第30話
翌日も、夏美はアイザックの不在が気になってどうしてもそわそわしてしまう。いつものように議会に出てもあの広い背中はないし、夏美が騒いでもため息をつく相手もいない。
(アイザックが行ってるのは、ワイズドレアとラデンブルグの国境線あたり……)
自室でテーブルにこの世界の地図を広げ、大陸の中央に位置するワイズドレアとミストリアの国境線を指でなぞる。地図の横には作りかけのリボンが置かれていた。
(軍事衝突って……日本ではそんなに聞いたことない言葉だけど、本当に大丈夫なのかな……?)
何度も作りかけのリボンを手に取るが、集中できない。
「……あー! もう! アイザックがせっかく『笑って待ってろ』って言ってくれたのに!」
夏美は勢いよく立ち上がり、アイザックの言葉を頭の中で反芻する。
(こんな姿、アイザックには見せられない。元気でいないと……!)
自分を鼓舞するためにも、このマイナスの感情を追い出すためにも、夏美は自分の頬をパシパシと両手で叩いた。
「よし! 今日はまずこの残りのリボンを作って、それから……あ! そうだ、コンドームも試作品作ろうかな! あとは、あとは……そうだ、もうちょっとこの世界のことも勉強したいから書庫に行って──」
そこまでまくし立てたところでドアが三回、ノックされる。
「あれ……? 誰だろ……」
(今ソンジさんはお休みしてる時間帯なんだけど……)
三回ノックしてくるのは、今のところアイザックかソンジだけである。不思議に思いながらドアを開けると、ヨハンが立っていた。
「あれ、ヨハンさん!? どうしたんですか?」
「あのさ、君『誰ですか?』とか聞かないの? 不用心過ぎない? 不審者だったらどうするの」
(うっ……確かに……)
立ち上がっていたから、つい声を出すより先に身体が動いてしまった。ヨハンがわざとらしく大きなため息をつく。
「それで、何か用件でも?」
夏美が尋ねると、ヨハンは図々しく部屋の中に入ってきながら口を開く。
「別に。お兄ちゃんが君のことよろしくって言ってたから」
「……え?」
(いや、確かに言ってたけど……)
「それに? なんかいつも笑顔の君が、昨日はどうも憔悴しきってたみたいだからさ」
心配して、とまでは言わない。それでも、ヨハンが夏美を気に掛けて来てくれた事実が伝わってきて、夏美は嬉しくなるとともに、昨日の貝殻のくだりもすべて見られていると思うと恥ずかしさもこみあげてくる。
(昨日のあの瞬間は……アイザックしか目に入ってなかったかも……)
ヨハンは靴を脱いでソファに寝転がると、ふわぁ、と欠伸をする。
「議会ってなんであんなにつまんないんだろう。君、ああいうとき意外とずっと起きて話聞いてるよね」
「私は逆に、椅子が固くて寝れないんですよ……」
「ああ、だからあのザブトンとかいう敷物作ったの?」
「そうです! あ、そういえばヨハンさんにはお渡ししてなかったですよね。いりますか?」
「……まぁ、いる」
(やっぱりあの椅子、痛かったんだ……)
素直じゃないのにわかりやすすぎるヨハンに内心笑いつつ、確か残っている座布団があるはず、とクローゼットの中を探す。
(あ、まだ切り株もあるな……でもこれ、もうちょっと軽量化したいんだよね。ほかの材料なんかないかな……)
「ねぇ」
「はーい? なんですか?」
ヨハンの声かけに、なおも捜索を続けながら返事をする。
「君ってさ、お兄ちゃんをどうする気なの?」
「……はい!? って、痛ッ!」
勢いよく振り返ってクローゼットのドアに頭をぶつけてしまった。じんじんする額をこすりながら、発言の当事者を見る。
「ドジだね」
「普通、ちょっとは心配しません!?」
「いつも僕をいじって楽しんでるくせに」
「……それは、その通りですごめんなさい」
でもやめられない自信がある。夏美は内心で未来のヨハンに謝りながら、探り当てた座布団を取り出し、ヨハンに手渡す。
「どうぞ」
「ん、ありがとう。で? どうするつもり?」
「どうって……、その……どういう意味で言ってます?」
思わずよこしまな妄想をしてしまったが、このお坊ちゃまがそんなことを考えるわけがない。
(しかもこの国、王族以外セックス禁止の国だし……)
「お兄ちゃんのこと、好きなんだよね?」
「それは、認めます。好きです」
「じゃあ、その先は?」
「その先……?」
「ずっとそばにいるつもりなのか、いなくなるのか。そういう話」
改めてそう言われると、漠然とした不安がよぎる。
(確かに、私は今は客人っていう立場で置いてもらってるだけで……私がもしここにいたいって言ったら、アイザックは死ぬまでこの国にいることを許してくれるのかな……?)
