第23話:王国の見えない毒
聖大陸エルドラへの転移から十八日目。
ルミナス王国の聖都において、聖騎士としての叙任を受けたシオン・ミカゲは、純白の軽甲冑に身を包み、街の巡回任務に就いていた。
大聖堂や王宮が立ち並ぶ「上層区」の街並みは、どこまでも白く、美しかった。
道行く人々は皆、微笑みを絶やさず、シオンの姿を見かけると立ち止まって恭しく祈りを捧げる。犯罪の匂いなど微塵も感じられない、完璧に統制された平和。
しかし、シオンの足が聖都の外縁部、通称「下層区」と呼ばれる区画へと踏み入った時、彼女の抱いていた美しい幻想は、徐々に冷たい違和感へと変わり始めていた。
下層区の景色は、上層区のそれとは明確に異なっていた。
建物は石造りではなく古びた木造が中心で、屋根はひしゃげ、道は舗装されていない。しかし、スラム街に特有のゴミの悪臭や、酔っ払いの怒号、物乞いの姿などは一切存在しなかった。
街は恐ろしいほどに清潔に保たれ、静まり返っている。
その静けさの理由は、道を行き交う人々の姿を見れば一目でわかった。
彼らは皆、極度に痩せこけていた。
頬はこけ、着ている衣服は清潔ではあるものの、何度も継ぎ接ぎされた粗末な布だ。明らかな栄養失調と過労の兆候が、下層区の全住民の顔に刻み込まれている。
それにもかかわらず、彼らの表情には「上層区」の市民と全く同じ、穏やかで起伏のない微笑みが張り付いていた。
「……光の騎士様。このようなむさ苦しい区画にまで足を運んでくださるとは、女神の慈悲に感謝いたします」
巡回中のシオンに声をかけてきたのは、ひときわ痩せた体つきの、初老に差し掛かった男だった。
彼の手は過酷な労働でひび割れ、指先には包帯が巻かれている。しかし、その瞳だけは異様なほどに澄み切り、狂信的な光を宿していた。
「私は下層区のまとめ役を任されております、トーマス・グレイと申します。我が王国の新たなる正義の象徴に、こうしてお目にかかれたこと、身に余る光栄です」
トーマスは深く頭を下げ、シオンに向かって十字を切った。
「顔を上げてください、トーマス殿。私はまだ、皆さんに祈られるような大層な者ではありません」
シオンは戸惑いながらも、彼のひび割れた手を見て痛ましそうに顔をしかめた。
「その手……ひどい傷ですね。十分な治療や、休息は取れていないのですか? 皆さんのお顔色も、とても健康には見えませんが……」
シオンの問いに、トーマスは不思議そうな顔をした後、朗らかに笑った。
「お優しいのですね、騎士様は。ですが、ご心配には及びません。この飢えも、労働の痛みも、すべては『聖典』に記された尊き試練なのですから」
トーマスは胸元から、ボロボロになった小さな教典を取り出し、愛おしそうに撫でた。
「聖典第四章、第十二節。『肉体の苦痛は魂の不浄を焼き尽くす炎なり。現世の飢えに耐えし者のみが、来世の永遠なる豊穣を約束されん』……。私たちがこうして貧しさに耐え、上層区の方々を支えるための労働に身を捧げることで、この王国の完璧な平和は維持されているのです。これほど名誉で、正しい生き方が他にあるでしょうか」
トーマスの言葉を聞き、シオンは背筋に冷たい水滴を垂らされたような悪寒を覚えた。
地球の防衛軍時代、シオンが見てきた貧困層は、常に怒りと不満を爆発させていた。生きるために物を盗み、暴動を起こし、体制を憎んでいた。それは人間として当然の生存本能であり、だからこそシオンは彼らを救いたいと願っていたのだ。
しかし、この国の弱者たちは違う。
八賢者の定めた「聖典」という絶対的な法律によって、思考の根底から完全に支配されている。
飢えることは罪の浄化であり、苦しむことは平和への貢献であると、生まれた時から骨の髄まで刷り込まれているのだ。
不満を抱くこと自体が「悪」であるという見えない毒が、彼らから怒りも悲しみも、人間としての自由な感情すらも奪い去っていた。
(これが、誰も傷つかない完璧な秩序の正体……? 弱者を洗脳し、不満の声を上げる意志すら奪い取ることで成り立つ平和だというの?)
