第35話 カツ
四天王ゼルギウスの根城を目前にした岩陰で、俺たちは決戦前夜の最後の野営に入っていた。
周囲には、黒蝕の荒野の中でも一際濃い瘴気がねっとりと漂っている。
世界の命運を背負う重圧と、明日に控えた強大な敵への警戒から、アリエラや仲間たちの間には、息が詰まるほど張り詰めた重苦しい空気が漂っていた。
ガルブレイスは無言で分厚い大盾を磨き続け、チェルシーは神経質な手つきで解体ナイフの刃こぼれを確認している。
リコも火のそばでポーションの最終調整をしているが、その手は微かに震えていた。
そしてアリエラは、白銀の大剣を膝に置き、鋭く冷たい視線でただじっと暗闇を見据えている。
(……いよいよ明日ね。暴食の甲殻公、ゼルギウス)
アリエラの内心には、静かな闘志と共に、かつてないほどの緊張感が渦巻いていた。
だが、定食屋の厨房で客の笑顔を見てきた俺にとって、こんなお通夜みたいな空気で「最後の晩餐」を迎えるなんて、絶対に許せない。
〈おいアリエラ!そんな渋い顔してると、戦う前から負ける気みたいじゃないか!〉
(ショーヤン……。でも、明日はいよいよ四天王との決戦よ。気が抜けないわ)
〈だからこそだよ!重苦しい雰囲気を吹き飛ばすために、今夜はとっておきの勝負メシを作るぞ!〉
俺が元気よく脳内で叫ぶと、アリエラは小さく瞬きをした。
(勝負、メシ……?何を作る気なの?)
〈大事な戦いの前には、『カツ』を食うのが俺の故郷の鉄則なんだよ!敵に『勝つ』って意味の、最高の縁起担ぎだ!〉
(カツ……。戦いに、勝つ。なるほど、言葉遊びのまじないというわけね)
アリエラは少しだけ緊張が解けたのか、ふっと口元を緩め、立ち上がった。
「みんな、夕食の準備をするわよ。明日の決戦に向けて、縁起担ぎの『カツ』を作るわ」
「にゃ?カツってなんだにゃ?」
「わかりませんけど、アリエラさんが作るなら絶対においしいはずです!」
アリエラの声に、チェルシーとリコもパッと顔を上げ、作業に取り掛かった。
〈まずは、保存してあった魔獣肉を適当な大きさに切って、包丁の背でしっかり叩け。薄く伸ばして柔らかくするんだ〉
(ええ、任せて)
トントントントンッ!
アリエラが手際よく魔獣肉を叩き始める。リズミカルな音が岩陰に響き渡り、少しずつ野営地の空気が動き始めた。
〈リコ!そこにある特製の薬草粉と、穀物粉をブレンドして水で溶いてくれ。それが衣になる!〉
「はいっ!香り付けに、少しだけスパイスも混ぜておきますね!」
アリエラを通じた指示で、リコがすり鉢で鮮やかに粉をブレンドし、叩き伸ばされた肉にたっぷりとまとわせていく。
〈チェルシー、火の番と油の温度管理は頼んだぞ!少し高めの温度をキープしろ!〉
「任せるにゃ!油の音で温度を聞き分けるくらい、今のあたしなら朝飯前にゃ!」
チェルシーが薪の位置を素早く調整し、鉄鍋の中の油がチリチリと最適な音を立て始めた。
そこに、衣をまとった肉が次々と投入されていく。
ジュワァァァァァッ!!
