指先
俺は、目の前に立つ「ものの◯姫」をじっと見つめていた。
淡い月明かりが森の隙間から差し込み、白い服をぼんやりと浮かび上がらせている。その姿は、夜の闇から切り取られた一枚の絵のようだった。
風が吹くたび、周囲の木々がざわざわと揺れる。
枝と枝が擦れ合い、葉が低く囁き合う。
けれど――。
女性の周りだけは、異様なほど静かだった。
風も届かない。
木々のざわめきも、そこだけ避けている。
まるで、女性の立つ場所だけが、この世界から切り離されているみたいだった。
……あれ?
どこかで見たことがある。
ん?
あ!!!
昼間の女性だぁ!
「あ!!!!」
俺が驚いて声を上げると、女性もゆっくりとこちらを向いた。
月明かりが、その顔を薄く照らす。
日に焼けた小麦色の肌のはずなのに、不思議と光っていた。
長い髪が揺れ、まるで月の光をまとっているみたいだ。
そして、底の見えない琥珀色の目。
あ、目が合った。
その瞬間――。
ザァァァァ……。
森の奥から、突然、強い風が吹き抜けた。木々が一斉に大きく揺れ、無数の葉が月明かりの中へ舞い上がる。
俺は思わず目を細める。
けれど女性は、まるで風など存在していないかのように、ただそこに立っていた。
白い服は揺れない。
足元の草も動かない。
ただ、長い髪だけが、風の流れに逆らうようにふわりと宙へ浮かんでいる。
月明かりの下で見るその姿は、息を呑むほど神秘的だった。
綺麗なのに――。
なぜか、背中がぞわぞわする。
肌の内側を、冷たい空気でなぞられているような感覚がした。
女性は何も言わず、俺を見つめている。
まるで、俺がここへ来ることを、ずっと前から知っていたみたいに。
そして――。
にっこりと笑った。
「ほう……お主とここで会うのも、何かの縁やっさぁ。」
思っていたよりも低い声だった。
森の奥から響いてくるようで、それなのに耳元で囁かれたようにも聞こえる。
不思議な声だった。
でも、どこか心地よい。
「縁?」
俺が首を傾げる。
女性は答えない。
ただ、月明かりの中で俺の顔をじっと見つめている。
やがて、ゆっくりと右手を上げた。
すっ――。
白い指が、夜の空気をなぞる。
細い人差し指が伸びた。
俺に向かって――。
いや。
違う。
俺じゃない。
女性の指先は、俺の肩を越え、その背後へ向けられていた。
俺はゆっくりと振り返る。
そこには――。
般若みたいな顔をした柊木さんが立っていた。
月明かりに照らされたその表情は、普段よりもずっと恐ろしく見える。
……いや。
柊木さんだけじゃない。
縛も、真美ちゃんも、結愛ちゃんもみんないる。
けれど――。
誰も動かない。
喋らない。
風に揺れる木々の音だけが、遠くで続いている。
なのに、みんなの周りだけは音がない。
まるで、そこだけ時間を止められてしまったみたいに。
「……?」
なんで?
俺はもう一度、女性を見る。
「ふっ……お主も大変よのぉ。」
女性は面白そうに笑った。
そのゴロゴロとした笑い声は風に溶け、森の奥へ吸い込まれていく。
けれど俺は、返事ができなかった。
おかしい。
なんかおかしい。
「これから先、わしとは会う機会が増えるであろう。」
「え?」
「お主に一つ、教えておこう。」
女性の声が低くなる。
その瞬間、ざわざわと揺れていた木々が、ぴたりと静まった。
葉の擦れる音も消え、風の音も消える。
森全体が、息を止めたようだった。
「お主が知りたいことは――」
女性が、俺を真っ直ぐに見つめる。
月明かりがその瞳に映り、淡い光が揺れていた。
「お主は、もう知っている。」
「……俺が?」
「よく考えよ。」
意味が分からない。
俺が知りたいこと?
それを、もう知っている?
