第22話:帝国に渦巻く嫉妬
聖大陸エルドラへの転移から十七日目。
ガルディア帝国の西端に位置する国境地帯は、赤茶けた岩肌が続く荒涼とした不毛の地であった。
この日、国境の防衛線を任されていた帝国軍の第三大隊は、かつてない規模の魔獣の群れに強襲され、防衛線の維持に致命的な危機を迎えていた。
群れを成して押し寄せてきたのは、「鉄甲魔猿」と呼ばれる中型の魔獣たちだった。
体長は三メートルほどだが、全身が鋼鉄のように硬質な魔力の毛皮で覆われており、下級の魔術師が放つ炎や雷撃程度では傷一つ負わせることができない。さらに厄介なことに、彼らは知能が高く、群れ全体で統率の取れた陣形を組んで帝国の防衛網を次々と食い破っていた。
「第一陣、後退しろ! 結界部隊、前へ出ろ! 奴らの突進をこれ以上許すな!」
前線指揮官が血を吐くような声で怒号を飛ばす。
しかし、急造された魔法結界は、何十体もの鉄甲魔猿による質量と魔力を乗せた突進を前に、ガラスのようにあっけなく粉砕されていく。
最前列で槍を構えていた兵士たちが、巨大な猿の腕によって紙くずのように宙へ吹き飛ばされ、岩肌に叩きつけられて絶命した。
「駄目だ、数と硬さが桁違いすぎる……! このままでは防衛線が抜かれ、背後の都市まで蹂躙されるぞ!」
指揮官が絶望的な声を上げた、まさにその時だった。
上空から、凄まじい推進音と共に何かが降ってきた。
ズドォォォォォォンッ!!
最前線で暴れ回っていた数体の鉄甲魔猿の中心に、隕石でも落ちたかのような強烈な衝撃波が叩きつけられた。
巻き起こった土煙と粉塵が晴れると、そこにはクレーターと化した大地の中央で、膝立ちの姿勢からゆっくりと立ち上がる一つの巨体があった。
皇帝ルーファスより直々に下賜された、漆黒の外套。
その下には、大気中の魔力を吸い上げて禍々しい紫電を放つ、未知の金属装甲(PM-ギア)。
「……なんだ、ずいぶんと手こずってるじゃねえか。帝国軍の精鋭ってのは、猿回しもろくにできねえのか?」
肩を鳴らしながら立ち上がったのは、伝説の黒騎士として特務親衛隊総司令に任命された男、ヴォルフ・シュナイダーであった。
彼は背部のスラスターから青白い余剰エネルギーを噴出させながら、獰猛な笑みを浮かべて群がる魔獣たちを見渡した。
「く、黒騎士様だ! 皇帝陛下が遣わされた、特務親衛隊の総司令だぞ!」
絶望の淵にいた兵士たちの間に、どよめきと安堵の声が広がる。
鉄甲魔猿たちは、突如として現れた異質な存在に対し、一斉に警戒の唸り声を上げた。
本能で理解したのだ。目の前にいるこの黒い装甲の人間は、これまで蹴散らしてきた帝国兵たちとは根本的に次元の違う、恐るべき「捕食者」であると。
「グルァッ!」
リーダー格と思われる一回り巨大な猿が咆哮を上げると、十数体の鉄甲魔猿が一斉にヴォルフへと襲いかかった。
四方八方からの、回避不能の同時攻撃。
しかし、ヴォルフは一歩も動かなかった。
ただ、腰のコアに両手を当て、不敵に笑っただけだ。
「ちょうどいい。こちとら、俺を持ち上げてくれた皇帝陛下たちに、デカい花火を見せてやらなきゃならねえところだったんだ。テメェら、俺の的当てゲームの景品にしてやるよ」
ヴォルフの腕を覆う粒子金属が、凄まじい速度で再構築されていく。
周囲の大気から莫大な魔力が吸い上げられ、PM-ギアのシステムを通じて極限まで圧縮される。
「ジェネレーター直結。魔力圧縮率、限界突破」
ヴォルフの両腕に、彼の代名詞とも言える巨大な重魔導砲ファフニールが形成された。
砲口の奥で、純粋な粒子エネルギーと、エルドラの濃密な魔力が最悪の形で融合し、太陽のように赤黒い光を放ち始める。
「灰燼に帰せ、ファフニール……すべてを吹き飛ばす!」
引き金が引かれた。
それは、もはや砲撃というよりは、大気そのものを削り取る破壊の奔流であった。
