第16話:神話の降臨
風が止まった。
十万人を超える軍勢が対峙する広大な平原において、本来なら響き渡るはずの馬のいななきも、兵士たちの怒号も、今は完全に沈黙していた。
平原を見下ろすなだらかな丘の上。
そこに立つ四人の異邦人を、ガルディア帝国軍とルミナス王国軍の双方が、ただ息を呑んで見つめている。
両軍の兵士たち、そして指揮官たちの目には、ジン・クロサワたち四人の姿が、ある種の神々しさすら帯びた「伝説」そのものに映っていた。
彼らの背後、密林の境界線には、数百年にわたり誰も討ち果たすことができなかった神話クラスの魔獣、古代遺跡の地竜の巨大な首が転がっている。
そして、ジンが地竜を両断した際に発生した青白い粒子金属の残滓が、まだ彼らの周囲を蛍の光のように美しく乱舞していたのだ。
黒魔法を信奉するガルディア帝国には、強大な魔力は黒や紫の禍々しい光を放つという常識がある。
白魔法を操るルミナス王国には、聖なる力は白銀の清らかな光を放つという常識がある。
しかし、丘の上の彼らが纏う青白い光は、そのどちらとも異なる、次元の違う純度を持った未知のエネルギーであった。
「……動くなよ。相手の出方を見る」
ジンは右腕のムラサメを完全に霧散させ、両手を下ろした無防備な姿勢を保ちながら、部下たちに低い声で指示を出した。
「ですが隊長、あれだけの軍勢に囲まれては……」
シオンが緊張で顔を強張らせる。
「大丈夫だ。彼らからは、俺たちに対する殺気を感じない。むしろ、困惑と……畏怖だ」
東郷博士が、鋭い観察眼で両軍の様子を分析する。
数分の沈黙の後、ついに事態が動いた。
平原の西側、漆黒の軍勢の中から一騎の巨大な魔獣に跨った男が進み出てきた。
同時に、東側の白銀の軍勢からも、純白の駿馬に乗った一人の男が丘へ向かって歩みを進めてくる。
両軍ともに、自軍の陣形を解くことはない。しかし、互いにこれ以上の軍事衝突は無意味、あるいは危険すぎると判断し、交渉の代表者を送り出してきたのだ。
丘の中腹で、二人の騎兵はジンたちの数メートル手前で立ち止まり、それぞれ馬と魔獣から降り立った。
「ガハハハハッ! いやあ、驚いたぜ! まさかあの忌まわしい地竜の主を、たった四人で、しかもあんな一撃で真っ二つにしちまうとはな!」
豪快な笑い声を上げながら近づいてきたのは、西のガルディア帝国から来た男だった。
燃えるような真紅の髪を逆立て、漆黒の軍服の上に無骨な外套を羽織っている。その瞳は野心と活力に満ち溢れ、歩くたびに周囲の大気が熱を帯びて揺らぐような、圧倒的な火属性の魔力を発していた。
「俺はガルディア帝国宰相、レオン・バルバトス。見ての通り、炎を少しばかり得意としている魔導師だ。……あんたら、見ない顔だな。もしかして、神話に伝わる精霊山の騎士様か何かかい?」
レオンは気さくな態度で、しかし油断のない目でジンたちを値踏みした。
その横から、静かで、しかし凛とした声が響いた。
「無作法ですよ、バルバトス宰相。未知なる御方々に対し、そのような軽口は失礼に当たります」
東のルミナス王国から来た男が、深々と一礼をしてから顔を上げた。
透き通るような金髪に、知性を感じさせる青い瞳。純白の法衣と銀の胸当てを身につけたその青年は、まだ二十代前半にしか見えなかったが、その身から発せられる静謐で聖なる気配は、背後の軍勢の誰よりも澄み切っていた。
「突然の非礼をお許しください。私はルミナス王国、八賢者の一席を預かるルカ・エヴァンズと申します。我々は、この地に凄まじい邪悪の消滅と、清らかな光の降臨を感知し駆けつけました。……あなた方が、あの地竜を討伐してくださったのですね」
ルカは、ジンの周囲に漂う粒子の光を、邪悪を浄化する聖なる力だと解釈しているようだった。
ジンは一歩前に出た。
自分がここでどう振る舞うかが、今後の生存を左右する。
「俺はジン。こっちはヴォルフ、シオン、そして東郷だ。……俺たちは、遠い故郷から旅をしてきた流れ者に過ぎない。神話の騎士でもなければ、特定の国に与する者でもない」
ジンは淡々と、しかし毅然とした態度で答えた。
「あの地竜は、俺たちの行く手を阻んだから切り捨てただけだ。お前たちの戦争に介入する意志はない。道を空けてもらえるなら、このまま立ち去る」
ジンの言葉に、レオンとルカは顔を見合わせた。
この圧倒的な力を持つ集団が、どの勢力にも属していないフリーの存在であるという事実。それは両国にとって、是が非でも自国に引き入れなければならない、あるいは最低でも敵対を避けなければならない最重要対象であることを意味していた。
「立ち去るなんて冷たいこと言うなよ、ジンとやら。あんたらのその規格外の力、うちの皇帝陛下が知ったら泣いて喜ぶぜ」
レオンがニヤリと笑い、大袈裟に両手を広げた。
「俺たちの帝国はな、血筋だの身分だの、そんなくだらねえものは一切気にしねえ。力こそがすべてだ。あんたらの強さなら、間違いなく国賓として、いや、望むなら将軍として迎え入れられる。どうだ? 少しうちの要塞で、美味い酒と肉でも楽しんでいかないか」
「言葉を慎みなさい、帝国。彼らの清らかな力は、あなた方のような野蛮な闘争に消費されるべきものではない」
