勇気
鈴木さんと知り合って半年。
季節は少しずつ冬へと変わっていった。
あの夕暮れの日から、ボス女たちは大人しくなり、平和な日々が続いていた。
そう思っていた。
あの頃の俺は。
今思えば、毎晩うちでご飯を食べているのに、双葉がなかなか太らない理由をもっと考えるべきだった。
あの頃の俺は、
「食べても太らない体質なんだな。」
そのくらいにしか思っていなかった。
本当に偶然だった。
あの光景を目撃したのは。
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「ねぇ! 双葉、聞いてる!? あんたのせいじゃなければ、私は施設に入ることなく、今も幸せな家にいたはずなんだからね!」
いつもの帰り道。
圭介といつもの公園を通った時だった。
「双葉」という名前に俺が素早く反応したのを見て、圭介が隣で小さく笑う。
「あんたの責任なんだから、あんたが働いて私にブランド物でも買いなさいよ! ほらっ! 次はこれ買って。
あんたは可愛くないんだから、稼ぐことしか能がないのよ!」
声のする方を見ると、そこには鈴木さんによく似た女の子がいた。
その女の子は怒ったまま公園の出口へ向かうと、年上の男と腕を組み、そのままどこかへ行ってしまった。
「……鈴木さん?」
俺が後ろから声を掛けると、鈴木さんはピクッと肩を震わせた。
「……見なかったことにするとか、できないわけ?」
「なんで?」
俺が聞くと、圭介が苦笑いしながら口を開く。
「諦めろ。こいつに隠し事は無理だ。」
「余計なお世話。」
鈴木さんはため息をつくと、そのまま歩き出した。
俺はその後ろを追い掛ける。
「ねぇ、さっきの女の子は?」
そう聞くと、鈴木さんは足を止め、振り返って俺を睨んだ。
「なんでそんなこと聞くわけ?」
「え? いや、鈴木さんがあんなふうに言われてたから。そんなに親しい人じゃなければ、怒ろうかなぁって。」
俺がそう言うと、圭介が盛大に頭を抱えた。
「お前なぁ……。」
「なに!?」
俺は少し不満そうに圭介を見る。
鈴木さんは、少し驚いたような顔をしていた。
「……普通、関わろうなんて思わないでしょ。」
「え?」
「面倒なことに巻き込まれそうなら、見て見ぬふりをするものよ。」
「そうなの?」
俺が首を傾げると、鈴木さんは少し寂しそうに笑った。
「……そう。」
少しの沈黙が流れる。
「でもさ。」
俺が口を開く。
「目の前で嫌な思いをしてる人がいたら、力になりたいだろ?」
鈴木さんがゆっくりと俺を見る。
「私を助けようとする理由。」
「理由なんているの?」
俺は本気で分からず聞き返した。
「困ってるなら助ける。それだけじゃだめ?」
鈴木さんはしばらく黙って俺を見つめていた。
その目が少し潤んでいるように見えたのは、気のせいだったのだろうか。
「……どうしたの?」
「……どうやって怒るつもりだったわけ?」
「え?」
「その子に。」
「あぁ。『こらっ! そんな言い方おかしいだろ!』とか?」
俺が真面目に答えると、
「ぷっ……。」
鈴木さんが吹き出した。
「あははっ……。」
何か変なことを言っただろうか?
首を傾げていると、鈴木さんは俺の手をそっと握る。
そして――
俺の頬に軽くキスをした。
「ふぇ!!!」
頭の中が真っ白になる。
後ろでは圭介が、「ヒュー!! ヒュー!!」と、口笛を吹いている。……うるさい。
「決めた。」
鈴木さんが小さく笑う。
「あなたがいい。」
「……何が!? 何を決めた!?」
俺が慌てて聞いても、鈴木さんは何も答えず、ただ少しだけ嬉しそうに笑っていた。
後から知ったのだけど、どうやら俺の好き好きアピールは、この半年間ずっと出ていたらしい。
妻も、周りのみんなも気付いていた。
気付いていなかったのは、俺だけだったらしい。
まぁ、このことがきっかけで俺と妻は付き合うことになった。
だから今でも妹さんには、それだけは感謝している。
……許さないけど。
季節は巡り、高校三年になった頃。
俺は家族と進路のことで喧嘩していた時に、双葉が荷物を持って俺の家へ来た日の話をしよう。
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ピンポーン。
「もう! 母さんも父さんも分からず屋すぎる! 俺は米農家は継がない!!」
文句を言いながら玄関のドアを開ける。
すると、そこには大きな荷物を抱え、頬にアザを作った双葉が立っていた。
「……双葉?」
