暴走
「んー?この味噌汁、味濃くない?」
俺が驚いて言うと、柊木さん達は「そうか?」と顔を見合わせ、納得していない様子だった。
……ん?
魚もなんだか生臭い。
そういえば、さっきからやたらと色んな匂いがする。
ポタッ
鼻から何かが垂れてきた。
「大変! 正樹くん、鼻血!」
真美ちゃんは慌ててティッシュを差し出す。
その表情には、不安と心配、そして戸惑いが入り混じっていた。
「大丈夫です。きっと粘膜が傷ついただけです。」
俺は鼻にティッシュを当てながら、縛を見る。
縛の表情には、不安と――驚愕が浮かんでいた。
「今日、念のため風呂に入らずに寝るよ。」
俺がそう言うと、柊木さんは静かに頷いた。
「そうした方がいい。」
そう言って、俺に新しいティッシュを差し出した。
きっと疲れているだけだなぁ。久しぶりの外出だしなぁ。
そう思った瞬間、目の前がチカチカする。
頭が……痛い?
そう思っていると、周囲の人たちの声がやたらとガヤガヤ聞こえる。
「ねぇ、明日どこ行く?」
「ママ、トイレ行きたい。」
「四番テーブル、お食事が終わりましたので片付けてきます。」
なんだ?
あんなに皆遠いのに、すごくはっきり聞こえる。
ポタッ
「おい、佐伯。もう部屋に帰ろう。」
そう言う柊木さんが、心配そうに俺を見る。
縛は何も言わずに席を立った。
「縛、自分で歩けるから。」
俺は伸ばされた手をやんわりと断り、結愛ちゃんが渡してくれたティッシュを受け取る。
遠くから宿の人がこちらへ歩いて来る。
「右側の、髪をまとめたピンクの服のお姉さん。たぶん四十五秒くらいで『大丈夫ですか?』って聞きに来ると思うから、『大丈夫です』って言っといて。」
俺がそう言うと、結愛ちゃんが頷く。
「でも、どのピンクの服のお姉さんか……」
結愛ちゃんが小声で呟くが、目の前がチカチカする俺には返事をする気力がなかった。
「お食事中すみません。今お席を立たれたお客様、大丈夫ですか?」
「本当に来た……。」
「はい?」
「あ! 大丈夫です! 鼻血が出たみたいで。」
「さようですか。必要であれば、お医者様をご用意いたしますか?」
「もう少し様子を見ますので、何かあればお願いします。」
真美ちゃんが代わりに答える。
「承知しました。念のため、お部屋番号を頂いてもよろしいでしょうか?」
「505です。」
「かしこまりました。体調が優れない場合は、お部屋のお電話からでもすぐにお医者様がお伺いしますので、何かございましたらお呼びください。」
「ありがとうございます。」
そう言って、お姉さんは離れていった。
その頃には、俺達は部屋へ向かうためロビーを歩いていた。
「縛、何かあれば部屋から電話したら、お医者さんが来てくれるみたい。」
俺がそう言うと、縛は驚愕した表情で聞き返す。
「……なんで知っているのですか?」
「え? 今、宿の人と真美ちゃん達で話してたよ。」
「…………この距離で?」
縛の表情に、ほんのわずかに恐怖が混ざった。
なんで……?
「とりあえず部屋に急ごう。」
そう言う柊木さんは、俺の鼻を押さえながら歩く。
「ごめんなさい。柊木さん、そばまだ食べたかったですよね。急にこんなことになって。」
「いや、大丈夫だぁ。体調が第一だ。……待って。俺、そばが食べたいなんて言ったか?」
「え? 食べたかったのですよね? ざるそば。」
「……俺、誰にも言ってないし、まだ取りにも行ってないのに。なんで分かった?」
柊木さんは俺を見つめる。
その表情には、驚愕、恐怖、好奇心、そして不思議そうな色が入り混じっていた。
「目が見てましたし、足の向きもそっちだったので、そうかなぁと思いました。」
「おぉ~、なんか今日冴えてるな。」
柊木さんがそう言う。
その声には、微かに震えが混じっていた。
「ん? 柊木さん、最近禁酒したりしてます?」
「おー、よく分かったなぁ。二週間前からだぁ。」
「そうなんですね。ストレスはあんまり良くないので、ほどほどに。」
俺が言うと、柊木さんは少し笑う。
「鼻血出してるやつが言うことじゃないぞ。」
部屋に着くと、縛は俺をソファに座らせ、冷たいタオルを目元に当てた。
……ん?
なんだか、このタオル。
繊維がごわつく。
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正樹さんが大人しく座っているのを確認すると、僕はおっさんに手招きをした。
「なんだ?」
おっさんが近寄ってくる。
僕は口元に人差し指を当てた。
――静かに。
そしてiPhoneを取り出し、メモを開く。
『正樹さん、さっきから感覚が異常に鋭くなっている気がします。もしかすると、今の会話も聞こえているかもしれません。なので、iPhoneでやり取りしましょう。』
画面を見せると、おっさんは静かに頷いた。
すぐに文字を打ち込む。
『俺も、さっきから様子がおかしいとは思ってた。あの鼻血……医者を呼んだ方がいいんじゃないか?』
僕も文字を打ち込む。
『いえ。夜ご飯へ行く前に、正樹さんは小鳥遊さんと電話をしていました。明日こちらへ来るそうです。下手にこちらが動くべきではないと思います。』
『小鳥遊?』
『正樹さんがいた施設の施設長です。医者でもあり、腕は確かです。そこは安心してください。』
『話せない事情ってやつか?』
『正樹さん自身が話していません。ですから、今は見守りましょう。』
『分かった。で、あいつの目はいつまで隠しておくつもりだぁ?』
『分かりません。でも、以前、知り合いにも頻繁に鼻血を出していた人がいました。ひとまず、様子を見ましょう。』
『分かった。とりあえず俺は真美達と合流してからまた戻る。』
おっさんがそう書く。
『いえ、とりあえず部屋で休んでいて大丈夫です。多分ですけど、これ以上僕たちにできることはありません。』
『分かった。待機はしてるから、何かあったらすぐ呼べ。』
『その時はお願いします。』
おっさんが部屋を出ようとすると、正樹さんがおっさんの方を向いて話しかけた。
「柊木さん、また明日。」
その姿が異常に見えたのは、きっと正樹さんを知る僕だけではないはずだ。
「あぁ、また明日。ゆっくり休め。」
おっさんが部屋を出ると、正樹さんはしょんぼりと肩を落とした。
「縛。」
「はい。」
「俺って怖い?」
その言葉に、僕は息を呑んだ。
「いえ、怖くありません。」
それは偽りのない本音だった。
僕の言葉に、正樹さんは安心したように微笑む。
しかし、その鼻血はまだ止まらない。
一体、彼の身に何が起きているんだ。
胸の奥に、不安だけが静かに広がっていった。