毎秒数千発の魔力圧縮弾が、一本の極太の光線となって放射される。
先頭を走っていた鉄甲魔猿は、悲鳴を上げる間もなく、その鋼鉄の毛皮ごと上半身が原子レベルで消滅した。
ファフニールの破壊力はそこで止まらない。ヴォルフが砲身を横に薙ぎ払うと、赤黒い光線は荒野の大地をドロドロに融解させながら、群がる魔獣たちを次々と飲み込んでいった。
「ギ、ギィャァァァァッ!?」
断末魔の叫びが連鎖する。
帝国兵たちの魔法を一切寄せ付けなかった強靭な魔獣たちが、まるで燃える紙くずのように、一切の抵抗も許されずに消し飛んでいく。
「ハハハハハハハッ!! 脆い! 脆すぎるぜ! もっと硬い奴はいねえのか!」
ヴォルフの哄笑が、砲撃の轟音に混じって戦場に響き渡る。
反動で後退しそうになる巨体を、脚部のスラスターとパイルバンカーを地面に打ち込むことで強引に固定し、彼はただひたすらにトリガーを引き続けた。
数分後。
ファフニールの砲身が限界温度に達し、白煙を上げて自動的にパージされた時、彼方に広がっていた魔獣の群れは、文字通り一匹残らず「消滅」していた。
残されたのは、真っ赤に焼けただれ、ガラス状に結晶化した巨大な扇状のクレーターだけだった。
「……す、すげえ……」
「たった一人で、あの大群を……これが、皇帝陛下が見出した黒騎士の力か……!」
背後で見守っていた帝国兵たちが、震える声で呟き、やがてそれは割れんばかりの歓声へと変わった。
「黒騎士様、万歳! 黒騎士様、万歳!」
武器を振り上げ、涙を流して自分の名を叫ぶ兵士たち。
ヴォルフは煙を上げる両腕を下ろし、心地よい疲労感とともに、全身に浴びる称賛の声を深く吸い込んだ。
(これだ……。俺がずっと求めていたのは、この景色だ)
地球の防衛軍では、どれだけ敵を倒しても「やりすぎだ」「周囲への被害を考慮しろ」と減点されるばかりだった。彼らはヴォルフの力を恐れ、管理しようとした。
だが、この帝国は自分のすべてを肯定してくれる。
敵を粉砕すればするほど、力が絶対の価値を持つこの世界では、自分は英雄として崇められるのだ。
「俺はもう、誰の下にもつかねえ。俺の力で、この大陸のすべてを俺の前にひれ伏させてやる」
ヴォルフは赤く染まる荒野の夕日を見つめながら、己の野心を確固たるものとしていた。
しかし。
彼が光り輝く戦場の中心で絶頂を味わっていたその頃。
帝都の深い影の中では、彼を地獄の底へ引きずり下ろそうとする、ねっとりとした陰謀の糸が紡がれ始めていた。
帝都の一角にそびえ立つ、豪奢な貴族の館。
その地下にある、窓一つない薄暗い書斎において、特務親衛隊隊長セス・オズワルドは、苛立ちのままに高級なワイングラスを壁に投げつけて粉砕していた。
「忌まわしい……! あの野蛮人め、忌まわしい!」
セスの端正な顔は憎悪に歪み、その周囲には無意識に漏れ出した黒魔法の重力波が渦巻き、書斎の調度品をミシミシと軋ませていた。
「少し落ち着きたまえ、セス・オズワルド殿。私の自慢のコレクションが壊れてしまうではないか」
部屋の奥、ビロードの張られた安楽椅子に深く腰掛けていた老人が、ワイングラスを傾けながら冷ややかに笑った。
旧貴族派の筆頭、ゲオルグ・マクシミリアン公爵である。
「公爵……! 落ち着いてなどいられるものですか! 先ほど前線から伝令が来ました。あのヴォルフという成り上がりが、国境の魔獣を単機で殲滅したと。兵士たちは今や、皇帝陛下と同じくらいあの男を崇拝し始めている。私の、私が心血を注いで育て上げた特務親衛隊が、どこの馬の骨とも知れない異邦人に乗っ取られようとしているのですよ!」
セスは血走った目でゲオルグを睨みつけた。
ゲオルグは優雅に立ち上がり、杖をつきながらセスの傍らへと歩み寄った。
「ええ、知っているとも。腹立たしいことだ。……皇帝ルーファスは、いささか実力主義という夢物語に酔いすぎている。身分も教養もない獣を甘やかせば、やがて国の中枢から腐敗していくという、歴史の教訓を忘れておられる」
