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人類の罪  作者:
動き出した繋がり
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聞こえない言葉

今は夜中の三時。


あれから正樹さんの鼻血は、止まったり出たりを繰り返していた。


タオルを外し、目を開けた状態になると、必ず鼻血が出る。


そんな症例なんて、僕は知らない。


「縛、まだ外しちゃだめ?」


そう言う正樹さん。


いつもなら寝ている時間なのに、まるで眠る気配がない。


しかも、僕がiPhoneで打ち込む文字を、キーボードを叩く音だけで判断するようになっていた。


おかしい。


絶対に、おかしい。


先程、おっさんが「やっぱり心配だから」ともう一度部屋へ来てくれた。


その時、僕達は部屋の外で話をした。


おっさんはロビーでくそメガネを待ち、僕は正樹さんのそばで様子を見ることにした。


正樹さんは鼻歌を歌いながら、ベッドの上で大人しく座っている。


抜け出した前科がある以上、今は目を離せない。


…………。


待ってください。


この歌……


歌じゃない。


リズムはある。


けれど、どこか儀式の文言を淡々と読み上げているような、不思議な響きだった。


「一つ目が目覚める時、世界は始まる。」


「Secunda vitae circulum movet.」


「तृतीये मार्गः प्रकाशते。」


「הרביעי יבכה בן־האלוהים.」


「Πέμπτον· ὁ ἄνθρωπος γινώσκει τὴν ἁμαρτίαν.」


「عندما يرنّ السادس، تبلغ الدعوات السماء.」


「When the Seventh opens, the chains are broken.」


そして、正樹さんの口がゆっくりと開く。


八つ目を口にしようとした、その瞬間だった。


「…………」


声は確かに聞こえている。


けれど、それは言葉ではなかった。


息でもない。


呻きでもない。


歌でもない。


音になっているはずなのに、一音たりとも頭に残らない。


聞いた瞬間、意味ごと消えてしまう。


そんな音を、僕は知らない。


ただ、聞いてはいけないものを聞いてしまった。


その感覚だけが、部屋の空気を凍らせた。


「……あ。」


正樹さんは、突然自分の口を押さえた。


「これ……言っちゃいけないやつだ。」


「何がですか?」


「分からない。」


そう言いながら、今度は耳を塞ぐ。


「?」


何かを話している。


けれど、聞こえない。


いや。


聞こえているはずなのに、言葉として認識できない。


「その歌、何なんですか?」


僕が尋ねると、正樹さんは首を傾げた。


「分からない。」


「え? 意味も分からずに歌っていたのですか?」


「ん? 意味? 意味なんてないよ~。」


正樹さんは、いつものように笑う。


そんなはずがない。


「もう一度、歌ってください。」


僕はiPhoneを取り出し、録音を始める。


「え?」


正樹さんは少し考え込んでから、不思議そうに首を傾げた。


「歌詞……なんだっけ?」


さっきまで、あれほど流暢に歌っていたはずなのに。


「そんなはずないですよ。思い出してください。」


「思い出す? ん〜。」


その瞬間、両方の鼻から再び血が流れ落ちた。


そして、何かを思い出したように口を開く。


「一つ目――」


ゴホッ、ゴホッ。


激しく咳き込む。


口元を押さえた手には、鮮やかな赤い血が滲んでいた。


吐血……!?


僕が慌ててティッシュを持って駆け寄ろうとした、その時だった。


バンッ!


勢いよく部屋のドアが開く。


「間に合ったか……!」


飛び込んできたのは、小鳥遊さんだった。


「どいて。」


僕は肩を軽く押され、その横をすり抜ける。


後ろからは、おっさんが大きなバッグを抱えて入ってきた。


「なんですか、それ。」


「分からん。」


「何してる! 早く来い! わんこ、お前もだ!」


「はい!」


僕とおっさんは慌てて駆け寄る。


小鳥遊さんはベッドの横へ膝をつく。


その声に気付いたのか、正樹さんがぼんやりと笑った。


「小鳥遊さん……ヘリコプターで来たでしょ〜。」


その言葉に、小鳥遊さんの動きが一瞬だけ止まる。


「……そうだよ。」


すぐに、いつもの穏やかな笑顔へ戻った。


「どこが具合悪いのか言える?」


「え? どこも悪くないですよ。」


「鼻血も吐血もしているのに?」


「ん? 俺、鼻血出てるんですか?」


小鳥遊さんは数秒、正樹さんを見つめた。


「…………。」


「思ったより、進行が早い。」


静かにそう呟くと、おっさんからバッグを受け取り、中から注射器と薬剤を取り出した。


「正樹くん。今から注射するから、少しだけチクッとするよ。」


「えーー。いやです。」


そう言った時には、もう注射は終わっていた。


正樹さんは痛がる様子すらない。


「どういう事ですか?」


僕が尋ねると、小鳥遊さんは口元に人差し指を当てた。


「今は静かに。」


「…………? なんか、体がだるいかもです。」


「体が疲れているんだよ。」


優しく微笑みながら布団を整える。


「ほら、横になって少し寝ようか。」


「……はい。」


言われるがまま布団へ潜る正樹さん。


「これ、取りたいです。」


目元のタオルを指差す。


「このままで寝よう。起きた時には外してあるから。」


「……ねむくないで……す…………。」


言い終わる前に、正樹さんは静かに眠りへ落ちた。


小鳥遊さんは安堵したように息を吐き、どこかへ一本電話をかける。


「……はい。お願いします。輸血パックを至急。いつもの物を。」


短く用件だけを伝えると、電話を切った。


それから、おっさんへ向き直る。


「先ほどは乱暴な言い方をしてしまい、申し訳ありません。本当に助かりました。」


「いや、緊急事態だったから気にしないでくれ。」


「ありがとうございます。」


小鳥遊さんは深く頭を下げた。


「申し訳ありませんが、もう一つお願いがあります。血液パックを持ってくる者が間もなく到着します。ロビーまで案内をお願いできますか?」


「東雲は?」


「彼には、正樹くんの様子を詳しく聞きたいので、残ってもらいます。」


「そりゃそうだな。分かった。俺が迎えに行く。」


「ありがとうございます。十分ほどで到着すると思います。」


「了解。」


おっさんは一度眠っている正樹さんを見る。


「頼んだぞ。」


「はい。」


おっさんは頷くと、部屋を後にした。


ドアが閉まる音を確認すると、小鳥遊さんはゆっくりと僕へ視線を向けた。


「何か言いたそうだね。」


「……いえ。」


「また、あの時みたいに全部一人で抱え込むつもり?」


その一言に、僕の肩がわずかに震えた。


「関係ありません。」


「ふーん。」


小鳥遊さんは小さく息を吐く。


「僕には関係ないことかもしれない。でも、正樹くんに何かあったら……あの時みたいに、他の体を作って逃げるなんてことは、もうしないで。」


「…………。」


「正樹さんの様子を説明します。」


「一つも欠かさず話して。」


「…………。」


「そんな嫌そうな顔をしない。全部、正樹くんのためだから。」


……正樹さんのためなら。


僕は静かに息を吸う。


そして、夜ご飯の席で起きたことから、今この瞬間までの出来事を、一つも漏らさないように話し始めた。

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