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第8話 狂人の火事場の馬鹿力……あれ?ご主人様、死んでね?

 引き千切られた断面に外気が触れた瞬間、ザガンの体内から、何か温かなものがごっそりと抜け落ちていく。

 遅れて、痛みが追いついてくる。

 神経の線が一本残らず引きずり出されるような、生臭い熱。


「ぅ──ぐ、ぁああああああ──ッ!」


 絶叫が湿った天井に跳ね返る。

 その背後で、ザガンの左腕が、ぼちゃ、と湿った音を立てて岩肌に転がる。指先がまだ、双剣の柄を律儀に握っていた。


「づぅ……っ、ぐ、ぅ、ぅぅぅ……」


 地面に片膝を突いたザガンの口の端から、こらえきれずに唾が垂れる。

 視界の縁がにじむ。

 流れ落ちた血が湿った岩を赤く染め、もう、見たくないくらいの早さで、染み込んでいく。


 ダンッ ダンッ ダンッ。

 

 ザガンと彼女は重い地響きの方へ目を凝らす。

 そこには、倒したはずの二体のオーガが起き上がっていた……。

 彼の腕をもぎ取ったばかりの一体が、勢いそのままに拳を振り上げる。


「ッ!!!」


 彼女の白い指先から、太い氷柱が一本、まっすぐに射出された。

 オーガの腹を貫き、後方の岩壁に縫いとめる。

 残る二体が同時に踏み込んでくる気配を察し、彼女は片腕を頭上へ撥ね上げた。

 ピシッ、ピシッ、ピシ――ッ。

 空気そのものが軋み、洞窟を縦に断つようにして、半透明の氷の壁が地から天へとせり上がっていく。

 魔族の咆哮が、壁の向こうでくぐもった。


「……ザガン」


 壁を張り終えるなり、彼女は振り返りもせず、すぐにその場へ片膝を落とした。

 白い指先が、千切れた肩口の断面へと迷いなく伸びる。氷の薄膜で血管の口を封じる――それが、今この場で最も確実な止血だった。

 それに気づいたザガンは残った右腕で彼女の手首を、ぐい、と押し戻す。


「……大丈夫、だっつーの」

「大丈夫なわけ、ないでしょう。今すぐ止めないと、あなた――」


 彼女が吸ったこともあり、ザガンの体内にある血液は普段よりも少ない。

 これ以上血が流れれば、数秒と持たず、彼の体は機能を失い、倒れるだろう。

 

「まぁ……見てろや」


 全身から汗が滝のように噴き出しているくせに、口角だけが妙に器用に持ち上がっている。

 双剣を岩に突き立て、肩で大きく息を吸う。

 胸の奥が、限界まで膨らむ。


「フゥ……」


 ザガンの意識は、断面の奥――まだ千切れずに生き残っている筋繊維の束、その一本一本へと潜り込んでいた。


「フゥ……ーーンッ!」


 間の抜けた掛け声と裏腹に、断面で起きていた現象は精密だった。

 ぎち、ぎち、と。

 露出した筋繊維が内側から互いに撚り合わさり、太い索のように編み込まれていく。

 引き裂かれていた血管の口が、繊維の収縮に押し潰されて、一本ずつ閉じていく。

 噴き出していたはずの血が勢いを失い──やがて、止まった。


「……血が、止まった」


 青い瞳が、限界まで見開かれていく。

 ザガンは双剣を手に取り、ふぅ、と軽い息を一つ吐く。

 彼女はその姿をボーっとしながら見ていた……。


「あっ、何驚いてんだ?血を止めんなんて普通だろ。鍛えてれば、誰でもできるつーの」

「・・・はぁ~。あなたといると、色々とおかしくなるわね。本当に訳が分からないわ」


 ほとんど呆れに近い溜息が落ちた。

 白い指先が、宙に伸ばしかけたまま行き場を失っていた手の、その甲をそっと自分の胸元へ戻す。

 頭の中で、一つだけ整理しておくことにした。

 ――自分にとっての異常が、この男にとっての日常らしい、と。

 理解したわけではない。理解できる気もしない。

 

「ってか、傷を塞ごうとしたり、俺の心配してくれるとか、テメェ、ちっとは優しいところあるじゃねぇか」

「……べっ、別に」


 銀の睫毛が、ふい、と伏せられた。


「……心配したわけじゃ、ないわよ」

「ハッ。なら、それでいいっての」


 ザガンの口元から、笑みが、すうっと退く。


「……ってかどうなってんだよ」


 パリィイインッ――!

