知佐
琴子さんが流産した。
原因は、ストレスだった。その知らせを聞いた時、僕は何も言えなかった。
お腹の中で育っていた、小さな命。
琴子は、その子を失った。
そして、そのことにより、僕は再び尾野家の屋敷へ戻ることになった。
「…………。」
車の窓から見える景色は、昔と何も変わっていない。
高い塀。綺麗に整えられた庭。
そして、立派な屋敷。
「大丈夫ですか?」
隣に座る高野が、僕に声を掛けてきた。
「……何が?」
「顔色が悪いです。」
「そう?」
僕は窓に映る自分の顔を見た。
そこには、見慣れた顔があった。
千代子として生きてきた顔。
けれど、僕は千代子ではない。
「大丈夫だよ。」
そう答えると、高野はそれ以上何も聞かなかった。
ただ、僕の手にそっと自分の手を重ねてくる。
「…………。」
温かい。
僕はその手を握り返した。
やがて車が屋敷の前に停まる。
僕はゆっくりと車を降りた。
そして、玄関の扉を開ける。
その瞬間だった。
「この、泥棒猫!!」
「……琴子さん?」
「よくも……よくも平気な顔で戻って来られたわね!」
琴子は包丁を握り締めたまま、僕を睨みつけていた。
「私、知ってるのよ……。あなたとあの人のこと!」
「…………。」
やめて。
お願いだから、それ以上言わないで。
僕は思わず、隣にいる高野を見た。
高野は何も言わず、琴子を見つめている。
……嫌だ。
高野の前で、そんな話をしないで。
僕は望んでいない。
あの人に触れられることも、あの人のものになることも。
全部、僕が望んだことじゃない。
それなのに、どうして僕が責められなければならないのだろう。
……いや。
琴子さんからすれば、そんなこと関係ないんだ。
お兄様が僕に何をしたのか。
僕が何を思っていたのか。
そんなこと、知るはずもない。
でも……。
お願いだから。
高野にだけは、聞かせないで。
「私がどんな思いでいたか……あなたに分かる!?」
琴子の目から涙がこぼれ落ちた。
「私の赤ちゃんまで……!」
「…………。」
違う。僕じゃない。
僕は、何も奪っていない。
そう言いたかった。
けれど、声が出なかった。
「全部、あなたのせいよ!!」
そう叫ぶと、琴子は僕に向かって走り出した。
「……っ!」
目の前に迫ってくる包丁。
身体が動かない。
その瞬間――。
「危ない!」
高野が僕の前に飛び出した。
琴子の腕を掴み、包丁がこちらに向かないよう押さえ込む。
「離しなさい!!」
「落ち着いてください!」
「離して!!そいつを殺してやる!!」
琴子は激しく暴れた。
包丁を握った手が震えている。
「琴子!!」
奥から、お兄様が駆け寄って来た。
「何をしているんだ!」
「離してよ!!全部あいつのせいなのよ!!」
「もうやめろ!」
お兄様は琴子の手から包丁を取り上げると、その身体を抱き寄せた。
「嫌!!嫌よ!!」
「琴子、落ち着け!」
「私の赤ちゃん……私の赤ちゃんが……!」
その声は、途中から泣き声に変わっていた。
「……っ、うぅ……。」
お兄様は何も言わず、泣き崩れる琴子を抱きかかえるようにして部屋へ連れて行った。
玄関には、重苦しい沈黙だけが残った。
「…………。」
僕は、二人が消えていった廊下を見つめた。
「怪我は?」
高野が僕の顔を覗き込む。
「……ないよ。」
「本当に?」
「うん。」
高野は僕の腕や肩を確認すると、小さく息を吐いた。
「……よかった。」
「…………。」
その言葉を聞いて、ようやく身体から力が抜けた。
怖かった。
本当に、怖かった。
けれど、それ以上に。
琴子の言葉が、頭から離れなかった。
『あなたとあの人のこと!』
「…………。」
高野は、どう思っただろう。
僕のことを、軽蔑しただろうか。
そんなことを考えると、顔を上げられなかった。
「……千代子。」
高野が僕を呼ぶ。
「…………。」
「帰りましょう。」
その声は、いつもと変わらなかった。
僕はゆっくりと顔を上げる。
高野は、ただ僕を見ていた。
「……うん。」
そう答えたものの、僕たちはすぐに帰ることができなかった。
奥様がやって来たからだ。
「高野さん。今日はもうお帰りください。」
「ですが……。」
「この子には、私から話があります。」
高野は僕を見た。
その表情には、明らかに不安が浮かんでいた。
「……大丈夫。」
僕がそう言うと、高野はしばらく黙っていた。
そして、僕の手を一度だけ握り締める。
「何かあれば、すぐに連絡してください。」
「うん。」
高野は最後まで僕を気に掛けながら、屋敷を後にした。
その背中が見えなくなるまで、僕は玄関に立っていた。
なぜだろう。
今日は、もう会えないような気がした。
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コンコン。
「失礼します。」
僕は奥様の部屋の扉を叩いた。
「……入りなさい。」
扉を開けると、奥様は椅子に座り、頭を抱えていた。
机の上には、何枚もの書類が散らばっている。
「…………。」
僕は部屋の中央で立ち止まった。
奥様はしばらく何も言わなかった。
ただ、深く息を吐く。
そして――。
「……このまま海外に行ってちょうだい。」
「…………え?」
あまりにも突然の言葉だった。
海外?どうして?
