あと少しだけ
「……忌々しい。」
知佐の口から、そんな言葉が出て来た。
忌々しい。
本当に、忌々しい。
俺は知佐の肩を抱き寄せながら、目の前に広がる海を眺めた。
月明かりが海面を照らし、波が静かに揺れている。
「…………。」
知佐は何も言わなかった。
ただ、遠くを見つめている。
その横顔を見ながら、俺は思い出していた。
あの、血に濡れた夜のことを。
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海外から日本に帰って来た俺たちは、幸せだった。
本当に、幸せだった。
誰にも邪魔されず、誰の目も気にせず、ただ二人で過ごす毎日。
朝起きれば、隣には知佐がいた。
一緒に朝食を食べ、くだらないことで笑い合い、夜になれば同じベッドで眠る。
そんな当たり前の生活が、俺たちにとっては何よりも大切だった。
駆け落ちして以来、俺たちの世界には、俺と知佐、そして新しくできた友人たちしかいなかった。
過去を知る人間は、誰もいない。
知佐が何者なのか。
どこから来たのか。
そんなことを知る人間もいなかった。
俺たちは、ただの恋人同士だった。
「ねぇ、今日の夕飯どうする?」
「んー。何が食べたい?」
「君の作ったものなら、何でも。」
「それ、答えになってないよ。」
知佐が笑う。
「じゃあ、オムライス。」
「昨日も食べたじゃないか。」
「美味しかったから。」
「……仕方ないなぁ。」
そう言いながら、知佐は嬉しそうに笑っていた。
その笑顔を見るたび、俺は思った。
ここへ来てよかった。
あの場所から逃げ出して、本当によかった。
知佐は、ようやく自由になれたのだと。
……そう信じていた。
あの夜までは。
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その日は、朝から雨が降っていた。
夕方になる頃には雨脚が強まり、窓の外では風が木々を揺らしていた。
ゴロゴロゴロ……。
遠くで雷が鳴る。
「……すごい雨だね。」
知佐が窓の外を見つめながら呟いた。
「そうだね。今日は外に出ない方がよさそうだ。」
「うん。」
俺たちは、リビングの暖炉の前で過ごしていた。
パチッ。
パチパチ……。
薪が燃える音が、雨音に混じって聞こえてくる。
知佐はソファに座り、膝の上に毛布を掛けていた。
俺はその隣に腰を下ろす。
「寒くない?」
「大丈夫。」
「本当?」
「うん。君がいるから。」
そう言って、知佐は俺の肩に頭を預けた。
「…………。」
俺はそっと、その髪を撫でる。
柔らかな髪が指の間を滑っていく。
……幸せだ。
こんな日が、ずっと続けばいい。
それだけでよかった。
俺は、隣にいる知佐を見つめた。
暖炉の明かりに照らされた横顔。
安心しきったように閉じられた目。
その姿を見ていると、ふと、あることを思い出した。
……そうだ。
指輪。
少し前に、知佐のために買ったものだった。
いつ渡そうかと考えているうちに、ずっと二階の引き出しにしまったままになっていた。
誕生日でもない。
記念日でもない。
今日は、ただの雨の日だ。
でも。
……こんな日だからこそ、いいんじゃないか?
何でもない日に指輪を渡したら、知佐はきっと驚くだろう。
そして、いつか今日のことを思い出して、笑ってくれるかもしれない。
特別な日だけじゃなく、何でもない日も大切な思い出にしてほしい。
俺は、そんなことを考えていた。
「……あ。」
「ん?」
知佐が顔を上げる。
「ちょっと二階に行って来る。」
「何かあった?」
「取って来たいものがあるんだ。」
「……何?」
「それは、あとでのお楽しみ。」
「えー。何それ。」
知佐が笑った。
「すぐ戻るよ。」
「……うん。待ってる。」
俺はその笑顔を見てから、階段へ向かった。
……本当に、何でもない夜だった。
いつもと同じ。
ただ、雨が強いだけの夜。
そう思っていた。
二階の部屋に入り、引き出しを開ける。
奥にしまっていた、小さな箱。
「…………。」
俺はそれを手に取った。
蓋を開けると、中には銀色の指輪が入っている。
……喜んでくれるかな。
驚く顔が見たい。
それから、笑ってほしい。
俺は小さく笑い、箱を閉じた。
そして、ポケットにしまった。
その時だった。
ピカッ!!
窓の外が真っ白に光った。
ドガァァァン!!
「……っ!」
近くに雷が落ちたのかと思うほど、大きな音が響いた。
その直後。
バタンッ!!
玄関の扉が開く音がした。
「……ん?」
誰か来た?
こんな時間に?
俺は手を止めた。
すると、階下から何かが倒れるような音が聞こえた。
ガタンッ!!