顔を見た瞬間、頭の中が真っ白になった。
「双葉!! どうした!? 母さん!! 氷!!」
慌てて双葉の荷物を受け取り、家の中へ上がらせる。
「え!? どうした!? 大丈夫か、双葉ちゃん!」
騒ぎを聞きつけた父さんも玄関へやって来た。
俺は双葉の頬にできたアザを見つめる。
「……誰にやられた?」
双葉は小さく首を横に振るだけだった。
何も話そうとしない。
その姿が、余計に胸を締め付けた。
しばらくして母さんが氷を持って来る。
双葉の顔を見た瞬間、母さんの表情が変わった。
「稔、お父さん。外に出て。」
「え?」
「いいから。」
有無を言わせない声だった。
俺と父さんは部屋を追い出される。
「呼ばれたら入りなさい。」
訳も分からないまま、俺は玄関に置かれた双葉の荷物を部屋へ運ぶ。すると、母さんが慌ただしく部屋から飛び出してきた。
「あなた、車出して!」
「分かった!」
父さんは何も聞かず車の鍵を掴む。母さんは双葉を支えながら車へ乗せ、そのまま病院へ向かった。
玄関先に取り残された俺は、ただ呆然と見送ることしかできなかった。
……どうしたんだ。
本当に。
その時の俺は、何も教えてもらえなかった。
後で知ったことだけど、双葉がいた施設では売春が蔓延していたらしい。
双葉は自分の身を守りながら必死に働き、お金を貯め、十八歳の誕生日に施設を出る準備をしていた。
あと少し。
あと少し耐えれば自由になれる。
そう信じて。
でも、その日。
体調を崩して部屋で休んでいた双葉の元へ、突然男たちが押しかけてきた。
乱暴しようとする男たちを相手に、双葉は必死に抵抗した。
荷物だけを抱え、施設を飛び出したらしい。
男たちを部屋へ引き入れたのは、妹だった。
母さんは双葉から話を聞くと、本人の希望もあって病院で検査を受けさせた。
その検査は――俺たちの子どもの妊娠確認だった。
この時、双葉はすでに俺たちの子どもを身籠っていた。
腹を蹴られたことで、お腹の子に何かあったのではないかと心配していたらしい。
幸い、お腹の子は無事だった。
その結果を聞いた時、母さんは泣きながら双葉を抱き締めたという。
そして、この事件がなかったら、双葉は俺たちの子どものことも俺には言わず、十八歳の誕生日と同時に施設を出て、俺の前から姿を消すつもりだったことも知った。
その話を聞いた時、俺は生まれて初めて双葉と大喧嘩した。
「なんで言わなかったんだよ!!」
「言えるわけないでしょ!!」
双葉も負けじと叫ぶ。
「子どもがいるなんて知ったら、稔は進学も夢も全部諦めるじゃない!」
「当たり前だろ!!」
思わず声を張り上げる。
「俺は子どもも双葉も放って、自分だけ夢を追えるような人間じゃない!!」
双葉は唇を噛み締め、涙を浮かべた。
「だから……それが嫌だったの。」
震える声で続ける。
「私のせいで、稔の人生を変えたくなかった。」
「一人で全部抱え込むなよ。」
気付けば俺も泣いていた。
「俺は父親なんだろ?」
その一言を聞いた瞬間、双葉は顔を覆い、堪えていた涙をこらえきれずに泣き崩れた。
「……ごめんなさい。」
震える声でそう言った双葉を見て、俺はもう怒ることなんてできなかった。
俺だって、双葉を責めたかったわけじゃない。
ただ、一人で全部背負ってほしくなかっただけなんだ。
今思えば、お互いがお互いを守ろうとしていただけだった。
だからぶつかった。
でも、あの喧嘩があったからこそ、本当の意味で夫婦になれたんだと思う。
両親はというと、
「まぁ、どうせいずれはそうなると思ってたしな。」
父さんは笑いながら俺の肩を叩き、
「早めにおじいちゃん、おばあちゃんになった方が老後も楽ってもんよ。」
母さんも笑っていた。
俺は二人に土下座して謝った。
進学のこと。
米農家を継ぐこと。
子どものこと。
全部ひっくるめて。
それでも両親は、
「家族なんだから当たり前だ。」
そう言って笑ってくれた。
俺は米農家を継ぐための学校へ通い、経営についても父さんから一から教わった。
双葉もオンラインで経済学を学び、経営や販売を支えてくれた。
今では二人三脚で、この農家を守っている。
親父たちは念願だった早期退職を果たし、毎日のように孫と遊んでいる。
「あの時は大変だったなぁ。」
なんて笑いながら酒を飲んでいる姿を見るたびに、人生って本当に何があるか分からないと思う。
あの日、双葉が勇気を出して俺の家のインターホンを押してくれた。
あの一歩が、俺たち家族の始まりだった。




