第12話 猫獣人
処理を終えた肉をさらに燻製にかけながら、三人(正確には二人と一魂)で焚火を囲む。
チェルシーは満足げに喉をゴロゴロと鳴らしていた。
「あなたは、ここで何をしていたの?」
アリエラが静かな声で問いかけた。
その言葉に、チェルシーの耳がぺたんと伏せられ、表情が暗く沈んだ。
「……あたしたちの義賊団『白猫の足跡』は、帝都の悪徳商人や強欲貴族の蔵ばかりを狙い、貧民街の孤児たちに施しを行っていた。私はそこでエーススカウトとして身軽さと神出鬼没ぶりから“韋駄天”のチェルシーとして裏社会や衛兵の間で名が知られていたにゃ」
ぽつりぽつりと、彼女は自身の過去を語り始めた。
「……だけどつい先日、悪徳商人の罠に嵌められて、アジトを急襲されたんだにゃ。仲間はみんな、バラバラに離散して、壊滅状態にゃ……」
追っ手から逃れるため、危険な『黒蝕の荒野』に逃げ込んだものの、食料も尽き、飢えと寒さで死にかけていたのだという。
「……魔王軍の脅威が大きすぎるせいで、みんなの目がそっちに釘付けになってる。だから、その後ろで私腹を肥やす悪徳商人がのさばるにゃ。誰もそっちまで気が回らないんだ……」
チェルシーは悔しそうに拳を握りしめた。
「だから、あたし決めたにゃ。根本の原因である魔王軍をどうにかしないと、この世界は良くならないって」
チェルシーは顔を上げ、目に力を込めてこちらを見据えた。
「アリエラ様。あたしも、魔王軍討伐を手伝わせてほしいにゃ!」
その悲痛で、しかし芯のある願いを聞いて、アリエラの体が微かに強張るのが伝わってきた。
仲間を失い、一人で絶望の淵を彷徨ったチェルシーの姿。
それは、駆け出しの頃に自身の未熟さから仲間を全滅させてしまった、アリエラ自身の過去と痛いほど重なっていた。
アリエラは無意識のうちに、自身の体へそっと手を伸ばしていた。
白銀の軽装鎧の下にある、過去の死線を物語る古傷。
かつて彼女を庇って散っていった仲間たちの記憶が刻まれた場所に触れながら、彼女の心は激しく揺れ動いていた。
(彼女が他人に思えません……。放っておけない)
脳内に響くアリエラの声は、ひどく弱々しかった。
(でも……仲間を持つことなど、私には……。また誰かを失う恐怖を味わうくらいなら、最初から一人で戦った方が……)
トラウマが彼女の心にブレーキをかける。
失うことへの極度の恐怖が、差し伸べようとした手を引き戻そうとしていた。
重い沈黙が続く。
チェルシーは不安げにアリエラの返事を待っている。
このままでは、アリエラはまた孤独な一匹狼の殻に閉じこもってしまうだろう。
俺は、小さく息を吸い込み、彼女の心の壁をノックするように語りかけた。
+++
〈なあ、アリエラ。前へ進んでみたらどうだ?〉
俺は、努めて平坦な、定食屋のカウンターで常連客の悩みを聞く時のような声色で語りかけた。
(……え?)
〈あの猫娘が、昔の自分に重なって見えたんだろ?放っておけないって、君の心が叫んでるじゃないか。なら、素直に手を差し伸べてやればいい〉
アリエラは、焚火の炎から視線を落とし、きつく唇を噛み締めた。
彼女の心臓の鼓動が、痛いほど早く打っているのが俺にも伝わってくる。
(……しかし、やはりそれはできない。そう簡単に過去を忘れられるわけがない)
脳内に響く彼女の声は、震えていた。
孤高の剣聖勇者としての威厳はそこにはなく、ただ過去の傷跡に怯える一人の不器用な少女の悲鳴だった。
(仲間を作れば、また失うかもしれない。私の未熟さのせいで、誰かが命を落とすかもしれない。あの地獄のような絶望をもう一度味わうくらいなら、最初から一人で背負う方がマシよ。私は、もう二度とあんな思いは……!)
