第17話:帝国の流儀
果てしなく広がる平原を横断し、ガルディア帝国の前線要塞に辿り着いたのは、聖大陸エルドラへの転移から八日目の昼下がりのことだった。
「黒鉄の牙」と名付けられたその要塞は、岩山をそのままくり抜いて作られたかのような、威圧的で巨大な漆黒の建造物だった。外壁には無数の攻撃呪文を放つための砲座が備えられ、周囲の空気には濃密な魔力がピリピリと帯電している。
しかし、その厳めしい外観とは裏腹に、要塞の内部は活気に満ち溢れていた。
中庭では、体格のいい兵士たちが上半身裸になって剣打ちや格闘の稽古に励み、至る所で笑い声と怒号が飛び交っている。魔術師たちは気取ったローブではなく、動きやすい革鎧を身に纏い、炎や雷の魔法を競い合うように放っては豪快に笑っていた。
そこには、階級や身分による堅苦しい規律は存在しないように見えた。
「おい見ろよ、あの新入りの小僧! また上の階級の奴を叩き伏せやがったぞ!」
「ガハハ! いい腕だ! 今日からお前が百人隊長だ、夜は俺の奢りで死ぬまで飲め!」
勝利した者が称賛され、敗北した者は悔しそうに笑いながら勝者の肩を叩く。
その野蛮でありながらも裏表のない光景に、ヴォルフ・シュナイダーは目を奪われていた。
「……いい国じゃねえか」
ヴォルフは、自分の腰に巻かれたPM-ギアのベルトを撫でながら呟いた。
地球での軍隊生活は、常に上の顔色を伺い、規則に縛られる息苦しいものだった。どれだけ圧倒的な火力を誇っても、スラム出身のならず者というレッテルが彼を「危険人物」として隅に追いやってきたのだ。
だが、ここは違う。力さえあれば、誰もが純粋に評価される。
「感心している場合ですか、ヴォルフ。規律も何もない、ただの野獣の群れです。強者が弱者を虐げることを正当化しているだけの、危険な思想よ」
シオン・ミカゲが、周囲の騒ぎに顔をしかめながら小声で咎めた。彼女の目には、この帝国の有様はただの混沌にしか映っていなかった。
「そうとは限らないさ。彼らなりの秩序はあるようだ」
ジン・クロサワが、兵士たちの訓練風景を冷静に観察しながら言った。
「戦意は高く、互いの実力を認め合っている。……統率者の手腕が、よほど優れているということだ」
その夜、要塞の最も巨大な大広間で、彼らを歓迎するための盛大な宴が開かれた。
長大なテーブルには、狩ってきたばかりの巨大な魔獣の丸焼きや、樽いっぱいの強い酒が並べられ、兵士たちが身分に関係なく肩を組んで飲み交わしている。
そして、その喧騒の中心、一段高くなった豪奢な玉座に腰を下ろしていたのが、ガルディア帝国皇帝、ルーファス・ヴァン・ガルディアであった。
「長旅の疲れを癒してくれ、異邦の客人たちよ。我が帝国は、力ある者を心から歓迎する」
ルーファスがワイングラスを傾けながら、静かに口を開いた。
声そのものは大きくないが、広間の喧騒が水を打ったように静まり返る。兵士たちの視線が一斉に皇帝へと向き、そこには絶対的な敬意と畏怖が入り混じっていた。
ルーファスはまだ三十代前半の若き皇帝だった。漆黒の軍装に身を包み、銀色の長髪を後ろで束ねている。氷のように冷たく知的な切れ長の瞳は、相手の魂の底まで見透かすような鋭さを持っていた。
ジンは一目で悟った。この男は、単なる権力者ではない。彼自身が、この広間にいる誰よりも強大な魔力を秘めた、帝国最強の怪物なのだと。
「皇帝陛下。我々は流れ者に過ぎません。このような盛大な歓待を受け、感謝の念に堪えません」
ジンが進み出て、儀礼的な挨拶を述べる。
「堅苦しい挨拶は不要だ、ジン。私は無能な貴族のへつらいを聴くよりも、戦場で結果を出す者の声を聞く方が好きでね」
ルーファスは薄く微笑み、立ち上がった。
「我がガルディア帝国は、かつて愚かな前皇帝の浪費によって崩壊の危機にあった。血筋だけを重んじ、真の実力を持つ平民を蔑んだ結果、国力は衰退し、東のルミナスに領土を奪われた。……だから私は、自らの手で兄である前皇帝を討ったのだ」
広間にどよめきは起きなかった。兵士たちは皆、その事実を誇りに思っているようだった。
「私はこの国から、血統という悪しき病魔を消し去った。スラムで泥水をすすっていた孤児であろうと、異国からの放浪者であろうと、実力さえ示せば将軍にでも、貴族にでも取り立てる。それが私の敷いた完全なる実力主義だ。……どうだ、ヴォルフと言ったか。君の目から見て、我が国は魅力的ではないか?」
突然話を振られ、ヴォルフは面食らったが、すぐに獰猛な笑みを浮かべて前に出た。
「ええ、最高ですね。俺のいた世界じゃあ、どれだけ敵を吹き飛ばしても、上の連中は俺を厄介者扱いするだけでした。力こそがすべて……あんたのその考えには、反吐が出るほど同意しますよ」
「それは素晴らしい。君のその重魔導砲……ファフニールだったか。あれほどの火力を自在に操る才能が、これまで評価されてこなかったとは、君の世界の統治者は余程の愚か者揃いらしい」
ルーファスは満足げに頷き、傍らに立つ宰相のレオンに視線を向けた。
「ガハハハハ! そういうことだ、ヴォルフ! さあ、飲もうぜ! 今日は身分も立場も関係ねえ、強い奴が一番偉い夜だ!」
