第24話 白湯スープご飯
アリエラがゆっくりと近づくと、幼いシャドウ・フェンリルは雪に震えながらも、小さな牙を剥き出しにして低い唸り声を上げた。
傷つき怯えて威嚇しているのだ。
「大丈夫よ、もう怖くないわ」
アリエラが手を伸ばそうとするが、子狼はビクッと体を強張らせる。
「アリエラ様、待つにゃ。こういう時はあたしに任せるにゃ」
追いついてきたチェルシーが、大剣を納めたアリエラの前に立ち、しゃがみ込んでゆっくりと子狼に近づいた。
獣人であるチェルシーは、野生の警戒心を解く術を心得ている。姿勢を低くし、敵意がないことを示すようにゆっくりと瞬きをしながら、優しい声で語りかける。
チェルシーが警戒を解いたことで、子狼の唸り声が次第に小さくなっていった。
(……今なら)
アリエラはそっと手を伸ばし、冷え切った小さな体を優しく抱き上げた。
その体は氷のように冷たく、小刻みに震えている。
〈こいつ、寒さと空腹で限界ギリギリだぞ。アリエラ、さっき倒したフロストベアの骨と肉で、体を芯から温める飯を作ろう!〉
(ええ、お願い、ショーヤン!)
すぐさま雪原の風を避けられる岩陰に陣取り、調理を始めた。
〈魔獣の太い骨は、鉈で叩き割ってから鍋に放り込むんだ。骨の髄から濃厚な出汁が出る。血抜きした肉の切れ端と、カウナスで買った香草も一緒に強火でガンガン煮込め!〉
アリエラの腕力で真っ二つに割られたフロストベアの骨から、濃厚な旨味成分が溶け出し、鍋の中のスープはあっという間に白濁していく。
〈よし、乳白色になったら塩で味を調える。そこに、携帯用の干し飯を投入して柔らかく煮るんだ。ショーヤン直伝、『魔獣骨の白湯スープかけご飯』の完成だ!〉
熱々に煮込まれた白湯スープご飯を少し冷まし、木皿に取り分けて子狼の鼻先に置く。
最初は警戒していた子狼だったが、濃厚な骨髄の匂いに鼻をヒクつかせると、たまらずペロリと一口舐めた。
その瞬間、黄金色の瞳がカッと見開かれた。
ハフッ、ハチャチャッ、ガツガツガツッ!
子狼は顔を皿に突っ込むような勢いで、無我夢中でスープご飯を平らげていく。
〈へへっ。どんな凶悪な幻獣だって、空腹時の温かいおじやの魅力には抗えねぇんだよ〉
お腹がパンパンになるまで食べた子狼は、小さく息をついてアリエラの膝元で丸くなった。
アリエラは子狼の背中を撫でながら、ふと視線を雪山の吹雪へと向けた。
「……親や群れはどうしたのかしら。近くにいるなら、返してあげないといけないわね。ママが探しているかもしれないわ」
アリエラの言葉に、チェルシーが周囲の雪原を見回したが、首を横に振る。
すると、荷物を降ろしていたリコが悲しげに眉を伏せて口を開いた。
「……アリエラさん。おそらく、親を探しても見つからないと思います」
「どういうこと、リコ?」
「シャドウ・フェンリルは、単体で二百年の時を生きる孤高の幻獣です。ですが文献によれば……その生涯で一度だけ子を産み落とす際、己のすべての魔力と生命力をその子へ注ぎ込み、産み落とすと同時に親は命を落とすと言われています。この子は……生まれた時から、この過酷な雪山でたった一人きりなんです」
「生まれた時から、一人……」
アリエラの息が止まった。
己のすべての力を注ぎ、命と引き換えに遺された幼い命。
守る親も仲間もおらず、寒さと飢えの中で孤独に死にかけていたその姿が、かつて仲間を失い、一人で凍えながら心を閉ざしていた過去の自分と重なり合っていく。
(……一人で、ずっと怖かったわね)
アリエラの胸の奥に、痛いほどの愛おしさと強い共感が込み上げてくる。
彼女はそっと膝を折り、丸まっていた子狼の目線まで顔を近づけた。
蒼氷色の瞳をかつてないほど優しく細め、語りかける。
「ねえ。……もし行く宛てがないのなら、私たちと一緒に来る?私の仲間になってくれるかしら」
子狼はアリエラの言葉を理解したかのように、じっとその瞳を見つめ返した。
そして、先ほどの威嚇が嘘のように「クゥン」と甘えた声を漏らすと、アリエラの差し出した指先に小さな鼻を擦り寄せ、ちぎれんばかりに尻尾を振って激しく懐いてみせた。
「ふふっ……くすぐったいわ」