僕が黙っていると、奥様はゆっくりと立ち上がった。
「今夜よ。今夜の夜中に、この屋敷を出なさい。」
「……どういうことですか?」
「もう、ここにはいられないの。」
奥様は僕のそばへ歩いて来た。
そして、両手で僕の手を包み込む。
「こうするしか、あなたを守れないの。」
「…………。」
「お願い。今夜、すぐに逃げて。」
その声は震えていた。
僕は奥様の顔を見つめる。
いつも背筋を伸ばし、堂々としていた人。
どんな時でも取り乱すことのなかった人。
そんな奥様が、今は泣きそうな顔をしている。
「……奥様。」
「私が……。」
奥様は唇を噛んだ。
「私が気付くのが遅かったから、こうなってしまったのよね。」
「…………。」
「本当に申し訳ないわ……。」
そう言うと、奥様は寂しそうに笑った。
「あなたには、随分と酷いことをしてしまったわ。」
僕は何も言えなかった。
この屋敷で過ごした日々が、頭の中を駆け巡る。
千代子として着せられた服。
千代子として教え込まれた言葉遣い。
千代子として過ごした時間。
僕の名前を呼ぶ人は、ほとんどいなかった。
僕が何を好きなのか。
何を嫌いなのか。
そんなことは、誰も聞かなかった。
僕はただ、千代子であればよかった。
「……知佐。」
「……っ!」
突然呼ばれた名前に、僕は顔を上げた。
奥様が、僕をまっすぐ見つめている。
「この家を出たら、あなたは知佐よ。」
「…………。」
「誰でもない、知佐よ。」
知佐。
僕の名前。
ずっと昔に置いてきた名前。
もう二度と呼ばれることはないと思っていた。
「……僕は。」
声が震えた。
「僕は、知佐でいいんですか?」
奥様の表情が歪んだ。
「……ええ。」
そして、僕の手を強く握る。
「あなたは最初から知佐だったのよ。」
「…………。」
「忘れないで。そして、今度こそ尾野家から逃げるの。」
奥様の目から、一筋の涙が流れた。
僕はその涙を見つめていた。
何を言えばいいのか分からない。
ありがとう?