女性はそんな俺を見て、再びにっこりと笑った。
そして、ふと視線を夜の闇へ向ける。
そこには、小さな光が浮かんでいた。
ひとつ。
またひとつ。
暗闇の奥から、淡い光がゆっくりと現れる。
蛍だ。
一匹。
二匹。
気が付けば、いくつもの蛍が俺たちの周りを漂っていた。
月明かりとは違う、頼りなく儚い光。
消えそうになっては灯り、灯っては闇へ沈む。
その光が、女性の白い服や髪を淡く照らしている。
まるで、森の中に無数の小さな魂が浮かんでいるようだった。
「そうさなぁ……。」
女性が、一匹の蛍へ手を伸ばす。
蛍は逃げなかった。
ふわり、ふわりと揺れながら、細い指先へ近づいていく。
そして、吸い寄せられるように、その指先へ止まった。
淡い光が女性の顔を照らす。
女性は、その光を見つめながら呟いた。
「光というものは、不思議なものよのぉ。」
「光?」
「暗闇の中では、小さな光ほどよく見える。」
女性の琥珀色の瞳が、俺へ向けられる。
「一度見た光を、忘れるでないぞ。」
「……一度見た?」
なんのこと?俺が首を傾げると、女性はそれ以上何も言わなかった。
ただ、意味深に笑っている。
蛍が指先から離れる。
ふわり。
淡い光が暗闇を横切った。
点いて。消えて。また、点く。
「…………。」
その光を見ていると――。
なぜだろう。
何かを思い出しそうになる。
暗いところで見た、小さな光。
どこだった?いつ見た?
あと少しで思い出せそうなのに――。
頭の奥に、薄い霧がかかったみたいに出てこない。
「よく見ておくことやっさぁ。」
女性の声が聞こえる。
「お主の目は、もう答えを見ておる。」
「俺の……目?」
「ふっ……。」
その瞬間――。ブワッ!!
女性を中心に、強い風が巻き上がった。地面に積もった枯れ葉が舞い上がり、砂埃が渦を巻く。無数の蛍が風にさらわれ、光の粒となって夜空へ散っていった。
「うわっ!」
俺は思わず腕で顔を覆う。
目を開けていられない。
風の音が、耳元で唸っている。
その中に混じって、女性のゴロゴロした笑い声が聞こえた。
遠くから。
近くから。
森のあちこちから。
まるで、何人もの女性が同時に笑っているようだった。
そして――。
ふっと、風が止んだ。
「…………?」
俺はゆっくりと腕を下ろす。
目の前には、さっきまでと同じ夜の景色が広がっていた。
「……いない。」
さっきまでそこに立っていたはずの女性だけが、跡形もなく消えていた。
足跡もない。草を踏んだ跡すらない。
まるで、最初からそこには誰もいなかったみたいに。
残されていたのは――。
ふわり。
俺の目の前を横切る、一匹の蛍だけだった。
点いて。消える。
そして、もう一度――。
淡く光る。
「…………光?」
その瞬間。
頭の奥に、ほんの一瞬だけ何かが浮かんだ。
暗闇。海。そして――。
何かに反射した、小さな光。
「……あれ?」
でも、それが何だったのか……。
「んー。」
「んーじゃないだろ!?」
ゴンッ!!
その瞬間、頭に強い衝撃が走った。
「い、いたぁぁぁぁー!!!!!!」
俺は頭を押さえながら、その場にしゃがみ込む。
「ったく!こんなに呼んでるのに、お前はどんどん暗い道を進んでいくしよ!」
「え?」
俺は顔を上げる。
あれ?柊木さんが動いてる。
……え?暗い道?
俺は周囲を見渡した。
縛もいる。真美ちゃんも、結愛ちゃんもいる。
さっきまで、みんな確かに動いていなかった。
声も聞こえなかった。
なのに――。
今は何事もなかったみたいに、俺の目の前に立っている。
「…………。」
ぞわっ。全身に鳥肌が立った。
ふぇ。
え!?まさか!?
えええええええええ!?
なに今の!?幽霊!?
いやいやいや!
ちゃんと足あったぞ。あったから!!!
俺、見たよね!?っていうか、ものの◯姫と普通に喋っちゃったよぉぉぉぉ!!
「正樹さん?」
縛の声で我に返る。
「なんですか?これ?」
「ん?」
縛が俺の頭を見ながら、眉をひそめている。
そして、俺の髪に手を伸ばした。
何かを摘まみ、そのまま引き抜く。
「葉っぱ?」
「葉っぱ?」
俺も縛の手元を覗き込む。
いや、葉っぱじゃなかった。
一枚の、小さな紙。
「……名刺?」
縛から受け取る。
そこには――。
たった二行だけ、文字が書かれていた。
『ユタ 仲間 麗子』
「…………。」
麗子。
俺は名刺と、さっきまで女性が立っていた場所を交互に見る。
なんだろう。ものの◯姫の方がしっくりする。