「君はいま、何も考えず好きだからって理由だけでお兄ちゃんの隣にいるかもしれないけど、それだけじゃ耐えられない時もあるかもしれない。貴族の中には派閥もあるし、醜い争いもある。巻き込まれたら、下手すりゃ命を取られることもある。君がそういうものを知った上で、それでもお兄ちゃんの隣にいたいと思ってるの?」
改めてヨハンの口から出た言葉で、アイザックの置かれている立場が嫌でも伝わってくる。
「ヨハンさんの言いたいことはすごくわかります。でも……それでもやっぱり、私はアイザックのそばにいたいです。もし、私の一存で決められるなら、ですけど……」
そうもいかない状況に置かれているのは間違いない。ただ客人という何の保証もない立場で、いつまでここにいられるのかもわからない。ヨハンの言葉で、今まで猪突猛進になっていて見えていなかったものが、改めて夏美の周りに立ち上って見えてきた気がする。
(こういう現実的な問題も、考えていかないといけないな……)
「本当? お兄ちゃんのこと傷つけるなら、僕は容赦しないけど」
(あああぁ……そうだ、この人ブラコンなんだった……)
最近その影が薄れていたが、彼はブラコンなのである。兄に近づく女の恋路を邪魔しないわけがない。さっきまで張りつめていた気持ちが急にほどけて、ちょっとヨハンをいじくりたくなる。
「ちなみに……容赦しないって、たとえばどうするんですか?」
「斬る」
「あ……! そういえば最初の頃そう言ってましたよね?」
「……やめて。あんまり思い出したくないから」
ヨハンが耳を赤くして顔を隠してしまう。
(ああ……あれ、ヨハンさん的にも黒歴史なんだ……)
こういうところが夏美の好奇心をくすぐってしまうのだ。
「さすがに、斬るまではしないけど。君だったら、国に帰ってもらうかな。何、そのつもりなの?」
ヨハンはそう口では言ってくるものの、おそらく心から夏美を怪しんではいない。確認のつもりだろう。その態度だけで救われる気がする。
「大丈夫です! 私、そんなつもりないです。アイザックがそばにいていいって言う限り、一緒にいます」
「ふーん……なら、別にいいけど」
「なんで急にそんなこと聞いてきたんですか?」
夏美が何気なく尋ねると、ヨハンがなぜか急にげっそりとした様子になる。
「昨日、ソンジが君とアイザックの関係について話してきたから」
「え? そうなんですか? それは……」
(セックス込みの関係だってことも、かな……!?)
夏美はそんなことを考えて勝手にハラハラしてしまう。その夏美を見たヨハンが、ため息をついた。
「そうだよ、スナに聞かせられないようなことまで。あー……僕も聞きたくなかったな」
「あっ……それは……なんかすみません……!」
あまりにありふれた兄弟の反応という感じで、ヨハンが可愛く見える。家族や兄弟の恋愛事情を知るなら、うっすらうわべだけでいいものだ。
「とりあえず、僕は今日からお兄ちゃんが帰ってくるまで、暇な時間はここにいることにするから」
「えっ!? なんでですか!?」
「君が知らない男にフラフラ近づいていかないように。監視する」
そう言いながら、きっとヨハンもヨハンなりに心配してくれているのだろう。ヨハンのそういう素直じゃないところにも慣れた。
「じゃあ、一緒にリボン作りません? ただいるだけでも、暇ですよね?」
「……僕のこと、こき使うつもり?」
リボンを見せると嫌そうな顔をするヨハンを、夏美はぐりぐりと押しのけて隣に座る。そしてリボンを手渡してみせると、意外と興味を持ったのかまじまじと見つめていた。
(この人がそばにいてくれたら、結構いろいろとはかどるのでは?)
コンドームづくりはできないにしても、本を読んでわからない部分は聞けばおそらく答えてくれるだろうし(ソンジが優秀と言っていたことを覚えている)、城の中をうろつくにも最強のボディガードになってくれるはずである。
(うん、これを機にもっとヨハンさんとの仲を深めよう!)
リボンを分解して「なんだ、簡単じゃん」と言うヨハンに、夏美がそんなことを考えていることなど知る由もなかった。