「……知佐?」
返事はない。
「…………。」
妙だな。
俺は耳を澄ませた。
さっきまで聞こえていた薪の音。
窓を叩く雨音。
それ以外、何も聞こえない。
……静かすぎる。
「知佐?」
俺は部屋を出た。
「どうした?大丈夫?」
そう声を掛けながら、階段を降りる。
一段。
また一段。
そして、リビングが見えた瞬間。
「…………え?」
俺は足を止めた。
知佐が立っていた。
暖炉の前で。
真っ白な顔をして。
「…………。」
その服は、赤く染まっていた。
手にも。
腕にも。
血が付いている。
「……知佐?」
知佐は何も答えない。
ただ、震えていた。
頬を涙が伝っている。
「知佐!!」
俺は慌てて駆け寄った。
「どうした!?何があった!?」
肩に手を置くと、知佐の身体がびくりと跳ねた。
「……っ!」
「知佐、俺だよ!大丈夫だから!」
「…………。」
知佐の唇が震える。
何かを言おうとしているのに、声が出ない。
「落ち着いて。ゆっくりでいいから。」
俺は知佐を抱き寄せた。
すると、耳元で小さな声が聞こえた。
「……バレた。」
「……え?」
「……逃げないと。」
「…………。」
バレた?
逃げる?
……まさか。
まさか、そんな。
「……誰に?」
知佐は俺の服を強く握りしめた。
そして、泣きながら答えた。
「……兄様にバレた。」
「…………っ!」
一瞬、息が止まった。
兄様。
その呼び方を、俺は知っている。
知佐が、あの人を呼ぶ時の言葉。
尾野雅臣。
知佐の兄。
そして、知佐を決して手放そうとしなかった男。
「……雅臣が来たのか?」
知佐が小さく頷く。
「……どうして。」
どうして、ここが分かった?
誰にも知らせていない。
住所だって、簡単には分からないはずだ。
なのに。
「……その血は?」
俺は知佐の服を見つめた。
「怪我したのか!?」
「……違う。」
「じゃあ、誰の……。」
知佐は首を横に振った。
「……兄様の。」
「…………。」
「……刺しちゃった。」
「……え?」
知佐は震える手を見つめた。
「……兄様が、突然入って来て……。」
「…………。」
「……帰るぞって。」
知佐の声がかすれる。
「……嫌だって言ったのに。」
「…………。」
「……僕は、ここにいたいって……君と一緒にいたいって……。」
知佐は何度も首を横に振った。
「……でも、兄様が……。」
言葉が途切れる。
「……知佐。」
「……怖くて。」
知佐は顔を覆った。
「……怖くて、どうしたらいいか分からなくなって……。」
「…………。」
「……テーブルに、くだものナイフがあって……。」
知佐の肩が震える。
「……気づいたら、刺してた。」
「…………。」
俺は何も言えなかった。
「……血が出て……。」
「…………。」
「……兄様、僕を見て……。」
知佐の声が、さらに小さくなる。
「……そのまま、出て行った。」
「…………。」
雅臣が。
この家に来た。
知佐を連れ戻すために。
そして、知佐は――。
「……どっちに行った?」
俺は顔を上げた。
「……え?」
「雅臣は、どっちに行った?」
「……分からない。」
「外だね?」
俺は玄関へ向かおうとした。
「……待って!」
知佐が俺の腕を掴んだ。
「行かないで!」
「でも、怪我をしているんだろう!?」
「……嫌だ!」
知佐は泣きながら首を振った。
「……お願い。置いて行かないで。」
「…………。」
俺は知佐の手を握った。
「……一緒に来て。」
知佐は動かなかった。
ただ、俺の手を握りしめたまま、何度も首を横に振っている。
「……知佐。大丈夫。離さないから。」
俺はその手を握り返した。
「……一緒に行こう。」
しばらくして、知佐が小さく頷いた。
俺は震える知佐を支えながら、玄関へ向かった。
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ザァァァァァ……!!
雨が容赦なく降り注ぐ。
「……雅臣!!」
俺は暗闇に向かって叫んだ。
返事はない。
その時。
ブォンッ!!
車のエンジン音が聞こえた。
「……あっ!」
知佐が声を上げる。
門の向こうに、一台の車が見えた。
ヘッドライトが雨粒を照らしている。
「兄様!!」
知佐が叫んだ。
けれど、車は止まらなかった。
タイヤが水を跳ね上げ、そのまま走り去っていく。
「……待って!!」
俺は追い掛けようとした。
しかし、車はあっという間に暗闇の中へ消えていった。
「…………。」
……逃げた。
あの怪我で?
大丈夫なのか?
その時だった。
ひらっ。
何かが風に舞った。
「……ん?」
一枚の紙が、雨に濡れた地面へ落ちる。
俺はそれを拾い上げた。
……写真?
