-ギアは、地球にいた頃と同じか、それ以下の限られた内部エネルギーだけで稼働しなければならない。
「ギィシャアアアアッ!!」
鎧百足の群れが一斉に岩壁から飛びかかってきた。
「舐めるなァッ!!」
ヴォルフは不完全な重粒子ガトリングを形成し、乱射した。しかし、魔力による圧縮と爆発力を伴わない純粋な物理弾幕では、鎧百足の分厚い甲殻を削ることはできても、致命傷を与えるには至らない。
巨大な大顎がヴォルフの漆黒の外套を引き裂き、肩の装甲をガリガリと削り取る。
「ぐああっ!」
ヴォルフは脚部のスラスターを吹かして強引に距離を取ろうとするが、エネルギー不足で出力が上がらず、背後の岩壁に激突してしまう。
群がる無数の魔獣。魔力の枯渇。
皇帝にもてはやされ、すべてを支配できると錯覚していた黒騎士は、暗く冷たい谷底で、己の無力さを再び突きつけられていた。
同時刻。
ルミナス王国の聖都の中央に位置する「浄化の大広場」は、身の毛もよだつような狂気的な静寂に包まれていた。
純白の大理石で舗装された広場の中央には、十本の巨大な白銀の十字架が立てられている。
そこに縛り付けられているのは、下層区の住人たちだった。その中には、先日シオンが助けようとしたトーマス・グレイと、その幼い息子の姿もあった。
広場を取り囲む数千人の市民たちは、誰一人として怒りの声も、悲鳴も上げない。ただ静かに両手を組み、十字架に括り付けられた者たちのために、無表情で祈りの歌を歌い続けていた。
その異様な光景を前に、シオン・ミカゲは血の気が引くのを感じていた。
彼女の隣には、防衛の賢者アルベールと、異端審問官の長である司法の賢者カシウスが冷酷な目をして立っている。
「これより、聖典に背きし罪深き異端者たちの浄化の儀式を執り行う」
カシウスが、広場に響き渡る声で宣告した。
「トーマス・グレイ。そしてその血族と賛同者たち。神聖なる配給を拒み、不浄なる食物を口にした罪、並びに王国の絶対たる法を疑った罪により、ここに死罪を命ずる」
「お待ちください! 彼らは何もしていません!」
シオンが耐えきれずに叫んだ。
「落ちていた木の実を拾っただけです! 他の方々に至っては、ただ彼らを庇おうとしただけではありませんか! これが死罪に当たるなど、どう考えても異常です!」
「黙れ、偽りの騎士よ」
アルベールが冷たく言い放ち、シオンの足元に一本の白銀の長剣を投げ捨てた。
「先日、貴様がこの罪人どもを庇ったことはすでに報告を受けている。異界の騎士よ、貴様の心の中には、まだ秩序を乱す反逆の毒が残っているようだな」
アルベールはシオンに詰め寄り、その耳元で悪魔のように囁いた。
「この国に、個人の感情や正義など不要なのだよ。必要なのは、完璧な歯車として機能する従順さだけだ。……さあ、シオン・ミカゲ。その剣を拾い、貴様自身の口で彼らに死を宣告し、その手で首をはねろ」
「な……」
「それができないというのなら、貴様も彼らと同じ異端者として、この広場で火あぶりの刑に処す。……王国の聖騎士としての忠誠を、今ここで証明してみせろ」
究極の選択だった。
剣を取り、無実の弱者を殺して、この歪んだ平和の歯車に完全に組み込まれるか。
それとも、剣を弾き飛ばし、王国すべてを敵に回して異端者として死ぬか。
シオンは震える手で、足元に落ちた白銀の長剣を拾い上げた。
剣は恐ろしいほどに重かった。地球で数え切れないほどの未確認生命体を斬り伏せてきた彼女の両手が、今、恐怖と絶望で激しく震えている。
「光の騎士様……」
十字架に縛り付けられたトーマス・グレイが、虚ろな、しかし狂信的な笑顔を浮かべてシオンを見た。
「どうか、迷わないでください。私たちの罪は、あなたの聖なる剣によって裁かれることで、初めて浄化されるのです。さあ、私と、この愚かな息子の首をはね、女神の元へとお導きください。……それが、この国の正しい形なのですから」
幼い子供すらも、恐怖で泣くことはなく、ただ虚ろな目でシオンを見つめ、祈りの言葉をつぶやいている。
誰も助けを求めていない。被害者自身が、殺されることを正義だと狂信しているのだ。
(狂っている。この国は、狂っている)
シオンの脳裏に、地球の街で瓦礫の下敷きになりながら「助けて」と泣き叫んでいた人々の顔がフラッシュバックした。
彼女は彼らを助けられなかった。だからこそ、今度こそは誰もが笑い合える完璧な平和を守りたかった。
しかし、この国が用意した平和は、思考を奪い、心を殺し、笑いながら死を受け入れさせるという、あまりにもグロテスクな人形遊びに過ぎなかった。
『あなたは、私が理想としていた正義を体現されているのですね』
ルカにそう語った自分を、今のシオンは激しく殴りつけたかった。