レオンが巨大なジョッキを両手に持ち、ヴォルフの肩を力強く叩いた。
宴が再開され、広間は再び熱狂の渦に包まれた。
ヴォルフはレオンに連れられ、屈強な兵士たちの輪の中へと飛び込んでいった。
「おい見ろよ、あいつが今の西将軍だ。元はスラムの用心棒だったが、ルミナス王国との国境戦で敵の騎士を百人斬ってあの地位に就いたんだ」
レオンが指差した先には、顔に無数の傷を持つ大男が、部下たちから慕われながら酒を飲んでいる姿があった。
「俺たちの皇帝陛下は、約束を違えねえ。やればやった分だけ、必ず報われる。俺だって、元はしがない傭兵上がりの魔導師だったからな。……どうだ、ヴォルフ。俺たちと一緒に、この大陸の頂点を目指してみねえか?」
レオンの熱い言葉と、周囲の兵士たちの曇りのない称賛の眼差し。
ヴォルフの胸の奥で、長年抑えつけられていた飢餓感が、ついに抑えきれない炎となって燃え上がり始めていた。
一方、その喧騒から離れた広間の隅で、ジンはルーファスと静かにグラスを交わしていた。
「部下が楽しんでいるようで何よりだ。だが、君の目は笑っていないな、ジン」
ルーファスが冷たい瞳でジンを見据える。
「俺は、美味い話の裏にある代償を気にするタチでしてね」
ジンはワインを一口飲み、視線をルーファスに合わせた。
「完全なる実力主義。確かに聞こえはいい。弱者が這い上がる希望になる。だが、それは裏を返せば、力を持たない弱者は切り捨てるという、冷徹な覇権主義の言い換えに過ぎない。違いますか」
ルーファスの瞳に、感心したような光が宿った。
「鋭い男だ。その通りだ、ジン。国を維持するためには、無能を養う余裕はない。力を示せない者は、強者のための礎となるのが自然の摂理だ。私はただ、そのシステムを最も合理的な形で運用しているに過ぎない」
ルーファスはジンの纏うPM-ギアのベルトを見つめた。
「君のあの地竜を一刀両断した力。もし君が我が帝国軍の指揮を執れば、ルミナス王国など数日で焦土と化すだろう。私は君を、特務親衛隊のトップとして迎え入れたいと考えている」
「光栄な申し出ですが、俺はお断りします。俺の目的は、この世界で頂点に立つことではない。遠い故郷で待つ、家族の元へ帰ることです。そのために、俺の刃を誰かの戦争に貸すつもりはありません」
ジンの揺るぎない拒絶の言葉に、ルーファスは少しだけ残念そうに目を伏せた。
「そうか。家族、か。……私のような人間には理解し難い感傷だが、君のその意志の強さこそが、あの刃の切れ味の源なのかもしれないな。良いだろう、無理強いはしない。だが、君の部下たちはどうかな」
ルーファスの視線の先。
そこには、帝国の兵士たちと完全に打ち解け、大笑いしながら魔力を誇示して見せるヴォルフの姿があった。
そして、その野蛮な空気に馴染めず、一人で壁際に立ち尽くしているシオンの姿も。
「力に飢えた者は、力のある場所へと惹かれる。正義に縛られた者は、秩序のある場所へと流れる。君たちのその強固な結びつきも、この世界では少しずつ形を変えていくはずだ」
ルーファスの言葉は、ジンの胸の奥に冷たい棘のように突き刺さった。
その時、広間の入り口付近に、一人の男が腕を組んで立っているのにジンは気づいた。
漆黒の特務親衛隊の軍服を着た、神経質そうな細身の青年だ。特務親衛隊隊長のセス・オズワルド。
彼の視線は、周囲から喝采を浴びるヴォルフに釘付けになっており、その瞳にはどす黒い嫉妬と、強烈な敵対心が渦巻いていた。
(実力主義がもたらすのは、希望だけじゃない。終わりのない競争と、敗者の憎悪だ)
ジンは小さく息を吐き、グラスをテーブルに置いた。
「俺の部下をどう評価するかは勝手ですが、彼らが自分の道をどう決めるかは、彼ら自身の自由です。……ですが、一つだけ忠告しておきます、皇帝陛下」
ジンはルーファスに一歩近づき、鋭い殺気を放った。
「俺たちは、誰の駒にもならない。もし、帰還のための道を阻む者がいるなら、それが帝国であろうと王国であろうと、俺はこの剣で両断する」
ルーファスはジンの殺気を真っ向から受け止め、不敵に微笑んだ。
「良い覚悟だ。ならば、まずは東のルミナス王国を見てくるといい。彼らの掲げる『綺麗事の秩序』が、いかに息苦しく、欺瞞に満ちたものか、君たち自身の目で確かめてくるがいい」
夜が更け、宴の熱気は最高潮に達していた。
東郷博士はすでに姿を消し、要塞の地下にある魔法炉のデータを密かに解析しに回っているはずだ。
ジンは広間の喧騒の中で、一人静かに目を閉じた。
ヴォルフの心が、急速に帝国へと傾いているのを肌で感じていた。彼を止める権利は、ジンにはない。彼らには彼らの人生があり、地球への帰還が必ずしも全員の幸福に繋がるとは限らないのだから。
だが、それでも。
俺は帰る。この世界がどれほど魅力的であろうと、俺の居場所はここにはない。
鋼鉄の絆で結ばれていた部隊の心に、見えない亀裂が入り始めていた。
彼らは翌日、帝国が用意した馬車に乗り、次なる目的地であるルミナス王国へと出発することになる。
待ち受けるのは、絶対的な秩序と正義が支配する、もう一つの究極の国家であった。