アリエラは珍しく声を立てて笑い、愛おしそうに子狼を抱き上げた。
その様子を見ていたチェルシーが、ふにゃりと顔を綻ばせる。
「すっかりアリエラ様に懐いたにゃ!腕の中で丸まって、なんだか三日月みたいな形にゃ」
〈丸まった姿……よし、今日からお前の名前は『クロワッサン』だ!〉
(クロワッサン……。ショーヤンらしい、おいしそうで温かい名前ね)
アリエラがその名を呼ぶと、クロワッサンは「ワンッ!」と元気よく吠えて応えた。
本来は災害級の幻獣だが、こうして正式に家族のような仲間として、パーティーに加わることになった。
「傷の手当てをしますね!」
リコが自作の軟膏を取り出し、クロワッサンの小さなかすり傷に丁寧に塗っていく。
「私のポーションは飲むと激苦ですけど、塗り薬なら痛くも苦くもありませんから!」
治療を終えると、クロワッサンは感謝するようにリコの手をペロリと舐めた。
その直後、クロワッサンがふいに雪原の匂いを嗅ぎ、鼻をヒクヒクと動かした。
キャンッ!と短く鳴くと、少し離れた雪だまりへと駆け出し、前足で猛然と雪を掘り始めたのだ。
「ど、どうしたのクロワッサン!?」
「にゃ!?何か埋まってるにゃ!?」
雪の中から掘り出されたのは、氷を纏った奇妙な形の根菜だった。
リコがそれを見て、目を丸くして叫んだ。
「こ、これ……『氷河の寿塊』と呼ばれる幻の香辛料です!雪山の地中深くにしか生えないはずなのに、どうして……!」
〈おおおっ!すげぇぞクロワッサン!お前、ただの可愛いマスコットじゃなくて、超優秀な食材探知犬じゃないか!〉
クロワッサンは「褒めて褒めて!」と言わんばかりに、香辛料を咥えてアリエラの元へ走ってきた。
「ありがとう、クロワッサン。あなたの鼻は本当に優秀ね」
アリエラはしゃがみ込み、思い切りその頭を撫で回した。
幻獣相手なら、警戒心の強い彼女も素直に可愛がることができるようだ。
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夜。
白銀の連峰の峠道にテントを張り、安全な結界の中で焚火を囲む。
クロワッサンが掘り当てた『氷河の寿塊』の爽やかな辛味が効いたフロストベアの肉鍋を平らげ、チェルシーとリコが満足そうに身を寄せ合って眠りについていた。
アリエラは焚火の前に座り、自分の膝の上で丸まってスヤスヤと眠るクロワッサンの背中を、一定のリズムで優しく撫でていた。
その表情は、かつての孤高で冷徹な剣聖からは想像もつかないほど、穏やかで柔らかなものだった。
(……ショーヤン。起きているかしら)
〈ああ、ばっちり起きてるぜ。フロストベアをおいしくいただく他のレシピを考えてたとこだ〉
俺が冗談めかして返すと、アリエラは小さく笑みをこぼした。
(私ね、ずっと怖かったの)
アリエラは、パチパチとはぜる炎を見つめながら、ぽつりぽつりと脳内で語り始めた。
(失うことを恐れて、他人に愛着を持つのをずっと避けてきたわ。チェルシーも、リコも、そしてこの小さなクロワッサンも……大切になればなるほど、また私の未熟さのせいで失ってしまうんじゃないかって、心のどこかで怯えていたの)
彼女の指先が、クロワッサンの柔らかな毛並みを梳く。
これまでずっと孤独な一匹狼として生きてきたアリエラだったが、無邪気に甘えるクロワッサンに絆されたことで、彼女の中にあった分厚い氷の壁が、完全に溶け落ちようとしていた。
(でも、今は違う。守りたいと思うものがあるからこそ、私はもっと強くなれる。……もう二度と、大切な仲間を失ったりしないわ)
仲間たちと自然に笑顔を交わすことができるようになった彼女の心は、かつての絶望を乗り越え、確かな温もりを宿している。
〈ああ、その通りだ。それに、今の君には一人で背負い込む必要なんてない。頼れる仲間と……胃袋を完璧に支える俺がついてるんだからな〉
(ええ。……ありがとう、ショーヤン)
アリエラは静かに微笑み、膝の上の小さな命をそっと抱きしめた。
かつての因縁の地、「辺境防衛領フォルタ」はもう目の前だ。
しかし、今の彼女の背中は、過去の亡霊に怯える孤独な処刑人だった頃とは全く違う、揺るぎない力強さと優しさに満ちていた。