ジン隊長が言っていた通りだった。この国は、息の詰まる檻なのだ。
「早くしろ。民が浄化の光を待ち望んでいるぞ」
アルベールが冷酷に急かす。
シオンは剣を強く握り締め、ゆっくりと十字架の前に歩みを進めた。
数千人の祈りの声が、彼女の耳元で呪いのように渦巻いている。
同じ頃、帝国の峡谷の底では、ヴォルフの絶望的な死闘が限界を迎えていた。
「ハァッ……! ハァッ……!」
ヴォルフの全身を覆っていたPM-ギアの装甲は、すでに六割以上が破壊され、生身の肉体が随所に露出していた。
左腕は鎧百足の大顎に深く噛み砕かれ、鮮血がボタボタと赤茶けた大地を染めている。
『警告。内部エネルギー残量、15パーセント。生命維持機能に深刻な障害が発生する恐れがあります』
システムのアナウンスが、無機質に死のカウントダウンを告げる。
群がってくる鎧百足の数は一向に減る気配がない。それどころか、血の匂いに引き寄せられ、岩壁の奥からさらに巨大な個体が次々と姿を現し始めていた。
「クソが……ッ! ふざけるな……こんなところで、俺が終わるわけがねえ……!」
ヴォルフは右腕に残ったわずかな粒子金属をパイルバンカーに変形させ、飛びかかってきた魔獣の頭部に突き刺して強引に粉砕した。
だが、その隙に背後から別の魔獣の尾が直撃し、ヴォルフの巨体はボールのように吹き飛ばされ、岩肌に激突して血を吐いた。
視界が霞む。
遠のく意識の中で、ヴォルフは地球での惨めな生活を思い出していた。
路地裏で残飯を漁っていた少年時代。軍隊に入り、必死に力を証明しようとしても、誰も自分を認めてくれなかった日々。
そして、この世界で皇帝ルーファスから漆黒の外套を与えられ、数万の兵士から歓声を浴びた、あの絶頂の瞬間。
(俺は……黒騎士だ。ようやく手に入れたんだ、俺の居場所を……。それを、こんな薄暗い谷底で、名もなき虫ケラの餌になって失うだと……?)
「冗談じゃ……ねえぞ……」
ヴォルフは血まみれの口元を歪め、不気味に笑い始めた。
周囲を取り囲む魔獣たちが、獲物の最期を悟り、一斉に飛びかかろうと身を屈める。
「外部の魔力がないなら……俺自身の命を、魔力として燃やせばいいだけの話だ……!」
ヴォルフは残された右腕で、腰のコアユニットの安全装置を強引に引き剥がした。
『警告! 警告! 生命維持用の生体エネルギーを攻撃システムに直結させる行為は、パイロットの肉体を不可逆的に破壊する恐れがあります! 直ちに中止を……』
「うるせえ! 黙って全部、右腕に回せェェェェッ!!」
ヴォルフの眼球にびっしりと血走った毛細血管が浮かび上がり、全身の筋肉が異様な音を立てて膨張した。
彼の生命力そのものを燃料として、ファフニールの巨大な砲身が再び形成されていく。それは外部の魔力を取り込んだ時とは違う、ヴォルフ自身の怒りと生存本能が具現化した、どす黒い漆黒の光を放っていた。
一方、ルミナス王国の処刑場。
シオンは十字架の前に立ち、白銀の剣を両手で上段に振りかぶっていた。
広場の祈りの声が最高潮に達する。
アルベールとカシウスが、満足げにその光景を見つめている。
「さあ、聖騎士よ! 正義の鉄槌を下せ!」
アルベールが叫ぶ。
シオンの脳裏に、ジン・クロサワの冷徹だが決して折れない横顔が浮かんだ。
『泥をすすってでも、獣に身を落としてでも生き延びるんだ』
あの過酷な密林の洞窟で、ジンはそう言った。彼は誰の思想にも染まらず、ただ己の信じる道だけを貫こうとしていた。
(私は、獣に身を落とすことはできても……人形になることはできない)
シオンの瞳から、迷いの霧が完全に晴れた。
彼女は振りかぶっていた剣を、トーマスに向けてではなく、背後に立つアルベールたちに向けて、猛烈な速度で反転させた。
「なっ……!?」
シオンの腰のコアが、彼女の明確な敵意に反応し、限界を超える白銀の光を噴出させた。
「スラスター起動! 思考加速!」
彼女の手から白銀の長剣がパージされ、代わりに大気中の魔力をすべて一点に収束させた巨大な閃光の騎槍、ロンギヌスが再構築される。
「この見えない鎖でつながれた正義を……私が、断ち切る!!」
シオンは一切の防御を捨て、王国最強の武力であるアルベールに向かって、一直線にロンギヌスを突き出した。
「灰燼に帰せ、ファフニール……!! すべてを、吹き飛ばすッ!!」
峡谷の底で、命を燃やし尽くすヴォルフの咆哮が木霊する。
「貫け、ロンギヌス……!! 悪を、断ち切るッ!!」
広場の中央で、己の正義を取り戻したシオンの絶叫が響き渡る。
帝国と王国。
二つの極端な世界に飲み込まれかけた二人の戦士は、死の淵と究極の選択の果てに、それぞれが己のすべてを懸けた「一撃」を解き放った。
絡みつく罠を食い破るための、反逆の閃光が放たれた瞬間であった。




