消えた名前
僕は常に酒と煙に包まれて生きていた。
僕の家には母しかいなかった。
母はいつも酒を飲んでは、泣いていた。
朝も、昼も、夜も。
酒を飲んでは怒鳴り、気に入らないことがあれば僕を殴った。
「こんなはずじゃなかったのに!!」
そう言っては、僕を憎そうな顔で見つめる。
どうして殴られるのか。
何がいけなかったのか。
そんなことを考えても、答えは出なかった。
誰も教えてはくれない。
ただ、母の機嫌を損ねないようにする。
部屋の端っこで、ただ息を殺して。
それだけが、僕の日常だった。
そんな日々が、ずっと続くと思っていた。
雪の降る夜。
母は何かに取り憑かれたかのように、僕を殴った。
いたい……いたい。
そんな声は誰に届くこともなく、母はただ僕を殴り続けた。
段々と瞼が重くなり、目の前が真っ暗になっていく。
そして――。
僕は意識を失った。
次に目を覚ました時には、白い部屋にいた。
そう。
僕は病院のベッドで目を覚ました。
「…………。」
白い天井。
知らない匂い。
身体を少し動かすだけで、あちこちに激痛が走る。
「……っ。」
顔をしかめると、突然、横から声が聞こえた。
「目が覚めたんだね。」
ゆっくりと顔を向ける。
そこには、見知らぬ男性が座っていた。
「はじめまして。尾野です。」
男性はそう言うと、僕に水の入ったコップを差し出した。
「喉が渇いただろう? 飲めるかい?」
「…………。」
僕は差し出されたコップをじっと見つめる。
男性は優しく微笑んでいた。
初めて見る笑顔だった。
けれど――。
吐き気がする。
なぜだか分からない。
ただ、その笑顔を見ていると、胸の奥がむかむかした。
「…………。」
僕が何も答えずにいると、男性の後ろから別の人物が現れた。
中年の男性だった。
その男性は僕を見るなり、ベッドの横まで歩いて来た。
そして――。
ガシッ。
突然、僕の顔を掴んだ。
「……っ!」
痛い。
男性はそんなことなど気にも留めず、僕の顔を左右に動かした。
まるで、品物でも確かめるように。
「ふん。」
男性は鼻を鳴らす。
「痣で腫れているが……千代子にそっくりだなぁ。」
「…………。」
千代子?
誰?
僕が男性を見つめていると、彼はさらに顔を近づけてきた。
「いいか。」
低い声が耳元に響く。
「お前は今日から千代子だ。」
「…………え?」
何を言っているのか分からなかった。
千代子?
僕が?
「返事は?」
「…………。」
「返事をしろ。」
顔を掴む手に力が入る。
「……うん。」
僕の顔を掴む手に、さらに力が籠る。
「はいだろ?」
「……はい。」
僕が小さく答えると、男性はようやく手を離した。
「それでいい。」
そう言い捨てると、男性は僕を振り返ることもなく、部屋から出て行った。
バタン。
「…………。」
静かになった病室。
最初に水を差し出した男性が、心配そうに僕を見つめていた。
「……大丈夫かい?」
「…………。」
僕は何も答えなかった。
ただ、男性を睨みつけた。
優しい笑顔。
心配そうな声。
そんなもの、信用できない。
できるわけがない。
だって、そうだろう?
母さんだって、機嫌がいい時は優しかった。
笑っていた。
僕の頭を撫でてくれたこともあった。
でも、次の日には僕を殴った。
だから、僕は知っている。
誰かを信じたって、痛い思いをするだけだ。
誰も助けてくれない。
誰も守ってくれない。
だったら――。
僕を守れるのは、僕だけ。




