第13話:生存への渇望
聖大陸エルドラへ転移してから、三日が経過していた。
未知の密林には、昨日から紫色の不気味な雨が絶え間なく降り注いでいる。厚い雲が二つの月と太陽の光を遮り、森の中は昼夜を問わず薄暗い黄昏のような状態が続いていた。
鬱蒼と茂る巨大なシダ植物の奥。岩肌がえぐれてできた天然の洞窟の奥深くで、三人の装甲兵と一人の科学者が身を潜めていた。
「ピィッ……ピィッ……」
洞窟の暗闇の中で、PM-ギアのベルトに内蔵されたコアユニットが、耳障りな電子音と共に赤く明滅している。
エネルギー残量の低下を知らせる警告音だ。
「……うるせえな、切っちまえよその音」
洞窟の壁に背を預けて座り込んでいたヴォルフ・シュナイダーが、苛立たしげに吐き捨てた。
彼の顔には無精髭が伸び、頬はこけ、かつての好戦的な覇気は見る影もない。自慢の重魔導砲を形成するためのエネルギーすら底をつきかけ、今の彼はただの鉄の塊を腰に巻いた無力な人間に過ぎなかった。
「警告音をオフにしても、エネルギーの枯渇が止まるわけではありません。……私のギアも、残量はすでに二十パーセントを切りました。生命維持機能が停止するのも時間の問題です」
反対側の壁際で膝を抱えていたシオン・ミカゲが、虚ろな声で呟いた。
彼女の美しい黒髪は泥と埃で汚れ、瞳からはかつての凛とした正義の光が失われている。
地球での彼らは、最新鋭の科学兵器に守られ、圧倒的な力で敵を蹂躙する強者であった。
だが、この世界では違う。
未知の気候、得体の知れない病原菌、そして何より、自分たちを遥かに凌駕する力を持った野生の魔獣たち。ここでは、一歩洞窟の外に出れば、彼らはいつ殺されてもおかしくない「弱者」であり「獲物」だった。
規律も正義もない、ただ暴力だけが支配する野蛮な世界。その絶望的な現実が、三日間という短い時間で、誇り高きエリート兵士たちの精神を確実にすり減らしていた。
「クソッ……! クソがぁっ!!」
突如、ヴォルフが立ち上がり、血の滲む拳で洞窟の岩壁を力任せに殴りつけた。
「なんで俺たちが、こんな惨めな目に遭わなきゃならねえんだ! 圧倒的な力で、すべてを支配できるはずだったのに……。ここでは俺の火力すら、ただの爆竹扱いだ! 冗談じゃねえ、こんな泥水すするような生活、もうたくさんだ!」
ヴォルフの怒声が虚しく反響する。
シオンはさらに強く膝を抱え込み、顔を伏せた。
「……もう、終わりなのかもしれませんね。食料も水もない。通信も繋がらない。私たちは、誰にも知られずにこの名もなき森で朽ち果てるんです。……規律も、誇りも、すべて失って」
二人の心が完全に折れかけた、その時だった。
洞窟の入り口から、バシャバシャと泥水を跳ね上げる重い足音が近づいてきた。
「……生きることを諦めるなと、教えたはずだ」
雨に打たれ、全身を泥だらけにしたジン・クロサワが、暗闇の中から姿を現した。
彼の右手には高周波ブレードが握られ、左手には、六本足の巨大なイグアナのような、奇妙な未知の獣の死骸が引きずられていた。
さらに、彼の背部スラスターのノズル部分には、巨大な葉を丸めて作られた即席の容器が括り付けられており、中には雨水がたっぷりと溜まっていた。
「隊長……それは……」
シオンが信じられないものを見るように目を丸くする。
ジンは獣の死骸を洞窟の床に無造作に投げ捨てると、葉の容器に入った泥水を、PM-ギアの腕部に備え付けられた極小のサバイバルフィルターへと流し込んだ。
プシューという音と共に不純物がろ過され、わずかばかりの透明な飲料水が精製される。ジンはそれを携帯用の水筒に移し、まずシオンへ、次にヴォルフへと手渡した。
「飲め。少し泥臭いが、毒は抜いてある」
「あ、ありがとうございます……」
シオンは震える手で水筒を受け取り、渇き切った喉を鳴らして水を飲んだ。
ヴォルフも無言で水筒を奪い取り、一気に喉へ流し込む。
ジンは息をつく暇もなく、持参した獣の肉をブレードで解体し始めた。
「火を起こすエネルギーは惜しい。生で食うぞ」
