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人類の罪  作者: 華
幸せの形
140/144

あと少しだけ

「……忌々しい。」


知佐の口から、そんな言葉が出て来た。


忌々しい。


本当に、忌々しい。


俺は知佐の肩を抱き寄せながら、目の前に広がる海を眺めた。


月明かりが海面を照らし、波が静かに揺れている。


「…………。」


知佐は何も言わなかった。


ただ、遠くを見つめている。


その横顔を見ながら、俺は思い出していた。


あの、血に濡れた夜のことを。


------------------------------------------------


海外から日本に帰って来た俺たちは、幸せだった。


本当に、幸せだった。


誰にも邪魔されず、誰の目も気にせず、ただ二人で過ごす毎日。


朝起きれば、隣には知佐がいた。


一緒に朝食を食べ、くだらないことで笑い合い、夜になれば同じベッドで眠る。


そんな当たり前の生活が、俺たちにとっては何よりも大切だった。


駆け落ちして以来、俺たちの世界には、俺と知佐、そして新しくできた友人たちしかいなかった。


過去を知る人間は、誰もいない。


知佐が何者なのか。


どこから来たのか。


そんなことを知る人間もいなかった。


俺たちは、ただの恋人同士だった。


「ねぇ、今日の夕飯どうする?」


「んー。何が食べたい?」


「君の作ったものなら、何でも。」


「それ、答えになってないよ。」


知佐が笑う。


「じゃあ、オムライス。」


「昨日も食べたじゃないか。」


「美味しかったから。」


「……仕方ないなぁ。」


そう言いながら、知佐は嬉しそうに笑っていた。


その笑顔を見るたび、俺は思った。


ここへ来てよかった。


あの場所から逃げ出して、本当によかった。


知佐は、ようやく自由になれたのだと。


……そう信じていた。


あの夜までは。


------------------------------------------------


その日は、朝から雨が降っていた。


夕方になる頃には雨脚が強まり、窓の外では風が木々を揺らしていた。


ゴロゴロゴロ……。


遠くで雷が鳴る。


「……すごい雨だね。」


知佐が窓の外を見つめながら呟いた。


「そうだね。今日は外に出ない方がよさそうだ。」


「うん。」


俺たちは、リビングの暖炉の前で過ごしていた。


パチッ。


パチパチ……。


薪が燃える音が、雨音に混じって聞こえてくる。


知佐はソファに座り、膝の上に毛布を掛けていた。


俺はその隣に腰を下ろす。


「寒くない?」


「大丈夫。」


「本当?」


「うん。君がいるから。」


そう言って、知佐は俺の肩に頭を預けた。


「…………。」


俺はそっと、その髪を撫でる。


柔らかな髪が指の間を滑っていく。


……幸せだ。


こんな日が、ずっと続けばいい。


それだけでよかった。


俺は、隣にいる知佐を見つめた。


暖炉の明かりに照らされた横顔。


安心しきったように閉じられた目。


その姿を見ていると、ふと、あることを思い出した。


……そうだ。


指輪。


少し前に、知佐のために買ったものだった。


いつ渡そうかと考えているうちに、ずっと二階の引き出しにしまったままになっていた。


誕生日でもない。


記念日でもない。


今日は、ただの雨の日だ。


でも。


……こんな日だからこそ、いいんじゃないか?


何でもない日に指輪を渡したら、知佐はきっと驚くだろう。


そして、いつか今日のことを思い出して、笑ってくれるかもしれない。


特別な日だけじゃなく、何でもない日も大切な思い出にしてほしい。


俺は、そんなことを考えていた。


「……あ。」


「ん?」


知佐が顔を上げる。


「ちょっと二階に行って来る。」


「何かあった?」


「取って来たいものがあるんだ。」


「……何?」


「それは、あとでのお楽しみ。」


「えー。何それ。」


知佐が笑った。


「すぐ戻るよ。」


「……うん。待ってる。」


俺はその笑顔を見てから、階段へ向かった。


……本当に、何でもない夜だった。


いつもと同じ。


ただ、雨が強いだけの夜。


そう思っていた。


二階の部屋に入り、引き出しを開ける。


奥にしまっていた、小さな箱。


「…………。」


俺はそれを手に取った。


蓋を開けると、中には銀色の指輪が入っている。


……喜んでくれるかな。


驚く顔が見たい。


それから、笑ってほしい。


俺は小さく笑い、箱を閉じた。


そして、ポケットにしまった。


その時だった。


ピカッ!!


窓の外が真っ白に光った。


ドガァァァン!!


「……っ!」


近くに雷が落ちたのかと思うほど、大きな音が響いた。


その直後。


バタンッ!!


玄関の扉が開く音がした。


「……ん?」


誰か来た?


こんな時間に?


俺は手を止めた。


すると、階下から何かが倒れるような音が聞こえた。


ガタンッ!!


