賽の目
愛することの難しさは、証明が難解であると同時に簡単な感情であることだと思う。
簡単に崩れる人間の身体を蝕んでいく、それこそ毒のような。こんなにも衝動である愛おしさが、こんなにも表現することが難しく、わたしは無力だと思い知らされる。
軍を率いる者として、こう力があると言うのに。何を恐れているのだろう。抱き締めることすら難しく感じてしまう、呼吸が浅くなる。苦しいのだ。
抱き締めたい、抱き締めてはいけない、抱き締めたい、抱き締められない、抱き締めたい、抱き締めてほしい。
優しかった母親はたった毒薬でわたしを忘れて人形を娘だと愛するようになった。わたしはそうなりたくないのだ。
たった毒薬であの子へのこの痛いほど昂る気持ちを忘れたくない。わたしはこんなにも愛しているのに、いつか気が狂ってあの子を忘れてしまうのが怖い。こんなにも…こんなにも動悸がするほど、目の奥が熱いほど、愛しているのに。たった毒薬ひとつで、全てがなくなってしまうなんて。
「お姉様…どうしたのですか?」
茶を淹れてくれたチヅナが戻ってきた。こんな顔を見せる訳にはいかず咄嗟に顔を背ける。
チヅナは察しのいい子でわたしの心を時々覗いてくるような、見透かされているような、そんな気持ちになる。
真っ直ぐわたしを愛する瞳、愛することを恐れていない瞳、愛と共に死ぬ覚悟のある瞳。
こんなにも愛されているのに、愛されているから、酷く不安定で弱いわたしの愛を覗かれたくない。チヅナの指も髪もその身体ひとつ全て口付けさえわたしの物なのに。どうしてわたしはこんなに不安なのだろう。「何もない…」そう呟くのが精一杯だった。
チヅナは柔らかく微笑んで、「そうですか」とだけ言った。堪らなくなってわたしはチヅナを抱き締める。
…ああ、あたたかい。
こんな小さくてあたたかい子に、わたしは自分の不安を押し付けている。
愚かだ。
ゆっくりわたしの背中を撫でる小さな小さな手、わたしが幼い頃から知っている手、昔はわたしがよく撫でてやっていたのに。いつの間にこの子はこんなにも強く美しい女性になったのだろう。ずっと共にあった筈なのに、この子が大人でひとりの女性で、わたしはこの子の“普通”の幸せを奪っていると馬鹿馬鹿しくもたった今気がついた。
「お前は...幸せになりたくないのか」つい出た言葉だった、チヅナはやはり微笑んで「幸せの場所をお姉様はどこだと思いますか」とわたしに抱き締められながら聞く。「幸せの、場所…?」疑問に腕を緩めたわたしに、チヅナは少し身体を離して、わたしの心臓を指差した。「わたしの幸せの場所はここにあります」
ああ、何とわたしは愚かだったろう。こんなにも愛されているのに、こんなにも愛を受けているのに気がつかないふりをしていた。
いつかなどあるかも分からないことに気を取られて、今愛されていることを見失っていた。過去そうある人がいたからと言ってわたしがそうとも限らないのに、来る遠い未来そうであろうと、わたしが今愛を受けていることは変わらないのに。
愚か者がここに一人いることが何とも馬鹿馬鹿しく、それがわたしなのが恐ろしい。この子がわたしを命として愛してくれるなら、わたしはこの子を命として愛するべきだ。心臓を赤い糸で結びつけて、離れたら破して死ぬように繋ぎ止めるべきなのだ。
真っ直ぐチヅナはわたしを射貫く、翡翠の瞳が。そこに存在している感情全てがわたしに注がれていて。わたしはどうしようもなくそれに溺れていたかった。“奇跡”とも言えるチヅナからの愛を全てわたしが独占している事への罪悪感と優越感でめちゃくちゃだった。
そうか、“奇跡”なのか、愛すると言うことは。奇跡の積み重ねが愛なのだと言うのなら、わたしは…。柔らかなチヅナの唇に指を触れた。「お前はわたしの物だ」…そう、奇跡の積み重ねが愛だと言うのなら、わたし以外を愛する奇跡を踏み潰すだけだ。お前はわたしの物だ、チヅナ。愛の場所の、わたしの答えはこれだ。“奇跡”など不確かなものの場所に愛があるとしたら、わたしが全てを“奇跡”でななくしてみせる。
賽の目を何度振っても唯一の1が出るようにしてみせる。わたしがお前一人を愛するように、お前もわたし一人を愛するがいい。
愛は消えない。
わたしが、そうするのだから。




