第36話 絶対防御
瘴気が渦巻く巨大な地底湖の奥。
俺たちはついに、常世の魔王軍・四天王の一角が潜む最深部へと足を踏み入れた。
そびえ立っていたのは、全高四メートルを超える異形の巨躯だ。
深海と鉱石の黒漆色を帯びた重厚な超硬質外殻に全身を包み、不気味な紅蓮の複眼をこちらに向けている。
暴食の甲殻公、ゼルギウス。
その圧倒的な威圧感を前にして、アリエラが白銀の大剣を強く握りしめる。
(……ゼルギウス。かつて、私が一人で挑んで、手も足も出ずに逃げ帰った相手……)
〈なんだって?お前、こいつと戦ったことがあるのか?〉
(ええ。駆け出しの頃、無謀にも一人で挑んだわ。でも、私の力任せの剣撃は傷一つつけられなかった。あの桁違いの強さを前に……私は恐怖で逃げ出すしかなかったのよ)
アリエラの心拍数が跳ね上がり、呼吸がわずかに乱れる。
過去の敗北の記憶が、彼女の体に染み付いた恐怖を呼び覚まそうとしていた。
「フハハハッ!どこかで見た顔だと思えば、かつて我が殻の前で無様に逃げ惑った羽虫ではないか」
ゼルギウスの腹の底に響くような嘲笑が、地底湖を震わせる。
「今度は弱々しい羽虫どもを引き連れて戻ってきたか。だが無駄だ。我が絶対の殻の前では、貴様らの足掻きなど徒労に終わる!」
「……羽虫かどうか、試してみなさい!」
アリエラが恐怖を振り払うように地を蹴った。
同時に、仲間たちも一斉に動く。
しかし、ゼルギウスの全身から青白い魔力が噴き出した。
「『金剛甲殻・万象無窮』!」
魔力が外殻の継ぎ目に循環し、完全な絶対防御陣が展開される。
チェルシーの放った短剣も、アリエラの渾身の斬撃も、甲高い音を立てて完全に弾き返された。
物理無効の凶悪な装甲だ。
「にゃあっ!?硬すぎるにゃ!刃が全く通らないにゃ!」
「くっ……私の酸のポーションも、表面の魔力で霧散してしまいます!」
驚愕するチェルシーとリコに向けて、ゼルギウスが右腕の巨大な鉄塊鋏を大きく振り上げた。
「潰れよ!『巨塊粉砕鋏』!」
「させんッ!」
ガルブレイスが前に飛び出し、大盾でその一撃必殺の破砕攻撃を受け止める。
ズガァァァァンッ!!
鼓膜が破れそうな轟音とともに、ガルブレイスの巨体が後方へと大きくすっ飛ばされた。
「ガルブレイス!」
「ぐぅっ……構うな!だが、このままではジリ貧だぞ!」
最初から完全に押し込まれている。
かつてアリエラが絶望した、難攻不落の要塞。
強固な外殻に覆われた巨大甲殻型幹部の前では、どんな力技も通用しないのだ。
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(ダメだわ……やっぱり、硬すぎる。私の力じゃ、あの装甲はどうやっても……)
アリエラの心に、再び過去の絶望が暗い影を落とし始めたその時。
俺の視覚、いや、料理人としての魂が激しく震え上がった。
胸部装甲の隙間から漏れ出ている高密度の魔力蒸気。
あれは間違いなく、極上のミソが煮え滾る芳醇な匂いだ!
〈おいアリエラ!お前ら何をビビってんだ!〉
(シ、ショーヤン!?だって、あんな物理無効のバケモノ……)
〈バケモノじゃねえ!あいつはただの『極上の出汁が出る超特大ズワイガニ』だ!!〉
(…………は?)
アリエラの思考が完全に停止した。
恐怖も絶望も、俺のあまりにも場違いな叫びの前に吹き飛んでしまった。
〈よく見ろ!あの殻の内側には、極上の身と濃厚なミソがパンパンに詰まってるんだぞ!〉
(カ、カニ……?四天王が、カニ……!?)
〈そうだ!いくら外殻が硬かろうが、甲殻類には絶対に曲げるための関節と『継ぎ目』がある!俺の言う通りに刃を入れろ。あんな立派なカニ、食べなきゃ罰が当たるぜ。絶対に食べるために綺麗にさばいてやる!〉
俺の言葉に、アリエラの蒼氷色の瞳に再び強い光が宿った。
そうだ。力で砕けないなら、料理の要領で解体してしまえばいい。
(……わかったわ、ショーヤン。あなたの目利き、信じるわ!)
アリエラは深く息を吸い込み、大剣の構えを力任せの上段から、滑らかな下段へと変えた。
〈まずは右腕の巨大鋏だ!あんな重いものを動かす根元の関節、そこの硬いスジを断てば一発で身がほぐれるはずだ!〉
(そこね!)
ゼルギウスが再び巨大鋏を振り下ろそうとした瞬間、アリエラは回避するのではなく、その懐へと信じられない速度で潜り込んだ。
そして、殻の表面ではなく、装甲と装甲が重なり合うわずかな隙間――関節の継ぎ目へと、的確に刃を滑り込ませた。
ギィィィンッ!
「ヌゥッ!?」
ゼルギウスが驚愕の声を上げた。
刃は深く入り込むことこそなかったが、魔力の循環を乱し、絶対防御陣にわずかなノイズを走らせたのだ。
「貴様……我が関節の特性を見破ったか!グヌヌヌ」
〈次だアリエラ!胸部の下、少し色が違って殻が薄くなってる場所があるだろ!あそこは脱皮の痕だ!構造上の弱点になってる!〉
(脱皮の痕……見えるわ!)
アリエラが次々と、ゼルギウスの外殻の継ぎ目や構造の死角を狙って剣を突き立てる。
そのたびに、ゼルギウスの巨体がビクンと大きく震えた。
「な、なぜだ……!?なぜ我が弱点ばかりを的確についてくる!?」
ゼルギウスの紅蓮の複眼が、驚愕から激しい怒り、そして明らかな『恐怖』へと変わっていく。
「やめろ……我が絶対の殻に傷をつけるな!二度と我を傷つけるなァァッ!」
かつて、よっぽどの屈辱的な過去があるらしいな。
そのトラウマから異常なまでに殻を硬化に特化したヤツは、構造の欠陥を指摘されることほど恐ろしいものはなかったのだろう。
トラウマを抉られたゼルギウスは完全に冷静さを失い、激しいプライドの揺らぎとともに無茶苦茶に腕を振り回し始めた。
力押しの物理攻撃を仕掛けてくる敵を余裕で見下していた先ほどの傲慢さは、そこにはもう無い。
(ショーヤン、あなたの言う通りだわ。あいつはただの殻に引きこもった大きなカニよ!)
〈おう!殻を剥けばこっちのもんだ!みんなで美味しくいただいてやろうぜ!〉
恐怖を完全に克服したアリエラの口元に、不敵な笑みが浮かぶ。
ゼルギウスの猛攻は続くが、弱点を見抜いた今の俺たちには、反撃の道筋がはっきりと見えていた。




