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人類の罪  作者: 華
幸せの形
123/144

千代子

ザーザー


窓の外では、雨が降り続いていた。


それでも、朝はやってくる。


僕は目を覚ますと、用意された服に着替える。


今日は緑色のワンピースのようだ。

そして、僕は鏡を見る。


鏡に映ったのは、長い髪をした少女……いや、少年だ。


髪を整えると、僕は廊下に出る。


そして、ある部屋の前に着くと、コンコンと扉を叩いた。


「入りなさい。」

中から声が聞こえた。


僕は扉を開け、部屋へ入る。

そして――。


僕は……いや、私はお辞儀をする。


「おはようございます。お父様、お兄様。」


顔を上げると、険しい表情をしたお父様がズカズカと歩いて来た。


そして――。


パシッ。


「お辞儀の角度が足りない!! いい加減覚えろ!」


「申し訳ありません。旦那様。」


「お父様だろ!」


「は、はい。申し訳ありません、お父様。」


私が謝ると、お父様は満足そうに席へ戻って行った。

すると、お兄様が近づいて来た。


私の手を引き、そのまま席へと促す。


離れる際、手の甲をゆっくりと撫でながら。


「…………。」


私は目の前に並べられた料理を、丁寧に口へ運んでいく。


うっ……。


今日も料理の半分が傷んでいる。


それでも、顔には出さない。


黙々と食事を続けた。


食事を終えると、お父様が先に部屋を出て行った。


すると、お兄様が立ち上がり、私のところへやって来た。


そして、頬を撫でてくる。


「ああ……僕の愛しい千代子。」


そう言いながら、頬に触れていた手がゆっくりと下がっていく。


皮膚の上を滑る指先に、背中が強張った。


息が浅くなる。 


喉がひどく乾く。


逃げなければと思うのに、足は床に縫い付けられたように動かなかった。


コンコン。


突然、扉を叩く音が響いた。


その音に反応して、お兄様の手が止まる。


僕の身体だけが、遅れて震え始めた。


そして、お兄様は何事もなかったかのように席を離れ、扉へと歩いて行った。


ガチャ。


「おはようございます。今日は結婚式の打ち合わせについて参りましたわ。」


「おはよう、琴子。会いたかったよ。」


そう言うと、お兄様は琴子さんを抱きしめた。


「朝ご飯は食べたかい?」


「まだですわ。」


「じゃあ、よかったら一緒に食べよう。」


そう言って、琴子さんを席へと促す。


席に着いた琴子さんは、私の方を見ることもなく、ずっとお兄様を見つめていた。


ガタッ。


「お先に失礼します。」


私がそう言って席を立つと、琴子さんがこちらを睨みつけた。


けれど、すぐにお兄様へ視線を戻し、楽しそうに話を続けていた。


「…………。」


自分の部屋に戻ると、待っていたのは山のような課題とマナーの授業だった。


パシッ。


「ここが違いますわよ!」


そう言って、持っていた鞭で僕の手の甲を叩くのは奥様。


この家で唯一、まともな人だ。


「なんですの! 文句があるなら、しっかりやりなさい!」 


そう言いながら、奥様はポケットから飴を取り出した。


そして、僕が読んでいた本の上に、そっと置く。 


「ふん。後でまた見に来ますからね!」


そう言い残すと、奥様は部屋から出て行った。


「…………。」


いつの間にか外は晴れていた。


僕は本の上に置かれた飴を見つめる。


知っている。


奥様がこうして、僕の休憩時間を確保してくれていることを。


それに、鞭で叩く時も。


本当は、ほとんど力を入れていないことを。


僕は飴を手に取ると、そっと口に入れた。


甘い。


この家に来てから、数少ない好きな時間だった。


コンコン。


「はい。」


奥様が戻って来たのだろうか。


いつもより早いなぁ。


そう思いながら扉を見る。


けれど、入って来たのは奥様ではなかった。


お兄様だった。


いや――。


獣だ。


お兄様は部屋に入るなり、扉に鍵をかけた。


カチャリ。


その小さな音が、部屋の中でやけに大きく響いた。


指先から血の気が引いていく。


飴の甘さが、急に遠のいた。


「…………。」


僕は何も言わなかった。


抵抗することも、とうの昔にやめていた。


お兄様が近づくたび、身体が先にこわばる。


腕を掴まれた瞬間、そこだけが自分のものではなくなったように感じた。


お兄様は僕の腕を掴むと、そのままベッドへと連れて行く。


床が遠い。


天井が近い。


視界の端がぼやけて、部屋の輪郭が少しずつ崩れていく。


僕はただ、目を閉じた。


だって、こうしていた方が早く終わるから。


何も考えない。


何も感じない。


身体をここに置いたまま、意識だけを別の場所へ逃がす。


ここにいるのは、僕じゃない。

千代子だ。

僕は千代子。

千代子は僕。

……違う。

僕は……。


「…………。」


考えるのをやめた。


雨音を思い出す。


窓の外の空を思い浮かべる。


遠くで誰かが笑っているような気がした。


ただ、時間が過ぎるのを待つ。


その時だった。


「ふふ、久しぶりの外はやっぱり楽しいわね。」


窓の外から、楽しそうな声が聞こえて来た。


「千代子お嬢様! 走ったら危ないですよ〜!」


「…………。」


僕は目を開けなかった。


声だけが、薄暗い水の底から差し込む光のように聞こえてくる。


楽しそうな笑い声。


誰かが走る足音。


僕と同じ名前を呼ぶ声。


千代子。


僕も、そう呼ばれる。


でも、あの声が呼んでいるのは僕じゃない。


その声を聞いている間だけ、僕はここにいなくてよかった。


僕は、ただそれを聞いていた。

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