ゲオルグの瞳の奥に、冷酷な覇権への執着が光る。
彼にとって、平民出身でありながら特務親衛隊の隊長にまで上り詰めたセス自身も、本来であれば見下すべき路傍の石に過ぎない。しかし、今は使える駒であった。新体制を崩壊させ、再び特権階級である貴族たちが帝国を支配する時代を取り戻すためには、この若き魔導師の嫉妬心を利用しない手はない。
「セス殿。君がスラムの泥水をすすりながら、どれほどの血の滲むような努力で帝国の魔道を修めたか、私はよく知っている。君の力こそ、正統なる帝国の至宝だ。……それを、あのような得体の知れないカラクリ仕掛けの兵器に頼る男に奪われるなど、私としても我慢がならないのだよ」
「……公爵。あなたは、私にどうしろと?」
ゲオルグの甘言に、セスの表情がわずかに和らぐ。自分の努力と正当性を認めてくれる言葉に、彼はすがりつきたかったのだ。
「簡単なことだ。英雄気取りの野犬には、それ相応の死に場所を与えてやればいい」
ゲオルグは書斎のテーブルに広げられた、大陸の精緻な地図を杖の先で指し示した。
「奴の力は確かに規格外だ。正面から戦えば、君であっても、いや、ルミナス王国の賢者であっても無事では済むまい。だが、どのような強大な力にも必ず弱点がある。奴の力は、周囲の魔力を異常な速度で吸い上げ、浪費することで成り立っている」
東郷博士による魔力変換パッチは、確かにヴォルフたちに無限に近いエネルギーをもたらした。だがそれは、周囲の大気に十分な魔力が満ちていることが前提となる。
「帝国の北西。魔の山脈と呼ばれるあの峡谷地帯は、特殊な磁場により大気中の魔力が極端に希薄な『枯渇帯』だ。そのくせ、生息している魔獣どもは狂暴で、過去にいくつもの大隊が全滅の憂き目に遭っている」
ゲオルグはニヤリと陰湿な笑みを浮かべた。
「あの峡谷に、大規模な魔獣の巣が発見されたという『偽の伝令』を流す。奴は今、連戦連勝で完全に慢心している。皇帝陛下の勅命だと偽れば、功名心にはやる奴は必ず単機で突出するだろう。……魔力の補給が絶たれた状態で、無尽蔵に湧き出る魔獣の群れに囲まれれば、あのカラクリ装甲もやがてただの鉄くずに変わる」
セスの瞳が、ゲオルグの提案を聞いて大きく見開かれた。
「なるほど……。罠に嵌め、魔獣どもに奴を処理させるのですね。しかし、もし奴がそれでも生き延びた場合は……」
「その時は、君の出番だ、特務親衛隊隊長殿」
ゲオルグはセスの肩に手を置き、悪魔のように囁いた。
「魔獣との戦いで疲弊しきった奴の背後から、君の高位黒魔法でとどめを刺せばいい。名目はなんとでもなる。『黒騎士は魔獣の群れに単騎で突撃し、名誉ある戦死を遂げた。セス隊長は救援に向かったが、惜しくも間に合わなかった』……これで、君は邪魔者を排除し、特務親衛隊の頂点に返り咲くことができる。皇帝陛下も、死人にはもはや興味を示さなくなるだろう」
悪逆非道な暗殺計画。
しかし、嫉妬と憎悪で完全に理性を失っていたセスにとって、それは暗闇に差し込んだ唯一の救いの光のように思えた。
「……やります。あの野蛮人に、本当の絶望というものを教えてやる。この帝国の魔道を侮った報いを、その身に刻ませてやりますよ」
セスは血の滲むような声で誓い、不敵な笑みを浮かべた。
「良い覚悟だ。ならば、手回しは私がしよう。作戦の決行は三日後だ」
ゲオルグもまた、満足げにワイングラスを干した。
(若き皇帝よ。あなたの掲げた実力主義の歪みが、今まさに足元から崩れ去ろうとしているのですよ。せいぜい、手に入れたばかりの玩具が壊れる様を嘆くがいい)
熱狂の光に包まれる黒騎士。
暗闇の中で研がれる嫉妬の刃。
帝国という巨大な獣の胃袋の中で、殺意と野望の歯車が静かに、しかし確実に噛み合い始めていた。