それとも、どうしてもっと早く助けてくれなかったのか。
頭の中には、いろいろな言葉が浮かんでいた。
けれど、どれも口には出せなかった。
奥様は僕の背中をそっと押した。
「さあ、行きなさい。」
「……奥様。」
「振り返らなくていいの。」
そう言って、僕を部屋の外へ押し出した。
ガチャ。扉が閉まる。
「…………。」
僕はしばらく、その扉を見つめていた。
すると――。
「あら?」
背後から声が聞こえた。
振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。
「ふーん。」
女性は僕をじろじろと眺める。
「あなたが知佐ね!」
「…………。」
千代子。
本物の、千代子。
僕が長い間、代わりを務めてきた人物。
千代子は僕の顔を見ると、楽しそうに笑った。
「へぇ。本当に似ているのね。」
「…………。」
「今までご苦労様。」
そして、にっこりと微笑む。
「さよなら。」
それだけ言うと、千代子は僕の横を通り過ぎ、奥様の部屋へ入って行った。
ガチャ。扉が閉まった。
「…………。」
時代と共に、千代子の病気は不治の病ではなくなった。一年前に手術を受け、千代子は病気から完治したようだ。
もう、僕が代わりを務める必要はない。
「……なるほど。」
僕は閉まった扉を見つめる。
「用済みということか。」
不思議と、怒りは湧かなかった。
悲しくもなかった。
ただ、胸の中にぽっかりと穴が開いたような気がした。
僕の人生は、一体何だったのだろう。
そう思いながら、僕は自分の部屋へ戻った。
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部屋に戻ると、僕は鞄を取り出した。
指定された時間まで、あと数時間。
荷物をまとめなければならない。
「…………。」
クローゼットを開ける。
中には、綺麗に並べられた服があった。
どれも高価な物ばかり。
けれど、僕が自分で選んだ服は一着もない。
「……いらないな。」
僕は必要最低限の物だけを鞄に詰めていった。
思っていたより、荷物は少なかった。
あれだけ長い時間を過ごしたのに。
僕の物は、こんなにも少なかったのか。
「…………。」
机の引き出しを開ける。
中には、千代子として使っていた物が入っていた。
僕はそれらを一つずつ取り出した。
そして、机の上に綺麗に並べていく。
千代子としての僕。
今日で、全部終わり。
「……さようなら。」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
コンコン。
「お時間です。」
扉の向こうから声が聞こえた。
「はい。」
僕は鞄を持ち、部屋を出た。
廊下を歩く。
何度も歩いた廊下。
見慣れた絵画。
大きな窓。
磨き上げられた床。
すべてが、いつもと変わらない。
けれど、今日で最後だ。
玄関に着くと、外には一台の車が停まっていた。
空は真っ暗だった。
「こちらへ。」
使用人に案内され、僕は車へ向かう。
その時だった。
「千代子姐様?」
「……ん?」
後ろから、小さな声が聞こえた。
振り返ると、幼い男の子が立っていた。
「まだ病院なの?」
「…………。」
尾野家の末っ子。
由一。
何も知らずに育てられた坊ちゃん。
僕は今日、初めて彼に会った。
小さな身体に、大きな寝間着。
眠たそうな目で、僕を見上げている。
「……こんな時間にどうしたの?」
僕が尋ねると、由一坊ちゃんは首を傾げた。
「千代子姐様、帰って来たの?」
「…………。」
どう答えればいいのだろう。
僕は千代子ではない。
けれど、この子にはそんなこと分からない。
「……冷えるわよ。」
僕はしゃがみ込み、坊ちゃんと目線を合わせた。
「これは夢だから、早く部屋に戻りなさい。」
「夢?」
「そう。夢よ。」
坊ちゃんは不思議そうに僕を見つめた。
「じゃあ、起きたらいないの?」
「…………。」
僕は少しだけ笑った。
「ええ。きっと、いないわ。」
「そっかぁ……。」
坊ちゃんは眠たそうに目をこすった。
僕はその小さな身体を抱き上げる。
「……おやすみなさい。」
背中をゆっくりと撫でると、坊ちゃんは僕の肩に顔を埋めた。
そして、すぐに寝息を立て始めた。
「…………。」
温かい。
小さな手が、僕の服をぎゅっと握っている。
何も知らない子ども。
この子は、これからどんな人生を歩むのだろう。
僕のようには、ならないでほしい。
そう思いながら、僕は眠っている坊ちゃんを執事へ渡した。
「よろしくお願いします。」
「かしこまりました。」
僕は最後に一度だけ坊ちゃんの顔を見た。
そして、車へ乗り込んだ。
バタン。
扉が閉まる。
車がゆっくりと走り出した。
窓の外で、屋敷が少しずつ遠ざかっていく。
「…………。」
僕は振り返らなかった。
もう、戻らない。
絶対に。
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空港に到着したのは、夜も更けた頃だった。
車が停まると、使用人が僕の荷物を降ろした。