パチパチと弾ける油の心地よい音と共に、香ばしい匂いが野営地いっぱいに広がった。
重苦しい瘴気の匂いは、あっという間に暴力的なまでの食欲をそそる香りに上書きされていく。
「ワンッ!ワゥン!」
その匂いにたまらず、足元で大人しくしていたクロワッサンが飛び起きた。
尻尾をちぎれんばかりに振り、アリエラが鍋から引き上げたばかりの、カラリと黄金色に揚がったカツに狙いを定める。
そして、隙を突いてジャンプし、出来立てのカツを口でくわえようとしたその瞬間――。
「ダメです、クロワッサン!」
リコが素早く身を乗り出し、クロワッサンをギュッと抱きしめて捕獲した。
「クゥ~ン……」
「お腹が空くのはわかりますけど、つまみ食いはダメです!このままでもおいしいですが、特製のタレをかけるともっともっとおいしくなるんですから!最高の一口のために、ここは我慢することも大切なんですよ!」
リコに真面目な顔で説教され、クロワッサンはシュンと耳を伏せた。
その微笑ましい光景に、張り詰めていた仲間たちの顔から、自然と笑みがこぼれた。
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〈よし、揚がったぞ!仕上げに、柑橘の絞り汁とカウナスの地下塩を合わせた即席タレをたっぷりとかけろ!〉
アリエラが揚げたてのサクサクしたカツに、爽やかな酸味のあるタレを回しかける。
ジュッ、と衣がタレを吸い込む音が鳴り、全員の喉がゴクリと鳴った。
「さあ、冷めないうちにいただきましょう。明日の勝利を願って!」
「「いただくにゃ(です)!」」
チェルシーが真っ先にカツを木皿に取り、大きな口でかぶりつく。
「にゃふふっ!あふい!でも、衣がサクサクで、中からお肉の脂がジュワッて出てきて……最高だにゃ!」
案の定、重度の猫舌と格闘しながら、それでもハフハフと涙目で頬張っている。
リコも、フーフーと息を吹きかけながら小さく口に運んだ。
「んんっ……!この柑橘のタレと地下塩の甘みが、油のしつこさを完全に消してくれています!サッパリしていて、いくらでも食べられちゃいます!」
「敵に『勝つ』ための縁起担ぎか。フッ、ゲンを担ぐのも戦士の嗜みだな」
ガルブレイスが豪快に笑い、カツを大口で放り込みながら、傍らの木杯に注いだ酒をグイッと煽った。
「こいつはいい。重い鎧を着たまま戦うような重圧が、スッと腹の底に落ちていく気分だ。酒にもよく合う」
アリエラも、自分の分をゆっくりと噛み締める。
サクッという小気味よい音の後に、温かい油と魔獣肉の強烈な旨味が口いっぱいに広がり、冷え切っていた胃袋をじんわりと満たしていく。
(……美味しい。張り詰めていた息苦しさが、嘘みたいに消えていくわ)
美味しいものを共に囲み、腹を満たす。
それだけで、全員の肩から過度な緊張がほぐれ、代わりに明日の決戦へ向けた士気が最高潮に高まっていくのがわかった。
〈へへっ、どうだ!カツを食えば元気百倍だろ!〉
(ええ。ありがとう、ショーヤン。あなたの故郷の魔法の言葉、確かに効いたわ)
アリエラが素直に感謝を伝えると、俺は少し照れくさくなり、つい大きな口を叩いてしまった。
〈ば、バカ言え。こんなカツくらいで満足すんなよ。俺が受肉して本物の体を手に入れた暁には、こんなもんじゃない、極上の『俺の故郷の定食』を作ってやるからな!〉
(テイショク……?)
〈ああ!例えば、甘辛いタレと生姜の香りがバツグンに食欲をそそる『豚の生姜焼き』!それに、フォークを刺した瞬間に肉汁が滝みたいに溢れる熱々の『ハンバーグ』!トドメは、どんぶり山盛りの炊きたて白米と、出汁の利いた『味噌汁』だ!〉
俺が熱烈にプレゼンを展開すると、アリエラの脳内でおかしな想像図がむくむくと膨らみ始めた。
(甘辛いタレのショウガヤキ……つまり、レッドボアの肉を蜂蜜と火炎草で丸焼きにしたものね?ハンバーグは……泥肉を丸めて爆弾のように巨大化した肉塊?そしてミソシル……緑色のスライムを煮込んだ栄養満点のドロドロのスープかしら!?)
〈違う違う!お前の想像してるやつ、全部魔界の料理みたいになってるから!もっと美味そうで、繊細で、最高に白米に合うやつなんだよ!〉
俺が慌ててツッコミを入れると、アリエラはフフッと吹き出した。
だが、俺の言葉から伝わる熱量と、少しだけ共有された『定食』の匂いの記憶に、彼女は剣聖の威厳を完全に忘れて、口元からツツッとよだれを垂らしそうになっていた。
(……ふふっ。どんな料理か全然想像がつかないけれど、あなたがそこまで豪語するなら、絶対に食べさせてもらうわ)
アリエラは、パチパチとはぜる焚火の炎を見つめながら、心の中で強く念じた。
(明日は絶対に四天王を倒して、霊髄を手に入れる。そして、あなたが受肉したいつの日かその『テイショク』とやらを、私たち全員に振る舞ってもらうわよ、料理長殿)
死の恐怖よりも、明日を生き抜いて未知の美味い飯を食うという、極めて前向きな希望。
野営地に響く仲間たちの明るい笑い声に包まれながら、俺たちは決戦の朝に向けて、確かな絆を深めていた。