ルカが鋭くレオンを牽制し、再びジンへと向き直った。
「ジン殿。我々ルミナス王国は、あなた方の偉大な功績に心からの敬意を表します。もしよろしければ、我が国の聖都へお越しください。安全な休息の場と、最高のおもてなしをお約束します。あなた方のような正しき力を持つ方々と、我々はぜひ友誼を結びたいのです」
両国からの、破格の待遇での招待。
ジンは少しだけ視線を後ろに向け、東郷と目配せをした。
(どうする、ジン。我々にはこの世界の情報が決定的に不足している。ここで彼らをはね除けて野に下るより、彼らの庇護下に入り、魔力脈や次元の構造に関する情報を引き出す方が得策だ)
東郷の微細な表情の動きが、そう語っていた。
ジンも同意見だった。
家族の待つ地球へ帰るためには、この世界を支配する二つの大国の知識と設備が不可欠だ。
「……お前たちの厚意には感謝する」
ジンは再び前を向き、二人の代表者へ答えた。
「だが、俺たちはこの土地の事情に疎い。どちらの国が正しいのか、どちらの国が我々にふさわしいのか、判断する基準がない。……だから、両方だ」
「両方?」とレオンが眉を上げる。
「ああ。まずは西の帝国の要塞で世話になる。その後、東の王国の聖都も訪れさせてもらう。俺たちがどちらの国と手を取り合うかは、お前たちの国をこの目で見てから決めさせてもらう。……それで不服なら、今すぐここで全員相手にしてもいいが?」
ジンの背後で、ヴォルフがニヤリと笑って重機関砲のアイドリング音を響かせ、シオンが双剣の柄に手をかけた。
地竜を一撃で屠った彼らのその凄みに、レオンもルカも僅かに息を呑んだ。
「……ガハハハハッ! いいぜ、気に入った! その圧倒的な自信、まさに強者の証だ!」
レオンが腹を抱えて笑い出した。
「わかった、その条件で手を打とう。まずは俺たちガルディア帝国の流儀ってもんを見せてやる。存分に見極めてくれや」
「我が王国も、異存はありません。我々は逃げも隠れもしません。あなた方が真の正義と秩序を理解してくださる日を、心待ちにしております」
ルカもまた、静かに頭を下げた。
交渉は成立した。
最悪の軍事衝突は回避され、両軍はジンたちを「伝説の騎士」として迎え入れるため、ゆっくりと陣形を解いて後退を始めた。
その緊張が解けた直後、レオンがふとヴォルフの方を見て話しかけた。
「それにしても、あんた。さっき地竜に放ってたあの魔法の砲撃、とんでもない火力だったな。あの圧縮率、俺の炎の魔法と似た匂いがしたぜ。帝国の兵器開発部が見たら、ひっくり返って驚くぞ」
ヴォルフは突然の称賛に目を丸くしたが、すぐに嬉しそうに鼻を鳴らした。
「へっ、わかるか。俺の火力は、すべてを吹き飛ばすためにある。……あんたの国は、力こそがすべてなんだろ? 俺みたいなはぐれ者でも、力さえあれば評価されるってのか?」
「当然だ。うちの皇帝陛下は、無能な貴族より、有能な平民を愛するお方でな。あんたほどの力があれば、明日にでも城が建つぜ」
レオンの飾らない豪快な言葉に、ヴォルフの瞳の奥で、地球では満たされなかった何らかの野心が静かに火を灯した。
一方、ルカはシオンの方へと歩み寄っていた。
「そちらの女性の騎士殿。先ほどの回避と遊撃の身のこなし、見事な美しさでした。自らを顧みず、前線で主君を護ろうとするそのお姿に、私は真の騎士道を見ました」
シオンは少し頬を染め、地球の軍隊式ではなく、ルカに倣って静かに一礼を返した。
「もったいないお言葉です。私はただ、守るべきものを守るために剣を振るっているだけです。……ルカ殿とおっしゃいましたか。あなたのその澄んだ瞳からは、民の平和を心から願う、深い慈愛の念を感じます。あなたの国は、きっと美しい場所なのでしょうね」
「はい。我が王国は、弱き者を守り、正しき者が報われる平和な国です。あなたが来てくだされば、我が国の民もどれほど心強いか」
ルカの誠実で偽りのない態度に、シオンの胸の奥で、失いかけていた「正義」への渇望が再び温かく脈打つのを感じた。
帝国へ惹かれるヴォルフ。
王国へ惹かれるシオン。
ジンは、少し離れた場所からその光景を静かに見つめていた。
それぞれが、この異世界で自分を必要としてくれる居場所を見つけようとしている。それは、過酷なサバイバルで摩耗した心を癒やすための、当然の防衛本能なのかもしれない。
だが、ジン・クロサワの心だけは、どこにも惹かれることはなかった。
どれほど皇帝が実力を評価しようとも。どれほど聖王女が平和を謳おうとも。
彼にとって、この世界は「一時的な滞在場所」でしかない。
彼の心はすでに、何光年も離れた地球の、あの小さな食卓と公園に帰っているのだ。
(すまない、お前たち。……だが、俺は誰にも縛られない。何を利用してでも、俺は帰る)
朝日が完全に昇りきり、平原を明るく照らし出した。
こうして、地球から来た四人の異邦人は、剣と魔法の二大国家の歴史の真っ只中へと、その足を踏み入れていくことになった。
それは同時に、固い絆で結ばれていた彼ら「鋼鉄の三連星」の運命の歯車が、少しずつ、しかし決定的に違う方向へと回り始めた瞬間でもあった。




