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第9話 狂人と彼女は自由を得て、共に絶望に浸る?

 ザガンは無言で歩み寄り、シヌヨーの傍らに片膝を落とす。

 血だまりに沈んだ顔は、いつもの間延びした表情のまま固まっていた。


「おーい、シヌヨー様~」


 ぺちん……ぺちぺちぺちぺちーーーぺぺぺぺぺぺーーー。


「生きてまーすーか~」


 もう顔だけしかないシヌヨーの頬に往復ビンタするザガン。

 その頭の揺れが、血の湖の表面に薄く波を作る。

 月明かりの下、横たわる遠征軍の屍は、すでに静かだった。

 胸元の革鎧が縦に割られ、その奥――本来なら脈打つ宝石があるはずの位置に、光のない欠片が、灰のように散らばっている。

 ご丁寧に砕かれていた。

 誰かが、シヌヨーの魂核を、わざわざ正面から砕いていったのだ。


「……ガチで死んでる」


 信じられない、夢かと思ったが頬を自らつねっても変わらない。

 ザガンの口から落ちたのは、悲嘆でも安堵でもない、ただ事実を確かめるための呟きだった。

 十年。物心ついた頃から首輪を握られていた男の死を前にし、彼はぼーっとしていた。

 今まで生きるのに必死だったザガンはそこでようやく違和感に気づいた。

 左胸。革装備の下、ずっと熱を持っていたはずの場所が、いつの間にか、ひんやりと冷たい。


「……あれ?」


 ザガンは指先を、自分の胸へ滑らせる。

 布越しに何度かなぞり、首をひねる。

 もう一度なぞる。

 そして――。


「待てよ。待て待て待て。これって……まさか」


 弾けるように立ち上がり、震える指先で、革装備の留め具に手をかける。

 ザガンは、疲れなど忘れたかのように装備を引きずり下ろし始めた。


「は……ちょっと、何してるのよ、あなた」


 屍の山を見渡していた彼女の視界に、いきなり男の上半身がねじ込まれる。

 粗末な麻地のシャツの裾が乱暴に捲り上げられ、月光の下に、傷だらけの素肌がさらされていく。


「ちげぇーよ!テメェに俺の奴隷紋があるかどうか、見てほしいんだっての」


 血まみれの革装備が、湿った音を立てて足元に落ちる。

 続けて、汗と血で張りついたシャツも頭から引き抜かれ、放り捨てられた。

 月光の下に、ザガンの上半身が剥き出しになる。

 古い斬り傷、新しい爪痕、引き締まった胸板と腹。

 失われたばかりの左肩の断面が、ぎちりと編まれた筋繊維で蓋をされ、その縁に黒く乾いた血が縁取りのようにこびりついている。

 その肉体に――フィーナの視線が、止まった。


「……♡」


 月光に晒された男の輪郭が、つい数刻前まで自分を片腕で抱え上げていた腕であり、自分の胸を遠慮なく揉みしだいた手。

 胸の内側で、忘れていたはずの感触が、薄い水紋のように広がっていく。

 ――気持ち良……。

 ふぁっ、と頬の奥に熱が灯った瞬間、フィーナは銀髪を勢いよく左右に振った。      

 湿った夜気が、汗ばんだ首筋を撫でていく。

 (ばか。何を……っ、何を、考えているの、私)

 誤魔化すように、視線を彼の肉体から左胸の一点へ無理やり付け替える。


「……ないわね。奴隷紋の主が死んだからかしら」

「マジ?」


 十年以上、ザガンの胸に刻まれていた奴隷紋が綺麗さっぱり消えていた。

 

「よっしゃーーーーーッ!自由だぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」


 爆音が血の湖の上を渡り、屍の山の谷間へと吸い込まれていく。

    

