停止
「……というわけで、少しずつ異変が起き始めたようです。」
「分かった。やはり長い間、薬を飲んでいなかった影響が出始めたんだな。」
「あ、もう一つ聞きたかったことがあるんですが……正樹さんがいた施設では、歌のようなものを教えていましたか? 確か『一つ目は――』から始まるやつです。」
「いや、教えてない……。だが、その歌には心当たりがある。」
「え? どういうことですか?」
「正樹くんが施設へ来て一週間くらい経った頃、突然歌い始めたことがある。でも、一番心当たりがあるのは、あの研究に関わり始めた研究員たちだ。突然歌い出す者がいてな。それに、クローンとして生まれた子どもの中にも、同じように歌い出した子がいた。」
「ちなみに、どのくらい歌っていました?」
「記憶では……七種類の言葉でしたね。いや、八だったかもしれません。」
「……八?」
「何か話しているんですが、こちらには聞き取れないんです。」
「八……か。」
小鳥遊は静かに目を伏せた。
「……初めてだな。」
その一言が落ちた瞬間、部屋の扉が勢いよく開いた。
「おーい! 届いたぞー!」
どうやら、正樹さんの血液が届いたようだ。
「ありがとうございます。では、今から輸血します。」
そう言って、小鳥遊が手を動かす。
「……佐伯はどうなんだ?」
おっさんが真剣な表情で尋ねる。
「まだ病み上がりです。体調も完全には戻っていません。」
「…………いや。絶対、それだけじゃないだろ。」
その言葉に、小鳥遊は僕へ視線を向けた。
僕は少し迷ったあと、小さく頷く。
「……柊木さんは、頭が良いことは良いことだと思いますか?」
「そりゃそうだろ。勉強だって仕事だって有利だ。なんでそんなことを聞く?」
「……それが普通の考え方です。」
小鳥遊は静かに息を吐いた。
「ですが、正樹くんは──良過ぎた。」
「どういうことだ?」
「今は神経を落ち着かせる薬を定期的に服用しています。しかし、それを長期間飲まないと、脳の情報処理を抑えられなくなるんです。」
「情報処理?」
「例えば今、この部屋にいるだけでも、人は視覚、聴覚、嗅覚など、必要な情報だけを無意識に選んでいます。」
小鳥遊は窓の外へ目を向ける。
「ですが、正樹くんの脳は、それができません。」
「…………。」
「人が無視する音も、匂いも、光も、空気の変化も、人の表情も、すべて拾おうとする。必要か不要かを選べず、脳へ流し込み続けるんです。」
「それじゃあ……。」
おっさんの表情から笑みが消えた。
「そんな状態で、今まで普通に生活していたのか……。」
「ええ。常に何十倍もの情報を処理し続けることになります。」
「それで……。」
「ええ。身体への負担は、私たちが想像する以上に大きいですよ。」
部屋に重い沈黙が流れる。
眠っている正樹さんの寝顔を見ながら、おっさんが静かに口を開いた。
「……大丈夫なのか?」
「定期的に薬を飲んでいれば問題ありません。ただ、一つだけ問題があります。」
「なんだ?」
小鳥遊は小さくため息をついた。
「……正樹くん、薬嫌いなんです。」
「…………なんだって?」
おっさんの口がぽかんと開いたまま固まる。
「薬嫌いなんです。ですから、正樹くん用には『味付きのサプリ』と言って飲んでもらっています。」
「……心当たりあるわぁ。」
僕も思わず苦笑いを浮かべながら、薬を飲ませるのに苦労した日々を思い出す。
小鳥遊が少し遠くを見るように話し始めた。
「今でも思い出しますよ。初めて薬を飲んだ時は大人しかったんですよ。でも、二回目の時の嫌がり方は、それはもう大変でした。」
「どんな感じなんだ?」
「……施設から抜け出します。」
「はぁ……。」
おっさんは額に手を当て、大きく息を吐いた。
「正樹さんの脱走癖は、そこからなんですね。」
「あっ、やっぱり入院中脱走したんだ。」
僕は苦笑いを浮かべながら頷く。
三人の視線が、ベッドで静かに眠る正樹さんへと集まった。
「…………。」
「やっぱGPS付けよう。」
「賛成です。」
「俺も異議なしだ。」
起きている時に知ったら、きっと大暴れするだろう。
誰一人そのことを口にはしなかった。
それでも三人は顔を見合わせ、小さく頷いた。