痛いほどの孤独。
彼女がどれほどの重圧を、たった一人でこの細い肩に背負ってきたのか。
俺は小さく息を吐き、彼女の心を包み込むように言葉を紡いだ。
〈アリエラ。忘れる必要はない〉
(……っ)
〈君が過去に失った仲間のことも、その痛みを刻み込んで生きてきたことも、絶対に忘れる必要なんてない。あの傷跡は、君が必死に生き抜いてきた証だ〉
俺の言葉に、アリエラがゆっくりと顔を上げる。
〈ただ、そこにとどまり続ける必要もないんだぜ〉
アリエラが息を飲んだのが分かった。
〈過去の絶望に縛られて、今目の前で助けを求めている奴から目を背けるのは、君が本当にやりたかったことなのか?完璧な大賢者なんていなくても、君はもう十分に強い。それに、今の君には……少なくとも、飯の心配だけはさせない超優秀な脳内居候の仲間がついてるだろ?一魂も一人も変わらんさ〉
沈黙が落ちた。
パチ、パチと、焚火の爆ぜる音だけが夜の荒野に響く。
今まで誰にも弱みを見せられず、たった一人で孤独な一匹狼を演じ続けてきた彼女。
誰にも相談できずにいたその胸の内を、言葉にして俺に聞いてもらえたことで、彼女の心に分厚く張っていた氷が、ゆっくりと、確実に溶け出していくのがわかった。
(……ショーヤン)
〈なんだ?〉
(少しだけ……救われた気がするわ)
その声には、これまでの冷たさも、意地を張ったような強がりもなかった。
憑依してから初めて触れた、彼女の本当の、柔らかい心の色だった。
+++
アリエラは深呼吸を一つすると、不安げに尻尾を丸めて待っていたチェルシーに向き直った。
「……チェルシーと言ったわね」
「は、はいにゃ!」
「私は不器用だし、他人に優しくできる自信もない。それに、私の行く道は常に死と隣り合わせよ」
アリエラの厳しい言葉に、チェルシーはゴクリと喉を鳴らした。
しかし、アリエラはその鋭い蒼氷色の瞳を少しだけ和らげ、静かに告げた。
「それでもついて来たいというのなら……歓迎するわ。これからよろしく」
その瞬間、チェルシーの猫耳がピンと跳ね上がり、顔いっぱいにパァッと花が咲いたような笑顔が広がった。
「ほ、本当に!?やったぁぁっ!ありがとにゃ、アリエラ様!!」
チェルシーは歓喜の声を上げ、アリエラの手を両手でギュッと握りしめた。
アリエラは突然のスキンシップに戸惑いながらも、その手を振り払うことはしなかった。
かつて仲間を失ったトラウマから他者を完全に拒絶していた彼女が、再び誰かと手を取り合った瞬間だった。
「そうだ、アリエラ様!あたしたちの出会いと、これからの旅の門出を祝って、乾杯しようにゃ!」
「乾杯?でも、ここにはエールもワインもないわよ」
「あるにゃ!これです!」
チェルシーが意気揚々と掲げたのは、先ほど出来上がったばかりの『ブラッドボアの自家製ジャーキー』だった。
燻製の香ばしい匂いが立ち上るそれを見て、チェルシーの口元からはタラリと涎垂れそうになっている。
「これなら最高のご馳走にゃ!ほら、アリエラ様も!」
チェルシーに促され、アリエラも苦笑しながら一切れのジャーキーを手に取った。
俺の視覚を通して見るチェルシーの顔は、どう見ても『感動の乾杯』よりも『目の前の美味そうな肉』に意識の九割が向かっていた。
(こいつ……半分は食べ物目的で仲間を申し出たな。いや、半分以上かも)
俺は内心で呆れながらも、この現金で分かりやすい猫獣人が仲間に加わったことで、これからの旅が賑やかになりそうだと少しだけ安堵した。
「それじゃあ……私たちの、新しい旅に」
「乾杯にゃーっ!!」
二人がジャーキーを打ち鳴らし、同時に口へ運ぶ。
噛みしめるたびに、燻された獣肉の濃厚な旨味と、適度な塩気が口いっぱいに広がる。
昼間の生肉とは比べ物にならない、血の通った温かい味がした。
(……ショーヤン)
ジャーキーを咀嚼しながら、アリエラが脳内でそっと呼びかけてきた。
その声は、焚火の温もりよりもずっと暖かく、そして力強かった。
(あなたがいなかったら、私はきっと、一生あの暗い場所で一人きりのままだったわ。背中を押してくれて……ありがとう)
〈よせやい。俺はただ、飯が美味くなるスパイスをほんの少し足しただけだ〉
照れ隠しにそう返すと、アリエラの柔らかな笑い声が脳内に響いた。
(ふふっ。これからも頼りにしているわ、料理長殿)
大賢者でもなく、レシピ係でもなく。
彼女が初めて俺を認めてくれた、その『料理長』という新しい称号を、俺は少しだけ誇らしく受け取った。