 高い悲鳴が、洞窟いっぱいに散った。

 彼女の張った氷の壁が、内側から複数の拳に殴り抜かれ、半透明の結晶が宙に舞う。光の粒の向こうに、オーガだけでなく、倒したはずの魔族全員が蘇っていた。


「魔王様のお声がした瞬間、魔族たちが立ち上がったわ。強くなったのも、再生が速いのも。死んだ後に動いているのも、全部あの方の力によるものだと思う。そして、目的はあなたを殺して、私を捕まえること」

「んで、そんなことされなきゃいけねぇーんだよ。あぁーー!やっぱりここだったのかー!俺の人生最悪の展開ってやつは!」


 隣で嘆いている男を無視し、冷静に考える彼女はオーガたちの胸を見た。

 胸の真ん中、本来なら脈打つ宝石……魂核を抱いているはずのその位置に――何もない。

 それらは足元に三粒、四粒、転がっている。


「色々と試すしかないわね」


 頭上に集めた霧が、瞬きほどの間に密度を増す。

 指の先から伸びた一本の氷柱が、足元の魂核の欠片をもう一度、上から正確に貫いた。

 念のため踵で、ぐり、と踏み砕きもする。

 粉になるまで、丁寧に。

 しかし、オーガたちの歩みは、止まっていなかった。

 縦に裂かれた胸の傷口が、内側から肉の繊維に押し上げられて、再び閉じていく。


「……困ったわね」

「マジかよ、何だこれ。何の冗談だ、テメェら、しっかり死んでろっつーの!」


 残った右手で、ザガンが双剣の片割れを抜き直す。

 彼の踵が湿った岩を蹴り、視界の中で輪郭が一度ぶれた。

 次の瞬間、最前列のオーガの胸を双剣の切っ先が深々と貫いている。

 貫いた切っ先で、空洞のはずの胸郭をぐるりと抉る。

 横へ薙ぎ、肉ごと開く。返す刃で頭蓋を縦に断つ。

 下から肩を、付け根ごと斬り落とす。

 膝の腱を撥ね上げ、足から崩れさせる。

 血と臓物を撒き散らしながら、巨体は何度も床に伏し、そして、何度でも、立ち上がり、再生を繰り返す。


「これもダメね」


 ザガンが隣を見ると、氷漬けにされた魔族の姿があったが、次の瞬間にはそれは砕かれ、彼女へと近づいていく。

 彼女の術をもってしても、魔族たちは何度でも蘇る。


 しばらく戦闘は続いた。

 あらゆる手を尽くし、魔族を倒そうとするが、どれも無意味に終わる。

 気づけば二人ともに全身傷だらけ。

 彼女は足を浅く割られ、一歩も動けない。

 ザガンの方も、筋繊維で塞いだはずの左肩の断面から、ぽたり、ぽたりと、再び血が滲み始めていた。

 ザガンが彼女を庇ったり、彼女がザガンを支えたりするも……。

 最終的に……二人は満身創痍。

 魔族は決して倒れることはない不死身の軍隊。

 無数の敵に囲まれ絶対絶命。

  

 ザガンの勘が囁いた……人生最悪の展開……死。

 今日中に死ぬと分かった彼は、最後に自身の欲望を叶えるために彼女と勝負に挑み、洞窟の奥へと進み続けた。

 その結果が、これまでの話である。

 時が戻る。


「俺はテメェを抱くまで、死ねねぇんだよぉぉーーー!」


 片腕で彼女を正面に抱えるザガンは人生で一番の猛ダッシュをかます。

 出口など分かるはずもなく、洞窟の中を行ったり来たり。


「あひぃッ!? いってぇッ、おい、これマジでいっ、てぇんだけど――!?」

「いやぁーーーー!!!」

「あひょーーーー!!!」


 天井、地面、壁。

 至るところから魔族が湧き出してくる。

 石筍の影から這い出すもの。

 岩盤の裂け目から触手のようにせり出してくる腕。

 天井から、糸を引いて降ってくる蜘蛛じみた群れ。

 しかし、火事場の馬鹿力を発揮したザガンの背に、奴らの爪は届かない。

 距離は、振り返るたびに、ぐんぐんと開いていく。

 光の射す方へ。

 

 胸の中の銀髪が、揺れるたびに彼の鎖骨を擦り、その柔らかい重みだけが、ザガンの意識を辛うじてこの世に繋ぎ止めていた。

 視界の四隅から黒が滲み、肩の断面からは止めたはずの血が、また着実に落ちている。

 それでも、止まらなかった。

 ただ、ひとえに、死にたくないから!

 脚の感覚がもうない。

 走っているのか、転がっているのか、自分でも分からなくなってきた頃。

 ザガンの瞳孔が、針のように細くなった。

 暗い天井の向こうに光が刺す。

 

 そして――。

 

 ザガンの、疲れ切った荒い息遣い。

 地上に何とか脱出した。

 夜だった。

 背後からはもう、魔族たちの足音は聞こえない。

 どうやら逃げ切ったようだ。


「あーやっと地上だ!……は?」

「嘘……」


 目指していた地上を見た瞬間、思わず困惑するザガン。

 彼に抱え込まれている彼女も大きく目を開き、驚きを隠しきれない。

 月明かりの下に広がっていたのは、天国――ではなく、地獄のような風景だったのだ。

 月の光に反射していたのは、血の湖。

 その周りに散らばる、大量の死体。

 魔王城の下見をしていた……遠征軍。

 そこには――。


「あれ? シヌヨー様、死んでね?」


 ザガンのご主人様……シヌヨーの顔があった。

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