「……知佐?」


返事はない。


「…………。」


妙だな。


俺は耳を澄ませた。


さっきまで聞こえていた薪の音。


窓を叩く雨音。


それ以外、何も聞こえない。


……静かすぎる。


「知佐?」


俺は部屋を出た。


「どうした?大丈夫?」


そう声を掛けながら、階段を降りる。


一段。


また一段。


そして、リビングが見えた瞬間。


「…………え?」


俺は足を止めた。


知佐が立っていた。


暖炉の前で。


真っ白な顔をして。


「…………。」


その服は、赤く染まっていた。


手にも。


腕にも。


血が付いている。


「……知佐?」


知佐は何も答えない。


ただ、震えていた。


頬を涙が伝っている。


「知佐!!」


俺は慌てて駆け寄った。


「どうした!?何があった!?」


肩に手を置くと、知佐の身体がびくりと跳ねた。


「……っ!」


「知佐、俺だよ!大丈夫だから!」


「…………。」


知佐の唇が震える。


何かを言おうとしているのに、声が出ない。


「落ち着いて。ゆっくりでいいから。」


俺は知佐を抱き寄せた。


すると、耳元で小さな声が聞こえた。


「……バレた。」


「……え?」


「……逃げないと。」


「…………。」


バレた?


逃げる?


……まさか。


まさか、そんな。


「……誰に?」


知佐は俺の服を強く握りしめた。


そして、泣きながら答えた。


「……兄様にバレた。」


「…………っ!」


一瞬、息が止まった。


兄様。


その呼び方を、俺は知っている。


知佐が、あの人を呼ぶ時の言葉。


尾野雅臣。


知佐の兄。


そして、知佐を決して手放そうとしなかった男。


「……雅臣が来たのか?」


知佐が小さく頷く。


「……どうして。」


どうして、ここが分かった?


誰にも知らせていない。


住所だって、簡単には分からないはずだ。


なのに。


「……その血は?」


俺は知佐の服を見つめた。


「怪我したのか!?」


「……違う。」


「じゃあ、誰の……。」


知佐は首を横に振った。


「……兄様の。」


「…………。」


「……刺しちゃった。」


「……え?」


知佐は震える手を見つめた。


「……兄様が、突然入って来て……。」


「…………。」


「……帰るぞって。」


知佐の声がかすれる。


「……嫌だって言ったのに。」


「…………。」


「……僕は、ここにいたいって……君と一緒にいたいって……。」


知佐は何度も首を横に振った。


「……でも、兄様が……。」


言葉が途切れる。


「……知佐。」


「……怖くて。」


知佐は顔を覆った。


「……怖くて、どうしたらいいか分からなくなって……。」


「…………。」


「……テーブルに、くだものナイフがあって……。」


知佐の肩が震える。


「……気づいたら、刺してた。」


「…………。」


俺は何も言えなかった。


「……血が出て……。」


「…………。」


「……兄様、僕を見て……。」


知佐の声が、さらに小さくなる。


「……そのまま、出て行った。」


「…………。」


雅臣が。


この家に来た。


知佐を連れ戻すために。


そして、知佐は――。


「……どっちに行った?」


俺は顔を上げた。


「……え?」


「雅臣は、どっちに行った?」


「……分からない。」


「外だね?」


俺は玄関へ向かおうとした。


「……待って!」


知佐が俺の腕を掴んだ。


「行かないで!」


「でも、怪我をしているんだろう!?」


「……嫌だ!」


知佐は泣きながら首を振った。


「……お願い。置いて行かないで。」


「…………。」


俺は知佐の手を握った。


「……一緒に来て。」


知佐は動かなかった。


ただ、俺の手を握りしめたまま、何度も首を横に振っている。


「……知佐。大丈夫。離さないから。」


俺はその手を握り返した。


「……一緒に行こう。」


しばらくして、知佐が小さく頷いた。


俺は震える知佐を支えながら、玄関へ向かった。


------------------------------------------------


ザァァァァァ……!!


雨が容赦なく降り注ぐ。


「……雅臣!!」


俺は暗闇に向かって叫んだ。


返事はない。


その時。


ブォンッ!!


車のエンジン音が聞こえた。


「……あっ!」


知佐が声を上げる。


門の向こうに、一台の車が見えた。


ヘッドライトが雨粒を照らしている。


「兄様!!」


知佐が叫んだ。


けれど、車は止まらなかった。


タイヤが水を跳ね上げ、そのまま走り去っていく。


「……待って!!」


俺は追い掛けようとした。


しかし、車はあっという間に暗闇の中へ消えていった。


「…………。」


……逃げた。


あの怪我で?


大丈夫なのか?


その時だった。


ひらっ。


何かが風に舞った。


「……ん?」


一枚の紙が、雨に濡れた地面へ落ちる。


俺はそれを拾い上げた。


……写真?


