第9話 生肉
日が落ち、辺りが完全に暗闇に包まれ始めた頃。
アリエラは手頃な洞穴を見つけると、無言のまま足を止めた。
手早く枯れ枝を集め、火打ち石で器用に火を起こす。
パチパチとはぜる焚火の音が、静まり返った洞穴に虚しく響く。
俺とアリエラの間には、昼間の大喧嘩からずっと、重苦しく気まずい沈黙が流れていた。
彼女は俺の存在などすっかり消え去ったかのように振る舞い、一切話しかけてこない。
視界の隅で揺れる炎を見つめるばかり。
だが、このままずっと無視され続けるのは、定食屋の看板店員として培ってきた俺のコミュ強精神が許さないし、何より居心地が悪すぎる。
俺は意を決して、脳内で彼女に向かって語りかけた。
〈なぁ、アリエラ。怒ってるのは分かるけど、少しだけ俺の話を聞いてくれないか?〉
(……)
〈俺、元の世界じゃ魔法使いでも学者でもなくて、ただの定食屋の厨房で働く料理人だったんだ。毎日、腹を空かせた客に美味い飯を作って、笑顔を見ながら働くのが生きがいだった〉
アリエラは無言のまま、木の枝で火の勢いを調整している。
だが、共有している聴覚を通じて、俺の声は確実に彼女の精神に届いているはずだ。
〈ある日、車道に飛び出した常連の子供を助けようとして、トラックに轢かれて死んだ。そしたらヒゲもじゃの神様が現れて、『大賢者にしてやる』なんて言うから喜んだのに……蓋を開けてみれば、こんな風に君の頭の中に閉じ込められるなんて、俺だって思ってもみなかったんだよ〉
言い訳じみているかもしれない。
だが、俺が悪意を持って彼女を騙していたわけではないことだけは、どうしても伝えておきたかった。
しかし、アリエラからの返事はない。
ただ炎を見つめる彼女の蒼氷色の瞳には、一切の感情が浮かんでいなかった。
+++
やがてアリエラは、持っていた麻袋から今日の狩りで得た魔獣ブラッドボアの肉塊を取り出した。
それと、道中でむしり取ったらしい、泥のついたままの野草。
えっ、まさか。
「食事など……腹に入れば同じ。私が味を楽しむ資格なんてない」
ぽつりと独り言のように呟くと、彼女は唯一持っていた粗塩を乱暴に肉へかけ、肉塊を直接口元に運んだ。
血抜きすらされていない臭い生肉と、泥付きの野草を一緒に口へ放り込み、無表情のままバリバリと噛み砕き始めた。
その瞬間、俺の味覚に前代未聞の地獄が訪れた。
ブワッと鼻を抜ける、強烈な獣の生臭さ。それに加えて野草の土臭さと暴力的な苦味が、舌の上で最悪のハーモニーを奏でる。
ドロリとした血生臭い液体が喉を通っていく感触に、俺の精神が悲鳴を上げた。
〈やめろぉぉ!舌への冒涜だ!!〉
俺は脳内で絶叫した。
〈お前、自分が何食ってるか分かってんのか!?生肉だぞ!?寄生虫とか腹痛とか以前に、不味すぎるだろうが!ジャリジャリ言ってんだろ!〉
(……)
アリエラは顔をしかめることすらなく、淡々と咀嚼を続けている。俺の必死の抗議は完全に無視だ。
〈おい、その腰の短剣を寄越せ!……いや、俺の手は動かんから、あんたが切れ!頼むから火を通させてくれ!〉
俺がいくら喚いても、アリエラは聞こえないフリをして、二口目、三口目と生肉を頬張っていく。
地獄。ここは紛れもなく地獄だ。
味覚を共有している俺への、無言の報復なのだろうか。それとも、本気で味を感じていないのか。
いずれにせよ、料理人としての俺の矜持がズタズタに引き裂かれていくような感覚だ。
+++
生肉の拷問がようやく終わり、アリエラは焚火の前に体育座りをして丸まっていた。
俺の舌には、まだ最悪の生臭さがべったりとこびりついている。
絶望的な気分のまま、ふと考えた。
これだけ俺に対して失望し、怒り狂ったというのに、アリエラは俺を追い出そうとはしていない。
一生に一度しか使えないスキルと言っていた。
返品や削除ができないなら、俺の声をブロックして「完全に無視し続ける」という選択肢もあったはずだ。
それでも彼女は、俺の声を受け入れ、味覚まで共有したままでいる。
もしかして、どうしていいか分からないだけじゃないのか。
孤独を極めた彼女にとって、頭の中に住み着いた俺の存在は、邪魔であると同時に、唯一繋がってしまった「他者」なのだ。
膝を抱える彼女の姿は、剣聖勇者という肩書きに似合わず、年相応の少女のように小さく見えた。
〈アリエラ〉
俺は、できるだけ優しく、穏やかな声で語りかけた。
〈俺のこと、追い出さないでくれてありがとな〉
(……追い出せないだけよ。返品も削除もできない。今となっては呪いのスキルよ)
おおっ!
ついに返事が来た。
敬語じゃなくなっちゃったけど。
脳内に響く声のトーンは刺々しいが、無視されるよりは百倍マシだ。
〈呪いのスキルってヒドいな。でも、俺だってこのままずっと、君の脳内で気まずいまま過ごしたくないんだ。君との関係が、このまま冷え切ったままで終わるのは、生肉よりも後味が悪いっていうか……〉
(で?ポンコツ大賢者様は、私にどうしろと?)
〈だから、歩み寄ろうぜ。魔法の知識はゼロだし、戦闘のアドバイスはできないかもしれない。でも、俺には料理の腕がある。
あんたのその悲惨な食事事情を、俺が変えてやる〉
(……食事など、ただの栄養補給にすぎぬ。味が変わったところで、戦いには何の影響も……)
〈さっきの生肉食って君の食に対する考えはわかったけどよ。いいから、一度だけでいい。騙されたと思って、俺の言う通りに動いてみてくれ。絶対に後悔させないから〉
アリエラはふいっと顔を背けたが、ほんの少しだけ迷うような素振りを見せた。
火の粉がパチリと爆ぜ、彼女の横顔を赤く照らす。
(……どうせ、戦闘では役に立たないのだから。勝手にしてくれ)
言葉は相変わらず冷たかったが、彼女の心がほんのわずかに開いたのがわかった。
まだふてくされてはいるものの、アリエラはしぶしぶ立ち上がり、腰の短剣に手をかけた。
よし、定食屋の意地、見せてやんよ。




