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第33話 過去のトラウマ

 四天王ゼルギウスの巣窟へ向け、俺たちは『黒蝕《こくしょく》の荒野』の最深部を進んでいた。


 空は鉛色に淀み、周囲の瘴気《しょうき》はこれまでにないほど濃く、ねっとりと肌にまとわりつくようだ。


 一歩足を踏み出すごとに、嫌な汗が背中を伝う感覚が、アリエラの視覚と触覚を通して俺の脳内にも伝わってくる。


「グルルルゥ……ワンッ!」


 普段は無邪気なクロワッサンが、警戒心を剥き出しにして低く唸り声を上げた。


「アリエラ様、なんだか嫌な匂いがするにゃ……。鼻がひん曲がりそうにゃ」


「瘴気の濃度が異常です。私のポーションも、これだけ空気が淀んでいると効き目が落ちるかもしれません……」


 チェルシーが三毛の耳を伏せ、リコが試験管を握りしめながら不安げに周囲を見渡す。


「陣形を崩すな。何が来ようと、俺の盾で弾き返す」


 大盾を構えたガルブレイスが、最後尾で重低音の声を響かせた。


(ええ、彼がいれば安心できるわ。ゼルギウスの根城はもう近いはず……油断はできないわね)


 アリエラが白銀の大剣の柄に手をかけ、蒼氷《そうひょう》色の瞳を鋭く細めたその時だった。


 突然、足元から異常なほど白く濃い霧が噴き出し、瞬く間に周囲を飲み込んでいった。


「なっ……前が見えな――」


 視界が完全に白一色に染まる。


「みんな、離れないで!」


 アリエラが声を張り上げたが、返事はない。


 ほんの数歩後ろにいたはずのチェルシーたちはおろか、巨体のガルブレイスの気配すら完全に消え失せてしまった。


(えっ……嘘、みんな!?チェルシー!リコ!ガルブレイス!)


〈アリエラ、落ち着け!これは自然の霧じゃない。何かの魔法だ、索敵に集中しろ!〉


 俺が脳内で叫んだ直後、白く濁った空間に、不気味で甲高い笑い声が反響した。


「ヒヒヒ……ヒャハハハッ!孤高の剣聖と聞いていたが、仲間とはぐれただけでずいぶんと弱々しい顔をするんだねぇ」


 霧が渦を巻き、前方に奇妙な影が浮かび上がる。


 ピエロのような派手な装束に身を包んだ、痩せこけた魔族だった。


「お前は……魔王軍ね。私の仲間をどこへやった!」


「ヒヒッ、ご挨拶だねぇ。僕は四天王ゼルギウス様の部下、『幻影の道化師ミストラル』。仲間たちのことは心配いらないよ。彼らにも極上の『悪夢』をプレゼントしてあげたからねぇ。今頃、自分の過去と向き合って泣き叫んでいるはずさ」


 ミストラルがニヤァッと口角を吊り上げる。


(仲間たちにも悪夢を……!?早く助けに行かないと!)


「その前に、君自身を心配しなよ。ヒヒヒッ!」


 ミストラルが指をパチンと鳴らすと、世界がぐにゃりと歪んだ。


 強烈な目眩《めまい》に襲われ、俺とアリエラの視界が反転する。


 +++


 気がつくと、真っ白だった霧は消え去っていた。


 だが、そこは黒蝕の荒野ではなかった。


(……え?)


 アリエラの全身が、ガタガタと激しく震え始めたのがわかった。


 血の匂い。焦げた土。無惨に転がる、引き裂かれた死体の山。


〈おい、アリエラ?どうした、ここはどこだ?〉


「……フォルタの戦場……。私が駆け出しの頃に、仲間を……」


 アリエラの声が掠れ、息が荒くなる。


「ヒヒヒッ!ようこそ、君の心の奥底!僕の作り出した精神世界へ!」


 ミストラルの声が空から響き渡る。


 直後、血だまりの中から、見覚えのある白銀の鎧がゆっくりと立ち上がった。


「……アリエラ」


「かっ……カイン……?」


 立ち上がったのは、かつてのパーティーリーダー、カインの幻影だった。


 体中から血を流し、虚ろな瞳でアリエラを睨みつけている。


 彼の背後からは、同じように惨殺されたかつての仲間たちが次々と身を起こした。


「なぜ、お前だけが生きている……」


「違う、私は……っ」


 カインの幻影が、血に濡れた剣を引きずるようにして一歩近づく。


「お前の判断ミスだ。お前が未熟だったから、俺たちは死んだ」


「知識もないくせに突っ走って……私たちの命を奪った人殺し!」


「ごめんなさい……ごめんなさい……私のせいで……」


 幻影たちの言葉が、アリエラの心を容赦なく抉《えぐ》る。


 かつてのトラウマが完全にフラッシュバックし、彼女は頭を抱えて後ずさった。


「ヒヒヒッ!その通り!全ては君のせいだ、剣聖勇者サマ!誰の命も背負いたくないと逃げ回っていたくせに、またしてものこのこと仲間を作って……反吐《へど》が出るねぇ!」


〈アリエラ、聞くな!それは幻覚だ!そいつらは本物じゃない!〉


 俺は必死に脳内で叫んだが、トラウマの渦に飲み込まれた彼女には、俺の声はもう届いていないようだった。


(私が弱かったから……。知識さえあれば……私が、カインたちを……っ)


 カインの幻影が、ゆっくりと剣を振り上げる。


「お前など、仲間を作る資格はない。永遠に孤独を呪いながら、ここで死ね」


「ああ……っ」


 カインの冷酷な宣告が、彼女の精神にトドメを刺した。


 ガラン、と。


 アリエラの手から大剣が滑り落ち、冷たい金属音が精神世界に虚しく響く。


 彼女の蒼氷色の瞳から完全に光が失われ、その場に力なく崩れ落ちてしまった。


「ヒヒヒヒッ!さあ、その絶望のまま、精神ごと壊れてしまえぇ!」


 ミストラルの狂気に満ちた笑い声が響く。


 くそっ、このままじゃアリエラの心が完全にぶっ壊れちまう!


 肉体を動かせない俺にできることは、ただ声を張り上げることだけだ。


〈アリエラ!目を覚ませ!アリエラァァッ!〉

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