第32話 地獄蒸し
宿の大広間に移動すると、そこにはすでに湯上がりでさっぱりとしたガルブレイスと、彼の足元で丸くなるクロワッサンが待っていた。
卓の上には、先ほど源泉の蒸気で一気に蒸し上げた『地獄蒸し』の木籠が山のように並べられている。
「ほう……温泉の湯気を調理に使うとはな」
ガルブレイスは、もうもうと立ち上る湯気を見つめながら、感心したように太い腕を組んだ。
〈温泉の蒸気にはな、適度な塩分とミネラルが含まれてるんだ。それが食材の表面をコーティングして、旨味をギュッと内側に閉じ込める。まさに天然の圧力鍋ってわけだ〉
俺の解説をそのまま伝えたアリエラは誇らしげに微笑んでみせた。
「さあ、冷めないうちにいただきましょう。リコ特製のタレをつけてね」
「おう、いただくぞ」
ガルブレイスが分厚い魔獣肉の蒸し切りをタレにくぐらせ、豪快に口へ放り込む。
咀嚼した瞬間、彼の厳つい顔がふわりと緩んだ。
「……見事だ。焼いた肉とは全く違う、とろけるような柔らかさ。余分な脂が完全に落ちていて、いくらでも腹に入りそうだ」
そう言うと、彼は満足げに地酒の入った杯をグイッと煽った。
「にゃふふっ!あふい!でも美味しいにゃ!」
チェルシーは相変わらず重度の猫舌と格闘しながら、涙目で蒸し肉を頬張っている。
「アリエラさん、この根菜、すごく甘いです!蒸すだけで人参がこんなにホクホクになるなんて……!」
リコも、素材の旨味が極限まで引き出された野菜に目を輝かせている。
「ワンッ!」
足元では、クロワッサンが「俺にもよこせ」とガルブレイスの膝を前足で叩いている。
「わかったわかった、焦るな」
苦笑いしながら蒸し肉の端切れを投げてやると、クロワッサンは見事に空中でキャッチし、上機嫌で尻尾を振った。
卓を囲む全員の顔に、笑顔が溢れている。
過酷な戦いを前にした休息の地で、まるで昔からの家族のように和気藹々とした団欒の時間が流れていた。
かつては他者を拒絶し、一人で冷たい生肉をかじっていたアリエラが、今やこの温かい輪の中心で穏やかに笑っている。
ふと、ガルブレイスが杯を置き、真剣な眼差しでアリエラを見つめた。
「……アリエラ」
「ん?どうしたの、ガルブレイス」
「カインが目指していた場所……」
ガルブレイスの低く落ち着いた声に、大広間の空気が少しだけ静まった。
「あいつは『全員が無事に帰還し、美味い飯を囲むパーティーを作りたい』といつも言っていた。……今、俺の目の前にあるこの光景こそが、あいつが夢見ていた理想そのものだ」
ガルブレイスの言葉に、アリエラの蒼氷色の瞳が僅かに見開かれた。
「お前はもう、無鉄砲に突っ走るだけの孤独な刃じゃない。俺たちという盾や仲間に背中を預け、見事にこの理想を作り上げた。……お前は立派な、俺たちのリーダーだ」
ガルブレイスからの最大の賛辞。
かつて彼女を責め、最も深く因縁で結ばれていた男が、彼女の成長と現在のパーティーの絆を完全に認めた瞬間だった。
アリエラは目頭が熱くなるのを感じたが、気丈に微笑み、静かに首を振った。
「ありがとう、ガルブレイス。でも……私たちはまだ終わっていないわ。むしろ、これからが本番よ」
アリエラの声に、剣聖としての凛とした覇気が宿る。
「明日から本格的に魔王軍との決戦よ。かつてない強敵と出くわすはず。……でも、今の私たちなら絶対に勝てるわ」
アリエラは卓を囲む全員の顔を、一人一人しっかりと見渡した。
「必ず全員で生きて帰って……またこうして、みんなで美味いご飯を食べましょう!」
「おう!俺の盾で、お前たちに指一本触れさせはせん!」
「にゃははっ!どんな敵が来ようと、あたしが丸裸にしてやるにゃ!」
「私の特製補助魔法で、皆さんを完璧にサポートします!」
「ワンッ!」
全員が力強く頷き、杯と木皿を打ち鳴らして決戦への気合いを入れた。
+++
夜。
布団に入り、静寂に包まれた部屋の中で、アリエラは一人、天井を見つめていた。
(……ショーヤン)
〈どうした、アリエラ。緊張して眠れないか?〉
(ふふっ、少しだけね。世界の命運と、四天王という強敵への恐怖……正直に言えば、プレッシャーに押し潰されそうになるわ)
アリエラの胸の奥底にある、年相応の弱い本音。
どれほど仲間が増えて強くなっても、敵の強大さを知っているからこその恐怖は消えない。
だが、今の彼女には、その弱さを隠さずに吐き出せる相手がいた。
〈心配すんな。俺がお前の視覚をフルに使って、敵の弱点を的確に指示してやるからよ〉
(ええ。頼りにしているわ、料理長殿)
〈それに……〉
俺は、脳内の彼女の魂に直接語りかけるように、言葉に熱を込めた。
〈ゼルギウスをぶっ倒して俺が受肉して本物の身体に一歩近づく。そうなったら約束通り、俺の手で作った故郷の定食を食わせてやるからな〉
(……っ)
アリエラの心臓が、トクンと大きく跳ねたのが伝わってきた。
〈だから、絶対に生きて帰るぞ。お前も、チェルシーも、リコも、ガルブレイスも。俺が最高のフルコースで祝勝会を開いてやるから、腹空かせて待ってろ!〉
(……ええ。約束よ、ショーヤン)
重圧や恐怖といった冷たい感情が、彼女の中からすーっと消えていく。
代わりに胸を満たしたのは、「みんなで生きて帰って、ショーヤンの手料理を食べる」という、純粋で温かい生きる希望だった。
世界の命運のためでも、偶像としての勇者の義務でもない。
ただ、明日を笑って生きるための戦い。
決意を新たにしたアリエラは、静かにまぶたを閉じ、決戦の朝に向けて深い眠りへと落ちていった。