ジンは切り分けた赤黒い肉片を、ヴォルフとシオンの前に差し出した。
強烈な血の匂いと、得体の知れない獣の肉。
「……こんなもの、食べられるわけが……っ」
シオンが口元を押さえ、吐き気を催して顔を背ける。
だが、ジンは容赦しなかった。
彼はシオンの肩を強く掴み、その瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「食え。吐いてでも胃に流し込め。人間としての尊厳や誇りなんてものは、地球に帰ってからいくらでも取り戻せる。今は、泥をすすってでも、獣に身を落としてでも生き延びるんだ」
ジンの声は低く、しかし決して揺らぐことのない鋼鉄の意志に満ちていた。
彼は自らも血の滴る肉片を口に放り込み、顔をしかめることもなく噛み砕いて飲み込んだ。
そして、インナーのポケットから、防水ケースに入った一枚の写真を取り出した。サエとリクの笑顔が映った、あの写真だ。
「俺は帰る。何があっても、どれほど無様な姿を晒そうとも、必ず生きて彼らの元へ帰る。そのために必要なのは、絶望することじゃない。次の一歩を踏み出すための熱量だ」
ジンは写真を大事にしまい込むと、再び二人を見渡した。
「お前たちも、このままここで死にたいわけじゃないはずだ。生き残るための渇望を燃やせ。俺が必ず、お前たちを地球へ連れて帰る」
その言葉に、ヴォルフはギリッと奥歯を噛み締め、差し出された生肉をひったくるように手に取った。
「……ああ、そうだな。こんなところで野垂れ死ぬなんて、俺の柄じゃねえ」
ヴォルフは獣のような目で肉を睨みつけ、無理やり口に押し込んで咀嚼を始めた。
シオンもまた、震える手で肉片を掴んだ。
「……泥をすすってでも、生き残る。正義を果たすのは、生きて帰ってからですね」
彼女は涙を浮かべながらも、意を決して肉を飲み込んだ。
ジンの強靭な意志が、崩れかけていた部隊の心を再び一つに繋ぎ止めた。
しかし、精神論だけで乗り越えられない物理的な壁が存在するのも事実だった。
「素晴らしい精神力だ、ジン。君のその生存本能には、科学者として純粋な敬意を表するよ」
洞窟の最奥から、パチパチと携帯端末のキーを叩く音が響いた。
東郷創一博士である。
彼はこの三日間、疲労困憊の三人とは対照的に、不気味なほどの集中力で周囲の環境データの解析と、システムの書き換えを続けていた。
「だがね、精神論だけではギアのエネルギー枯渇は防げない。このままでは、あと半日もすれば粒子金属の流体制御システムは完全に沈黙し、君たちの装甲はただの重しと化すだろう」
東郷は端末の画面をジンたちに向け、薄暗い洞窟の中でニヤリと笑った。
「しかし、安心してくれたまえ。打開策は用意した。先ほど、パッチプログラムが完成したところだ」
「パッチプログラム……? 何をする気ですか、博士」
ジンが眉をひそめる。
「このエルドラの大気中には、地球には存在しない未知のエネルギー……いわゆる『魔力』が極めて高い濃度で充満している。私はこの三日間、その魔力の波長を解析し、PM-ギアのコアユニットが吸収できる周波数へと変換するアルゴリズムを構築した」
東郷は自慢げに眼鏡を押し上げた。
「つまり、この大気中の魔力を、直接PM-ギアの代替エネルギーとしてシステムに取り込むプログラムだ。これが成功すれば、君たちはこの世界にいる限り、半永久的な動力源を手に入れることになる」
「本当ですか!? なら、今すぐ俺のギアにそれをインストールしてくれ!」
ヴォルフが身を乗り出し、目に希望の光を宿した。
だが、東郷はゆっくりと首を振った。
「待て、ヴォルフ。これは諸刃の剣だ。……元々、PM-ギアは地球の純粋な電気と粒子エネルギーで駆動するように設計されている。そこに、物理法則を無視した未知の『魔力』を無理やり流し込むのだ」
東郷の表情が、冷徹な科学者のそれに変わる。
「ギアのコアと、君たちの肉体は生体リンクで繋がっている。変換された魔力は、装甲だけでなく、君たちの神経網を直接経由してシステム全体に行き渡る。……想像してみてくれたまえ。全身の血管に、沸騰した鉛を流し込まれるような激痛を」