「俺ぁ、ずっと、ずぅーっとこの日を待ってたんだぜ!」


 ザガンはその場でくるりと一回転し、空に向かって両手――もとい、右の片手だけを突き上げた。

 失ったはずの左肩の断面が、自分の鼓動に合わせてドクン、と疼いたが、本人にとってはもはや誤差だった。


「あんのデブブタ野郎、シヌヨーがッ!散々俺をこき使いやがってよぉ!やらかしたら鞭で叩いてくるわ、飯は減らすわ、戦場じゃ最前線、休みなんざ十年で三回ぐれぇしかなかったんだぞ!?まったく、いい気味だぜ、ざまぁみやがれってんだ」


 奴隷紋を刻まれた者は、主に逆らうことができない。

 命令は絶対であり、破れば自身の首を絞めつける。

 自由奔放なザガンをずっと縛り付けていたものが、ようやく無くなったのだ。

 彼女の胸を揉んだ、それ以上に人生で一番喜ばしく思っている。

 

「ヒャッハーー!!!!!!!よしっ、テメェも脱げ!テメェの奴隷紋だって、消えてっかもしんねぇだろうが。確認だ、確認!」

「ぬっ、脱ぐわけがないでしょ」

「あっ?テメェーの奴隷紋だけ残っているかもしんねぇだろ。さっさと脱げ、見せろ。おっぱいを」

「本性を見せたわね。私の奴隷紋を見たい?胸を見たいだけでしょ」

「チッ!」

「だと思ったわよ。嫌といったら嫌。後とで、自分で見るから結構よ」

「えぇーーーッ!?」

「叫ばない」


 ぴしゃり、と言葉が鞭のように落ちる。

 ザガンは肩を一つ落とし、しょぼくれた子犬の顔で、放り捨てたシャツを拾い直した。


「……ったく。せっかくの記念日だってのによぉ。びーちくくらい拝みたかったぜ」

    

 彼女もまた、シヌヨーの奴隷だった。

 奴隷紋が解除され、自由の身になったことは嬉しいのだが、ザガンのような元気はもうなかった。

 彼が血まみれのシャツを羽織り直す音を聞きながら、彼女は自分の片膝にそっと指を添える。

 足の傷は、まだ塞がっていない。

 魔族の自己再生能力は万能ではないからだ。

 再生は体力を削り、一定以下まで落ち込むと働かなくなる。

 今の彼女は、まさにその状態。

 指先一つ動かすのも億劫で、術を一つ編むことすら、もう難しい。

 あの洞窟で、もしザガンが居なかったら。

 不死の魔族の群れに足首を掴まれ、岩肌に縫いとめられ、魔王のもとへ運ばれていた自分の姿が、まぶたの裏に鮮明に浮かぶ。

 考えるだけで、銀髪の根本から、ぞわりと冷たいものが立ち昇った。


「……ねえ」

「ぁん?」


 シャツの裾を直しながら振り返る。

 彼女は、ザガンの顔を真っ直ぐには見なかった。

 視線は、自分の銀髪の先端、夜風に弄ばれる細い毛束のあたりを彷徨っている。


「まずは、ありがとう」


 冷たい彼女からのまさかのお礼。

 ザガンは数秒、口を半開きにしたまま固まり、やがて唇の端だけを、ぐにゃりと吊り上げる。


「ハッ。良いってことよ。ま、感謝の気持ちってのは、口だけじゃなくてよぉ、ちゃーんと体で示してくれてもいいんだぜ?」

「却下」

「即答かよ」

「私の勝ちだもの。負け犬に、抱かれる権利はないわ」

「ぐっ……ぬぐぐ、痛ぇとこ突きやがって」

「事実を述べたまでよ」


 軽口を叩き合う。

 ザガンは胡座をかいて屍の山に背を預け、彼女は岩の上に細い体を横たえる。

 ――それから、ほとんど同時に。

 二人は、揃って深く長い息を吐いた。


「これから、どうすればいいのかしら」

「どうすんだよ、これから」


 ほとんど同じ言葉が、ほとんど同じタイミングで、二人の口から漏れた。

 なぜなら、二人は今、絶望的な状況にあるからだ。

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