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人類の罪  作者: 華
幸せの形
124/144

運命の人

千代子の代役として生き始めて、11年。


その間、本物の千代子の容体は日に日に悪化していった。


それと同じように、お父様の体調も少しずつ崩れていった。


そして今日、僕は18歳になった。


コンコン。


「入りなさい」


お父様に呼ばれ、僕は部屋へ入った。


ゴホッ、ゴホッ。


「……来たか、千代子」


ベッドに横たわるお父様は、すっかり痩せ細っていた。


かつて僕を殴っていた手も、今では布団の上に力なく置かれている。


もう、僕に暴力を振るう力さえ残っていないのだろう。


「お父様」


「これからお前は、千代子の婚約者に会いに行け。決して正体を悟られるな」


「はい」


そう答え、僕は頭を下げた。


18歳になった今も、僕の声は変わっていない。


体つきも、同年代の男性のようには成長しなかった。


原因は分かっている。


定期的に打たれる、女性ホルモンの注射。


千代子として生きるために、僕の身体は少しずつ作り変えられてきた。


「失礼いたします」


もう一度頭を下げ、僕は部屋を出た。


廊下を歩いていると、向こうから奥様がやって来た。


「あら、今日の格好も似合っているわね。たまにはズボンを履いてもいいのよ?」


そう言いながら、奥様はいつものように僕へ飴を差し出した。


「ありがとうございます。お母様」


「…………」


奥様の足が止まる。


「あなたのお母さんは一人でしょう? 無理にそう呼ばなくていいのよ」


眉間に皺を寄せた奥様は、僕の横を通り過ぎていった。


「…………」


手のひらに残された飴を見つめる。


……そっか。


僕はまだ、この人を母と呼ぶ資格がないんだ。


そう思いながら、飴をポケットにしまった。


「千代子様」


背後から声を掛けられ、振り返る。


そこにいたのは文彦だった。


僕よりずっと年上で、幼い頃からこの屋敷に仕えている人だ。


「はい」


「婚約者の高野様が、お庭でお待ちです」


「分かりました」


僕は文彦に案内され、庭へ向かった。


文彦は、父親とは違って穏やかで、人情味のある人だった。


普段は本物の千代子に付き添っているけれど、僕が社交の場へ出る時には、こうして世話をしてくれる。


彼はまだ、千代子が二人いることを知らない。


……いや。


もしかすると、薄々気づいているのかもしれない。


そんなことを考えているうちに、庭へ続く扉の前に着いた。


ガチャ。


扉が開いた瞬間、柔らかな風が吹き込んできた。


風に乗って、白い薔薇の花びらが舞い上がる。


「わぁ……」


思わず花びらを目で追った、その時――。


「っ!」


砂埃が目に入った。


痛い。


僕は慌てて目を閉じる。


すると、すぐ目の前から声が聞こえた。


「……どうぞ」


差し出された手が、僕の手のひらにハンカチを置く。


「あ、ありがとうございます」


ハンカチで目元を拭い、僕はようやく顔を上げた。


そこにいたのは、短い黒髪の男性だった。


しっかりと鍛えられた身体。


整った顔立ちをしているけれど、表情はほとんど変わらない。


何を考えているのか、少し分かりづらい人だ。


「…………」


「…………」


互いに、しばらく何も話さなかった。


……どうしよう。


何か話した方がいいのかな。


そう思っていると、男性が静かに口を開いた。


「……高野です」


「あっ、千代子です」


「……知っています」


「そ、そうですよね」


「…………」


「…………」


……会話が終わってしまった。


けれど、不思議だった。


この人の前では、無理に笑わなくてもいいような気がする。


初めて、肩の力が抜けるという感覚を知った。


それからというもの、高野さんは頻繁に屋敷を訪れるようになった。


「……座りますか?」


「はい」


「……これ、美味しいですよ」


「ありがとうございます」


高野さんは、あまり多くを話さない。


けれど、僕が何かを断っても嫌な顔をしなかった。


無理に勧めることもない。


沈黙が続いても、怒ることはなかった。


それが、僕にはとても心地よかった。


ある日のこと。


いつものように庭を歩いていると、高野さんが隣で足を止めた。


「……君は、何か好きですか?」


「え?」


「好きなもの」


「…………」


好きなもの。


僕は考え込んだ。


千代子の好きな食べ物。


千代子の好きな花。


千代子の好きな音楽。


それなら、すべて答えられる。


でも……。


僕自身が好きなものは、何だろう。


「……分かりません」


そう答えると、高野さんは少しだけ首を傾げた。


「……そうですか」


それだけだった。


怒ることも、呆れることもない。


そして、高野さんはそっと僕の手を取った。


「では、これから探せばいいですね」


「…………」


僕は目を見開いた。


高野さんは、ほんの少しだけ微笑んでいた。


その表情を見た瞬間、頬が熱くなる。


……なんだろう。


胸の奥が、くすぐったい。


僕は思わず俯いた。


その時、屋敷の窓から僕たちを見つめる視線があった。


けれど、僕は気づかなかった。


その日の夜。


僕は自分の部屋で、昼間の出来事を思い返していた。


高野さんの手。


大きくて、温かかった。


「…………」


自分の手のひらを見つめる。


ふふっ。


思わず笑みがこぼれた。


すると――。


「随分、楽しそうだね」


「っ!」


身体が強張った。


ガチャ。


お兄様が部屋に入ると、背後で鍵の閉まる音がした。