「……何、これ。」


そこには、腕時計が写っていた。


そして、その隣には――。


カラスのマーク。


「…………。」


見覚えのない写真だった。


「……知佐?」


俺が振り返ると、知佐は写真を見つめたまま動かなくなった。


「……どうした?」


「これ、何か知ってる?」


知佐は答えなかった。


ただ、顔色がどんどん青ざめていく。


「……知佐?」


「……もう、駄目だ。」


「……え?」


「……逃げられない。」


知佐の目から、再び涙がこぼれた。


「……兄様に、見つかった。」


「…………。」


「……もう、どこにも逃げられないよ。」


そう言って、知佐は俺にしがみついた。


「……どうしよう。」


「…………。」


「……ねぇ、どうしよう……。」


俺は知佐を強く抱きしめた。


「……大丈夫。」


「……大丈夫じゃない。」


「……知佐。」


「……また、連れ戻される。」


「…………。」


「……嫌だ。」


知佐は俺の胸に顔を埋めた。


「……もう、あそこには戻りたくない。」


「…………。」


俺は何も答えられなかった。


ただ、震える身体を抱きしめることしかできなかった。


------------------------------------------------


家に戻ると、俺たちは暖炉の前に座った。


濡れた服を着替え、毛布を掛ける。


パチッ。


パチパチ……。


薪が燃える音が聞こえる。


さっきまで、あんなに幸せだった場所。


なのに、今は何もかもが違って見えた。


「…………。」


知佐は俺の肩に寄り掛かっていた。


俺も、その身体を抱き寄せる。


「……ねぇ。」


知佐が呟いた。


「……ん?」


「……もう、逃げたくない。」


「…………。」


「……疲れちゃった。」


「…………。」


俺は知佐の髪を撫でた。


「……うん。」


「……君と、ずっと一緒にいたかった。」


「……俺もだよ。」


「…………。」


知佐が俺を見上げる。


「……これからも、一緒にいてくれる?」


「……もちろん。」


「……どこまでも?」


「……どこまでも。」


知佐は小さく微笑んだ。


そして、再び俺の肩に顔を埋めた。


「…………。」


俺たちは、長い時間そうしていた。


何を話したのか。


どちらが先に言い出したのか。


今となっては、よく覚えていない。


ただ、一つだけ覚えている。


もう、離れ離れにはなりたくなかった。


誰かに引き離されるくらいなら。


このまま、二人で――。


……あの世へ。


そんな結論に、いつの間にか辿り着いていた。


「…………。」


雨音が、少しずつ弱くなっていく。


窓の外が、ゆっくりと明るくなり始めた。


……朝だ。


俺は知佐の手を握った。


知佐も、そっと握り返してくれた。


「……綺麗だね。」


「……うん。」


窓の向こうには、薄い朝焼けが広がっていた。


これが最後に見る景色になるのかもしれない。


そう思っていた。


その時だった。


プツッ。


「……ん?」


突然、テレビの画面が明るくなった。


昨夜の雷雨で停電した時に電源が切れていたはずなのに。


……復旧したのか?


そんなことを考えた直後。


『続いて、昨夜遅くに発生した車の転落事故についてです。』


アナウンサーの声が聞こえた。


「…………。」


俺は何気なく画面に目を向けた。


『昨夜遅く、崖下に転落した乗用車が発見され、車内から男性一人が救出されました。』


「…………。」


『男性は搬送先の病院で死亡が確認されました。』


……事故か。


そう思った。


けれど。


『死亡したのは、尾野グループ会長、尾野雅臣さんと確認されています。』


「…………え?」


俺の手が止まった。


知佐が、ゆっくりと顔を上げる。


『警察は、車が道路から転落した経緯について、詳しく調べています。』


「…………。」


……雅臣?


尾野雅臣?


知佐の兄様?


「……知佐。」


声が震えた。


「……今。」


「…………。」


知佐はテレビを見つめていた。


瞬きもせずに。


「……兄様?」


小さな声が漏れる。


「…………。」


画面には、事故現場の映像が流れていた。


崖の下。


大きく破損した車。


そして、現場を調べる警察官たち。


「…………。」


知佐が俺の手を握る。


強く。


痛いほどに。


「……死んだの?」


「…………。」


俺には答えられなかった。


「……兄様が?」


「…………。」


「……本当に?」


知佐の声が震える。


俺は、ただ頷いた。


「…………。」


次の瞬間。


知佐が俺に抱きついた。


「……っ!」


俺も、その身体を抱きしめた。


何も言わずに。


ただ、強く。


「…………。」


涙が出た。


悲しいのか。


嬉しいのか。


それとも、恐ろしいのか。


自分でも分からなかった。


ただ、一つだけ確かなことがあった。


もう、あの男は知佐を連れ戻しに来ない。


「……知佐。」


「……うん。」


「……もう少し。」


「…………。」


「……もう少しだけ、一緒にいよう。」


知佐は何も言わなかった。


ただ、俺の胸に顔を埋めたまま、小さく頷いた。


俺は知佐の背中に腕を回した。


その時、ポケットの中で小さな箱が身体に当たった。


「…………。」


……そうだ。


指輪。


あの夜、知佐に渡すつもりだったもの。


何でもない一日を、特別な思い出にしたかった。


ただ、それだけだったのに。


俺はポケットの上から、そっと箱に触れた。


……今は、まだ。


知佐を抱きしめる腕に、少しだけ力を込める。


……あと少し。


あと少しだけ。


このままで。

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