「……何、これ。」
そこには、腕時計が写っていた。
そして、その隣には――。
カラスのマーク。
「…………。」
見覚えのない写真だった。
「……知佐?」
俺が振り返ると、知佐は写真を見つめたまま動かなくなった。
「……どうした?」
「これ、何か知ってる?」
知佐は答えなかった。
ただ、顔色がどんどん青ざめていく。
「……知佐?」
「……もう、駄目だ。」
「……え?」
「……逃げられない。」
知佐の目から、再び涙がこぼれた。
「……兄様に、見つかった。」
「…………。」
「……もう、どこにも逃げられないよ。」
そう言って、知佐は俺にしがみついた。
「……どうしよう。」
「…………。」
「……ねぇ、どうしよう……。」
俺は知佐を強く抱きしめた。
「……大丈夫。」
「……大丈夫じゃない。」
「……知佐。」
「……また、連れ戻される。」
「…………。」
「……嫌だ。」
知佐は俺の胸に顔を埋めた。
「……もう、あそこには戻りたくない。」
「…………。」
俺は何も答えられなかった。
ただ、震える身体を抱きしめることしかできなかった。
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家に戻ると、俺たちは暖炉の前に座った。
濡れた服を着替え、毛布を掛ける。
パチッ。
パチパチ……。
薪が燃える音が聞こえる。
さっきまで、あんなに幸せだった場所。
なのに、今は何もかもが違って見えた。
「…………。」
知佐は俺の肩に寄り掛かっていた。
俺も、その身体を抱き寄せる。
「……ねぇ。」
知佐が呟いた。
「……ん?」
「……もう、逃げたくない。」
「…………。」
「……疲れちゃった。」
「…………。」
俺は知佐の髪を撫でた。
「……うん。」
「……君と、ずっと一緒にいたかった。」
「……俺もだよ。」
「…………。」
知佐が俺を見上げる。
「……これからも、一緒にいてくれる?」
「……もちろん。」
「……どこまでも?」
「……どこまでも。」
知佐は小さく微笑んだ。
そして、再び俺の肩に顔を埋めた。
「…………。」
俺たちは、長い時間そうしていた。
何を話したのか。
どちらが先に言い出したのか。
今となっては、よく覚えていない。
ただ、一つだけ覚えている。
もう、離れ離れにはなりたくなかった。
誰かに引き離されるくらいなら。
このまま、二人で――。
……あの世へ。
そんな結論に、いつの間にか辿り着いていた。
「…………。」
雨音が、少しずつ弱くなっていく。
窓の外が、ゆっくりと明るくなり始めた。
……朝だ。
俺は知佐の手を握った。
知佐も、そっと握り返してくれた。
「……綺麗だね。」
「……うん。」
窓の向こうには、薄い朝焼けが広がっていた。
これが最後に見る景色になるのかもしれない。
そう思っていた。
その時だった。
プツッ。
「……ん?」
突然、テレビの画面が明るくなった。
昨夜の雷雨で停電した時に電源が切れていたはずなのに。
……復旧したのか?
そんなことを考えた直後。
『続いて、昨夜遅くに発生した車の転落事故についてです。』
アナウンサーの声が聞こえた。
「…………。」
俺は何気なく画面に目を向けた。
『昨夜遅く、崖下に転落した乗用車が発見され、車内から男性一人が救出されました。』
「…………。」
『男性は搬送先の病院で死亡が確認されました。』
……事故か。
そう思った。
けれど。
『死亡したのは、尾野グループ会長、尾野雅臣さんと確認されています。』
「…………え?」
俺の手が止まった。
知佐が、ゆっくりと顔を上げる。
『警察は、車が道路から転落した経緯について、詳しく調べています。』
「…………。」
……雅臣?
尾野雅臣?
知佐の兄様?
「……知佐。」
声が震えた。
「……今。」
「…………。」
知佐はテレビを見つめていた。
瞬きもせずに。
「……兄様?」
小さな声が漏れる。
「…………。」
画面には、事故現場の映像が流れていた。
崖の下。
大きく破損した車。
そして、現場を調べる警察官たち。
「…………。」
知佐が俺の手を握る。
強く。
痛いほどに。
「……死んだの?」
「…………。」
俺には答えられなかった。
「……兄様が?」
「…………。」
「……本当に?」
知佐の声が震える。
俺は、ただ頷いた。
「…………。」
次の瞬間。
知佐が俺に抱きついた。
「……っ!」
俺も、その身体を抱きしめた。
何も言わずに。
ただ、強く。
「…………。」
涙が出た。
悲しいのか。
嬉しいのか。
それとも、恐ろしいのか。
自分でも分からなかった。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
もう、あの男は知佐を連れ戻しに来ない。
「……知佐。」
「……うん。」
「……もう少し。」
「…………。」
「……もう少しだけ、一緒にいよう。」
知佐は何も言わなかった。
ただ、俺の胸に顔を埋めたまま、小さく頷いた。
俺は知佐の背中に腕を回した。
その時、ポケットの中で小さな箱が身体に当たった。
「…………。」
……そうだ。
指輪。
あの夜、知佐に渡すつもりだったもの。
何でもない一日を、特別な思い出にしたかった。
ただ、それだけだったのに。
俺はポケットの上から、そっと箱に触れた。
……今は、まだ。
知佐を抱きしめる腕に、少しだけ力を込める。
……あと少し。
あと少しだけ。
このままで。