その言葉に、ヴォルフとシオンは息を呑んだ。
「肉体が耐えきれずにショック死する可能性は低いが、精神が崩壊しない保証はない。……誰か、最初にテスト・パイロットになってくれる者はいるかな?」
「俺がやる」
迷うことなく声を上げたのは、ジンだった。
「隊長! 危険すぎます!」
シオンが止めるのも聞かず、ジンは東郷の前に進み出た。
「俺のギアに繋いでくれ、博士。どのみち、このままエネルギーが尽きれば俺たちは全滅だ。リスクを恐れている余裕はない」
「……いい覚悟だ。では、インストールを開始する。コアの接続ポートを開いてくれたまえ」
ジンは自らのベルトのポートを開き、東郷の端末から伸びるケーブルを接続した。
「いくぞ。魔力強制変換パッチ、実行」
東郷がエンターキーを叩いた瞬間。
「っ……!!」
ジンの全身が、目に見えない巨大な万力で押し潰されたように跳ね上がった。
ベルトのコアユニットが、これまでにない異様な駆動音を立て、赤色の点滅から、禍々しい紫色を帯びた青色へと強烈に発光し始める。
「があああああああっ!!」
ジンは膝をつき、喉が裂けるほどの絶叫を上げた。
東郷の警告は正しかった。
大気中の魔力がギアを通じて体内に流れ込んでくる感覚は、まるで無数の焼け火箸を全身の神経に直接突き立てられ、内側から細胞を焼き尽くされるような想像を絶する激痛だった。
視界が白く飛び、呼吸の仕方を忘れ、心臓が早鐘のように狂った鼓動を打つ。
「隊長! 隊長ォッ!!」
ヴォルフとシオンが叫び、駆け寄ろうとするが、ジンから放たれる凄まじい魔力の余波に弾き飛ばされてしまう。
「耐えろ、ジン! ここで意識を手放せば、生体リンクが焼き切れて廃人になるぞ!」
東郷の冷酷な声が、遠のく意識の中で響く。
(帰るんだ……俺は……!)
ジンは血の滲むような力で両拳を握り締め、床の岩盤を砕かんばかりに食いしばった。
サエの顔が、リクの声が、脳裏を駆け巡る。
こんな痛みに負けてたまるか。家族を置いて、こんな泥にまみれた洞窟で終わってたまるか。
「ぐっ、うおおおおおおおっ!!」
数分か、あるいは数時間にも感じられた無限の拷問の果て。
不意に、全身を駆け巡っていた激痛が、一本の太い奔流となって丹田のあたりに収束していく感覚があった。
荒れ狂っていた魔力が、PM-ギアの粒子金属のシステムと完全に同調し、新たな「血液」として循環を始めたのだ。
「……ハァッ……ハァッ……ハァッ……」
ジンは大量の脂汗を流しながら、両手をついて荒い息を吐いた。
彼の腰のベルトは、もはや赤く点滅していない。安定した、しかし地球にいた頃よりも遥かに凶悪な紫電を帯びた光を放っている。
「……インストール、完了。生体バイタル、安定値に移行」
東郷が端末の画面を見て、満足げに頷いた。
「見事だ、ジン。君の執念が、未知のエネルギーを捻じ伏せたよ」
ジンはゆっくりと立ち上がった。
全身の筋肉が悲鳴を上げているが、ギアから供給されるエネルギーの力強さは、地球にいた頃の比ではない。まるで、この世界そのものの力を味方につけたような万能感すらあった。
「……成功だ。エネルギーの充填を、確認した」
ジンは血走った瞳で、呆然としている部下たちを見た。
「次は、お前たちの番だ。……歯を食いしばれよ」
その夜、洞窟にはヴォルフとシオンの絶叫が交互に響き渡った。
しかし、彼らもまた、ジンの背中を追いかけるようにその激痛を耐え抜き、新たな力に適合することに成功した。
生き残るためのエネルギーは確保した。
あとは、この果てしない密林を抜け、この世界の全容を掴むだけだ。
「明日の朝、ここを出るぞ」
ジンは静かに、しかし燃えるような声で宣言した。
生存への渇望は、彼らを絶望の底から引きずり上げた。
だが彼らはまだ知らない。この新しく手に入れた魔力の力が、後に彼らの運命を大きく狂わせる引き金になるということを。