シオンの心の中で、美しかった王国の景色が、音を立てて崩れかけていた。
その決定的な亀裂は、数日後の下層区の巡回中に起こった。
その日、シオンが下層区の広場を歩いていると、悲痛な叫び声と、鋭い魔法の破裂音が響き渡った。
駆けつけると、広場の中央で、数名の白衣を着た男たちが、一人の幼い子供を取り囲んでいた。カシウスの配下である異端審問官たちだ。
そして、その審問官たちの足元に泣き崩れていたのは、トーマス・グレイであった。
「お許しください! 審問官様! この子はまだ教えを理解していないだけなのです!」
トーマスが地面に額をこすりつけ、血を流しながら懇願している。
彼が庇っているのは、七歳にも満たない、ガリガリに痩せ細った彼の息子だった。その小さな手には、上層区の果樹園から転がり落ちてきたと思われる、鮮やかな赤い木の実が握りしめられていた。
「黙れ、トーマス・グレイ。聖典の掟は絶対だ」
冷酷な目をした審問官が、手に持った光の鞭をピタリと鳴らした。
「聖典第七章、第三節。『女神の許可なき恵みを口にする者は、魂を貪る強欲の罪人なり』。配給以外の食物を拾い食いすることは、国家の秩序を乱す重罪である。たかが木の実一つとはいえ、その強欲の芽は今のうちに摘み取らねばならない」
審問官が鞭を高く振り上げた。それは単なる鞭ではない。魔力を帯びた光の刃であり、直撃すれば幼い子供の腕など容易く切断される。
「この罪深き右腕を切り落とし、女神への贖罪とせよ!」
「ああっ……! 息子よ、痛みに耐え、罪を悔い改めるのです! それが正しき民の務めなのです!」
トーマスは子供を庇って逃げるどころか、自ら子供の右腕を抑えつけ、狂気じみた祈りの言葉を叫んだ。父親としての愛情よりも、聖典の教えへの絶対的な服従が上回っているのだ。
「やめなさい!!」
光の鞭が振り下ろされる寸前。
シオンは限界までスラスターを吹かし、音速の踏み込みで二人の間に割り込んだ。
ガキィィィィッ!!
シオンの腰のコアから瞬時に生成された白銀の小太刀が、審問官の光の鞭を弾き飛ばす。
「なっ……! 貴様、何をするか!」
審問官が驚愕し、後ずさる。
シオンは子供を背中で庇い、怒りに震える目で審問官たちを睨みつけた。
「正気ですか! たかが落ちていた木の実を拾っただけで、こんな幼い子供の腕を切り落とすと言うのですか! 飢えた子供が食べ物を欲しがるのは、罪でもなんでもない、ただの命の営みです!」
「聖騎士シオン……。異界からの客人とはいえ、聖典の執行を妨害することは許されんぞ」
背後から、地響きのような重い足音とともに、筋骨隆々の巨漢が姿を現した。
八賢者の一人、聖騎士団の最高司令官にして防衛の賢者、アルベールであった。
彼の全身からは、圧倒的な質量の光の魔力が立ち上り、周囲の空間を威圧している。
「アルベール様……! しかし、これはあまりにも残酷です。これが、あなた方の言う正義なのですか!」
シオンが必死に訴えかける。
アルベールは冷酷な目でシオンを見下ろし、鼻で笑った。
「残酷? 勘違いをするな、小娘。この秩序こそが、何百万という民を生かしているのだ。一つの例外を許せば、民は次々と欲望を膨らませ、やがて国は争いと略奪の混沌に沈む。小さな毒を切り捨てることで、巨大な平和を維持する。それこそが、この世界における唯一の正義なのだ」
アルベールが一歩踏み出すと、重圧だけで周囲の下層区の住人たちが次々と膝をつき、恐怖で頭を垂れた。
「貴様のその甘い感情は、秩序を乱す『異端』に過ぎない。このガキを庇うというのなら、貴様もろとも反逆者としてカシウスの異端審問にかけることになるが、それでも構わんのだな?」
アルベールの手が、腰の巨大な聖剣の柄にかけられる。
シオンの心臓が激しく波打つ。
今ここで彼らに刃を向ければ、彼女がルミナス王国で築き上げた居場所はすべて失われる。ジンや東郷の計画にも、致命的な支障をきたすかもしれない。
だが、背後で震える幼い子供の温もりと、それをただ狂ったように祈りながら見つめるだけの父親の異常な姿が、彼女の魂の奥底にあった「本当の正義」を激しく揺さぶっていた。
地球の防衛軍で、誰かを守れずに流した悔し涙。
力のない者が、理不尽な暴力によって虐げられる世界を、私は変えたかったはずだ。
この国が、聖典という見えない鎖で人々を縛り付け、思考を奪い、飢えた子供の手を切り落とすことを正義と呼ぶのなら。
(そんな正義は……私が、叩き斬る)
「……構いません」
シオンは真っ直ぐに立ち上がり、アルベールを鋭く見据えた。
彼女の腰のコアが、激しい感情に呼応して、かつてないほど強烈な白銀の光を放ち始める。
「私は、誰かを守るために剣を取った。見えない鎖で弱者を縛り付けるような歪んだ秩序を、私は正義とは認めない。……もしこの子を傷つけるというのなら、このルミナス王国のすべての聖なる力を相手にしても、私は戦います」
シオンの右手に、大気中の魔力を極限まで収束させた閃光の騎槍、ロンギヌスが顕現する。
「愚かな。やはり異界の獣は、どれだけ着飾ろうとも獣に過ぎなかったか」
アルベールが冷たく言い放ち、聖剣を引き抜いた。
周囲の審問官たちも一斉に戦闘態勢に入り、広場は一触即発の極限の緊張状態に包まれた。
ルミナス王国の「美しすぎる秩序」に隠された猛毒。
それに気づき、反旗を翻したシオン・ミカゲは、帝国で英雄となったかつての戦友とは全く違う形で、自らの信じる道を切り開くための絶望的な戦いへと足を踏み入れた。
彼女を「偽りの騎士」として断罪しようとする王国の巨大な歯車が、今、無慈悲に回り始めたのである。