「何かいいことがあったのか、教えてくれるかい?」


聞き慣れた声。


忘れたくても、忘れられない声。


「……愛しい千代子」


耳元で囁かれた瞬間、さっきまで熱かった頬から血の気が引いていった。


お兄様。


いや――。


獣だ。


お兄様は結婚してから、僕の部屋へ来なくなっていた。


だから、もう終わったのだと思っていた。


ようやく解放されたのだと。


なのに。


どうして。


「やっと、また一緒になれるね」


そう言いながら、お兄様が近づいてくる。


僕は後ずさった。


けれど、すぐに腕を掴まれた。


「…………」


声が出ない。


身体も動かない。


昔と同じだ。


僕は目を閉じた。


何も考えなければいい。


我慢すれば、いつか終わる。


そう、自分に言い聞かせた。


翌朝。


僕は浴室にいた。


シャアアアア……。


冷たい水が、頭から身体へ流れ落ちていく。


何度も。


何度も。


それでも、昨夜の感覚は消えなかった。


「……うっ」


吐き気をこらえながら、僕はただ水を浴び続けた。


気づけば、窓の外は夕暮れに染まっていた。


ようやく水を止め、浴室を出る。


そして、鏡を見た。


「…………え?」


首元に、赤黒い痕が残っている。


僕は慌ててタオルで擦った。


ゴシゴシ。


ゴシゴシ。


……取れない。


「なんで……」


もう一度擦る。


それでも、痕は消えなかった。


コンコン。


「千代子様」


文彦の声だった。


「本日は琴子様のお祝いのディナーがございます。ご準備はいかがでしょうか?」


「……はい。すぐに行きます」


僕は急いで、首元が隠れる服に着替えた。


そして、文彦とともに食事の部屋へ向かう。


その途中――。


「……おう」


「…………!」


目の前にいた人物を見て、僕は足を止めた。


高野さんだった。


軽く手を挙げながら、頬をわずかに赤くしている。


……どうして。


どうして、今日なの?


「……?」


高野さんが首を傾げる。


「どうした?」


僕が動けずにいると、高野さんはそっと手を取った。


「……冷たい」


その表情が変わる。


「大丈夫か? 風邪でも引いたのか?」


「…………」


僕は何も答えられなかった。


ただ、心配そうに僕を見つめる高野さんを見返す。


やがて、高野さんは文彦に声を掛けた。


「すみません。ひざ掛けを持ってきてもらえますか?」


「かしこまりました」


高野さんは僕の手を離さず、そのまま食事の部屋へ歩き出した。


扉が開く。


そして、最初に目に入ったのは――。


お兄様の顔だった。


僕を見るなり、口元をにやりと歪める。


……お前か。


僕は手を握り締めた。


怒りなのか、恐怖なのか。


自分でも分からない。


ただ、身体が震えていた。


すると、高野さんが僕の手をそっと包み込んだ。


「……こっちへ」


そう言って、席まで案内してくれる。


そして、使用人に温かい飲み物を頼んだ。


「本当におめでたいわぁ。琴子さんが妊娠して、ますますこの家も賑やかになりそうだわぁ」


奥様の楽しそうな声が響く。


「ありがとうございます、お義母様」


琴子さんは幸せそうに、お腹を撫でていた。


「…………」


妊娠。


その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。


……まさか。


昨日のことは、そういう意味だったのか。


お兄様が僕の部屋へ来なくなったのは、結婚したからではなかった。


後継者ができるまで、琴子さんのそばにいただけ。


そして今。


琴子さんが妊娠したから……。


僕はゆっくりと顔を上げた。


斜め前に座るお兄様と目が合う。


すると、お兄様は口だけを動かした。


『今夜も行く』


「…………っ」


そのまま、お兄様は何事もなかったかのように琴子さんへ微笑みかけた。


愛おしそうに、そのお腹を撫でている。


……終わってる。


終わってる!!


僕は膝の上で拳を握り締めた。


その時だった。


高野さんが、僕の手を包んでいた指にわずかに力を込めた。


そして、静かに立ち上がる。


「……すみません」


全員の視線が高野さんへ向いた。


「やはり千代子さんの顔色が悪いので、今日は僕の勤めている病院で診てもらいます」


「え?」


僕は思わず顔を上げた。


すると、お兄様がすぐに口を挟む。


「いえ、そこまでお手を煩わせるわけにはいきませんよ」


高野さんは、お兄様を見た。


「……いえ」


そして、僕の手を握り直す。


「僕の婚約者なので」


「…………」


お兄様の笑顔が、一瞬だけ固まった。


けれど、高野さんは気にする様子もなく、僕を立たせた。


「今日はこれで失礼します」


そう言うと、用意されていたひざ掛けを僕の肩に掛けてくれる。


「文彦さん、車をお願いします」


「かしこまりました」


高野さんは僕の手を引き、部屋を出た。


廊下を歩いても、誰も追いかけてこない。


玄関を抜ける。


大きな扉が開いた。


その瞬間――。


「…………」


僕は足を止めた。


空が見えた。


庭から見える、限られた空ではない。


屋敷の外へ続く、広い空。


風が頬を撫でる。


遠くから、人の話し声が聞こえる。


車の走る音。


鳥の鳴き声。


どれも、知らない音のようだった。


「……千代子さん?」


高野さんが振り返る。


「大丈夫か?」


「…………はい」


僕は小さく頷いた。


そして、もう一度空を見上げた。


11年ぶりに見た外は、とても鮮やかだった。

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