第26話 塩むすび
エレオノーラが、恐る恐る、しかし抑えきれない本能的な渇望と共に塩むすびを口に運んだ。
ハフッ。
その瞬間、彼女の細い身体がエビ反り状態で硬直した。
凄まじい衝撃が脳天を突き抜けたのだろう。
限界まで飢餓状態にあった肉体に、純度の高い炭水化物が染み渡る。
急激な血糖値の上昇が、彼女の脳内に快楽物質をドバドバと溢れさせているに違いない。
さらに、カウナスで仕入れた『深層地下塩』の角のないまろやかな塩味が、米本来の強烈な甘みを極限まで引き出している。
「……っっっ!!」
エレオノーラはカッと目を見開き、そのまま雪解けの泥が残る地面に膝から崩れ落ちた。
高貴な法衣が汚れることなど一切気にする様子もなく、ボロボロと大粒の涙が彼女の美しい顔を濡らしていく。
「ああ……天国が見えます……!アリエラ様の慈愛が形を成した、これはまさしく『純白の聖遺物』……!」
〈おいおい、ただの塩むすびだぞ。完全に理性が飛んでさらに神格化しちゃってるじゃないか〉
俺のツッコミも虚しく、エレオノーラは恍惚とした表情で塩むすびを咀嚼する。
「手づかみで食すなどという野蛮な行為……神に仕える者としてあるまじき所業。しかし、口内でほどけるこの温かな粒立ちと、ダイレクトに脳を揺さぶる塩の刺激……なんという背徳の美味……!」
完全にマナー警察の建前は崩壊し、彼女は一心不乱に二口、三口と野獣のように食べ進める。
だが、最後の一口を残したところで、彼女はハッと我に返ったように動きを止めた。
懐から仰々しい金糸の刺繍が入った布を取り出すと、残った一口分の塩むすびを、震える手で大切そうに包み始めるのだ。
「えっ、ちょっと何をしているの?」
アリエラが思わず声をかける。
「この至高の聖遺物、最後の一口は大神殿の至宝として王都へ持ち帰り、奉納して、永久保存せねばなりません。さすれば、帝国の民もアリエラ様の慈愛に涙することでしょう」
〈やめろぉ!常温で持ち帰ったらカビが生えるだろ!衛生観念どうなってんだ!〉
(……本気で言ってるから苦手なのよ、この人)
「エレオノーラ。傷むから、今すぐ全部食べなさい」
「し、しかし!このような奇跡を私一人が独占するなど……!」
「いいから」
アリエラが真顔で、かつ剣聖の圧を少しだけ込めて言い放つと、エレオノーラは「ひぐっ……」としゃくり上げながら、泣く泣く最後の一口を胃袋へと収めた。
その様子を少し離れた場所から見ていたチェルシーが、ドン引きした顔でヒソヒソとリコに耳打ちする。
「……にゃあ。やっぱり帝国の偉い人は、みんな頭のネジが飛んでるにゃ。おにぎり一個で泣きながら天国を見てるにゃ」
「ええ。長期間の過度な断食で脳に栄養がいっていないところに、急激な糖分摂取によるスパイクが起きて、一種のトランス状態に陥っているだけですね。後でお薬を出しておきましょう」
リコが眼鏡を光らせ、処方箋を出すような冷静さで頷いている。
そこへ、空気を読まないクロワッサンが「俺にも飯をくれ」とばかりにアリエラにすり寄った。
アリエラが手についた米粒を少しだけ分けてやると、クロワッサンは嬉しそうに尻尾を振って舐め取った。
それを見たエレオノーラが、再びギリィッと首飾りの神具を握りしめ、血の涙を流さんばかりの目でクロワッサンを睨みつける。
「神の御手の残滓を、幻獣ごときが……!許せません、次にあの御手から直接賜るのはこの私の役割……っ!」
〈いや、お前はワンコのポジションを狙ってるのかよ!どんだけアリエラ推しなんだ!〉
(……もう、疲れたわ)
アリエラは頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。
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しかし、究極の塩むすびによって完全に胃袋と理性を掌握されたエレオノーラは、すっかり憑き物が落ちたようでもあり、さらに別のヤバい何かが憑いたようでもある晴れやかな顔で立ち上がった。
「アリエラ様。私は愚かでした。前線での過酷な戦いを支えるため、アリエラ様が自らこのような『聖なる食』を実践されていたとは。これぞまさしく、神の剣に相応しい清らかなる振る舞い」
彼女は深く頭を下げ、恭しく胸に手を当てた。
「アリエラ様の御身と、その聖なる食を裏から支えることこそ、我が至高の使命と開眼いたしました!今後は教会組織を通じ、天命として『聖遺物供給任務』を己に課し、最高級の食材支援と政治的根回しの全てをこのエレオノーラめに努めさせていただきます!」
「え?いや、別にそんな大げさなことじゃ……」
「どうかご安心を!アリエラ様の『堕落』などという不敬な噂は、私が王都の異端審問官を総動員してでも握り潰してみせます!裏から食糧支援を行う隠れシンパとして、粉骨砕身の覚悟です!それでは、新たな物資の手配がありますので、これにて!」
エレオノーラは目をキラキラと輝かせながら、護衛たちを引き連れて嵐のようにフォルタ要塞を去っていった。
見えなくなった一団を見送りながら、アリエラはふうと長く息を吐き出した。
(……嵐のような人だったわね。まさかおにぎり一つで、裏から食糧支援や政治的根回しを行う隠れシンパになってくれるなんて。頼んでないけど)
〈まったくだ。でもまあ、これで最高級の食材がタダで手に入るなら、結果オーライじゃないか?〉
俺が脳内で笑いかけると、アリエラはふっと口元を緩めた。
かつての彼女なら、エレオノーラのような「自分を神の剣として縛り付ける存在」に対して、心を閉ざし、息苦しさを感じて拒絶するだけだっただろう。
大衆の期待を背負わされ、完璧な偶像でいなければならないという強迫観念。
それが彼女を孤独な一匹狼へと追い詰め、このフォルタ要塞で仲間を失ったトラウマをより深いものにしていたのだから。
だが今、彼女の心は驚くほど軽かった。
自分を縛る元凶だった聖女に対し、自然体で自ら握った食事を勧めることができた。
ただ一緒に飯を食う。
それだけで、肩書きも立場も関係なく、人と人は和解できるのだと知ったのだ。
「……ええ。なんだか、重い鎧を一つ脱ぎ捨てたような気分よ」
過去の亡霊と、偶像としての重圧が渦巻く因縁の要塞。
その重苦しい檻の中から、アリエラは静かに、しかし確かな足取りで一歩外へ踏み出していた。