「では、知佐様。これでさようならです。」
「……はい。」
初めて会う使用人は、深々と頭を下げた。
そして、車に乗って帰って行った。
ブロロロ……。
車の音が遠ざかっていく。
「…………。」
僕は一人、空港の前に立っていた。
周囲には、大きな鞄を持った人たちが行き交っている。
楽しそうに話す家族。
手をつないで歩く恋人。
眠そうにあくびをする子ども。
誰も、僕のことを見ていない。
誰も、僕を千代子と呼ばない。
「…………。」
僕はゆっくりと息を吸った。
そして、吐く。
「……終わった。」
やっと。
やっと、尾野家から離れられた。
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
けれど、同時に寂しさもあった。
高野。
「…………。」
あの人には、何も言えなかった。
さよならも。
ありがとうも。
これからどこへ行くのかさえ。
きっと、彼はまだ何も知らない。
僕が屋敷を出たことも。
海外へ行くことも。
もう会えないかもしれないことも。
「……ごめんね。」
僕は小さく呟いた。
手に持っていた航空券を見る。
離陸まで、もうあまり時間がない。
「……急がないと。」
僕はチェックインを済ませ、搭乗口へ向かった。
空港の中は明るかった。
あちこちから聞こえる案内放送。
人々の話し声。
キャリーケースが床を転がる音。
僕は航空券を握り締めながら、足早に歩いた。
そして、搭乗口が見えた時だった。
「…………え?」
僕は足を止めた。
少し離れた椅子に、一人の男性が座っていた。
見慣れた横顔。
見慣れた服装。
見間違えるはずがない。
「……なんで?」
ここにいるはずのない人。
高野。
僕の足が、その場に固まった。
すると、高野がゆっくりと顔を上げた。
僕と目が合う。
「…………。」
高野は何も言わずに立ち上がった。
そして、こちらへ歩いて来る。
一歩。
また一歩。
僕の目の前で立ち止まった。
「…………。」
「…………。」
相変わらず無言だなぁ。
そう思った。
何か言ってくれればいいのに。
どうしてここにいるのか。
どうして僕がここに来ると分かったのか。
聞きたいことは山ほどあった。
けれど、高野は何も言わなかった。
ただ、僕の手を取った。
ぎゅっ。
「……え?」
そのまま、僕の手を引いて歩き出す。
「ちょ、ちょっと……。」
高野は振り返らない。
ただ、僕の手をしっかりと握っている。
「…………。」
僕は繋がれた手を見つめた。
大きな手。
何度も僕を守ってくれた手。
屋敷の中でも。
外でも。
僕が千代子として生きていた時も。
この人だけは、僕を見てくれていた。
「……ふふっ。」
思わず笑ってしまった。
本当に。
本当に、あなたという人は。
「……高野。」
僕が呼ぶと、高野は少しだけ振り返った。
「…………。」
「……ありがとう。」
高野は何も答えなかった。
けれど、繋いだ手に少しだけ力がこもった。
僕はその手を握り返した。
もう、千代子ではない。
僕は知佐。
そして、これからは――。
自分の人生を生きていく。
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「んぅー……。」
ゆっくりと目を開ける。
目に入ってきたのは、白い天井だった。
「…………。」
ぼんやりと天井を見つめる。
夢を見ていた。
随分と昔の夢。
もう、何年も前の出来事だ。
「……懐かしいなぁ。」
僕は小さく呟いた。
横を向く。
そこには、すっかり歳を取った高野がいた。
あの頃よりも、顔に皺が増えた。
髪にも白いものが混じっている。
「…………。」
僕はしばらく、その顔を見つめていた。
昔から、あまり喋らない人だった。
何を考えているのか分からない時もある。
けれど。いつも、僕のそばにいてくれた。
「……ふふ。」
僕は小さく笑った。
そして、ゆっくりとベッドから起き上がる。
カーテンの隙間から、明るい光が差し込んでいた。
窓の外には、どこまでも青い海が広がっている。
穏やかな波。
遠くに見える水平線。
僕は窓際へ歩いて行った。
「…………。」
ふと、窓際に置かれた物が目に入る。
腕時計。
その表面には、乾いた血がこびりついていた。
「…………。」
僕は腕時計をじっと見つめた。
昨日の出来事が、頭をよぎる。
あの船員。
そして、近くに設置されていた監視カメラ。
映像に映っていた、一人の人物。
「…………。」
僕は再び顔を上げた。
すると――。
「あら。」
窓の向こうに、見覚えのある姿があった。
天然パーマ。
昨日、監視カメラの映像に映っていた人物。
間違いない。
「…………。」
その姿を見つめる。
そして、知佐の口元がゆっくりと緩んだ。
「ふふ、見つけた。」
そう言うと、知佐は正樹をじっと見つめた。
いつもお読みいただきありがとうございます!
明日は更新をお休みさせていただきます。
次回の更新も楽しみにしていただけると嬉しいです!
引き続き『人類の罪』をよろしくお願いいたします!




