第7話 狂人とヴァンパイアの距離は徐々に♡:【殺せ】
ザガンの言葉に、彼女の指先からゆっくりと力が抜けていった。
(ばか。本当に、どうしようもない、ばか)
胸の内で吐き捨て、銀の睫毛を一度だけ伏せる。
岩壁に叩きつけられた首筋に、遅れてやってきた鈍い疼きが、彼女を現実へと引き戻す。
ぐ、と喉の奥で呼吸を整え、目を上げる。
瞳には、いつもの澄み切った青が戻ってきていた。
「ザガン」
「あぁん?」
「あのオーガたち。何か、変よ」
「変ぁ? あぁ、変だぜ。女の服をビリッと破くなんざ、美学のびの字もありゃしねぇ変態どもだ」
「うん。あなたと同じ変態であることも、まあ、そうなんだけど」
「俺は含めんじゃねぇーー!」
ふざけ口を遮るように、彼女の白い指先が前方を示す。
切り落とされ、岩肌の上に湿った音を立てて転がっていた六本の腕──その付け根から、新しい腕が、ぬるりと盛り上がっていた。
骨が透けて見えるほどの体が、繊維を編むようにじゅくじゅくと膨らんでいく。
皮膚が張り、爪が伸び、関節が小さな音を立てて噛み合う。
「再生が、速すぎる」
魔族は、自己再生能力を持っている。
階級が上がるごとに、その速度は跳ね上がる。
それは彼女もよく知るところであり――目の前のオーガは、間違いなくC級だ。腕一本を再生するのに、本来であれば一分は要するはずの、ただのC級だ。
それを、ものの数秒。
あり得ないことが、起きている。
(……魔王城の、地下に、近いから)
胸の内で、彼女は、その答えに辿り着く。
頭上に魔王の影を引くこの場所では、オーガでさえ、別の生き物の顔をして牙を剥いてくるらしい。
その認識を、彼女は奥歯を噛んで、呑み下した。
すぐに目の前の三体を倒そうとしたが、足音が、増えていく。
洞窟の奥、岩柱の闇から、ぬるり、ぬるりと、何かが押し出されてくる。新たなオーガが二体、三体。その足元の岩肌に張りつくようにして、ホブゴブリンの群れが、ぞろりと這い出してきた。
ザガンは肩の関節を一つ鳴らしてから、にやりと笑う。
「勝負は、続行ってことでいいのか?」
このような状況になったというのに、隣からはいつも通りの声が聞こえてきた。
「えぇ。私が優勢で、続行って感じかしら」
「あぁ? どう考えても俺の方が多く殺してただろうが」
「いいえ。私よ」
「俺だ」
「私」
「俺」
「私」
幼子の押し合いみたいな応酬を、洞窟の冷気が呑んでいく。
魔族の異常な強化。自分の体力の減り。
油断するな、と。気張っていろ、と。
先ほどから胸の奥で鳴り続けていたが、その警鐘が遠ざかっていく。
さっきまで自分の喉に結びつけていたはずの戒めが、彼の横顔を、その後ろ姿の能天気な前向きさを見ているうちに、するりとほどけていく。
何故だろう。
あんなに下品で、あんなに最低な男のはずなのに。
その横にいると、絞めつけていた肩の力が、勝手に、抜けていく。
「……ありがと」
吐息に紛れた、それは、自分でも気づかぬほどに、小さな声だった。
「んぁ? 何か言ったか?」
「何でもないわ。勝った後のことを、考えていたのよ」
「あっ?勝つのは俺だ!」
「言ってなさい」
ザガンは双剣を構え、彼女は術を唱え始めた。
*
岩肌の上に、最後のオーガがゆっくりと膝から崩れ落ちた。
胸の真ん中に、彼女の氷柱が深々と刺さっている。
光を失った魂核の欠片が、零れた血と一緒に、湿った床へと転がり落ちる。
ザガンは双剣の血を払い、肩で大きく息を吐きながら、片膝に手をついた。
革装備のあちこちが裂け、肌の表面には浅い斬り傷が幾筋も走っている。自分のものか魔族のものか、もはや判別のつかない血が剣に固まりかけていた。
「……ふぅ」
彼女もまた、岩柱に背を預け、長い睫毛を一度伏せる。
吐く息のたびに、霧を編み続けていた指先が、じん、と痺れていた。
体力の消費は、自分が思っていたよりもずっと深い。
「終わった、わね」
「終わったぁー……俺、頑張ったぁー……テメェ、褒めろぉ……」
「褒めるわけないでしょ。私が勝ったんだから」
「ギクッ!」
ザガンの肩が、わかりやすく大きく揺れた。
「お、おお、俺の、勝ちだ」
「あら、そう? なら、数えてみようかしら」
白く細い指先が、洞窟の床へと向けられる。
血溜まりの中、ほの暗い岩肌に転がる光なき欠片――砕かれた魂核の名残を、左端から、一つ、また一つ。
「ひぃ、ふぅ、みぃ……」
「もういいもういい、もういいーーー!」
ザガンの絶叫が、湿った天井に跳ね返った。
壁に大の字に座り直し、ぐりぐりと頭を掻く。
「はぁ~、しょうがねぇなぁ~。テメェの、勝ちだ」
「意外とあっさり認めるのね。襲い掛かるかと思ったのだけれど」
「テメェが良いなら、いつでも抱けるぜ」
「言い分けないでしょ。勝ってないんだから」
「チッ、まぁ負けは負けだかんな。認めてやるよ」
腕を組んで、胡坐をかき、悔しそうにするザガン。
「あークソッ!こんなところに落ちなけれやなぁ~」
大の字に転がったまま、ザガンが天井を見上げる。
「そういえばよぉ。落ちる時にさぁ、何か、低い声が聞こえなかったか?【死を……もってぇ……償うがぁ……いいぃ……】って感じのやつをよぉ」
地を這うような声色を、無理に作って真似してみせる。
が、当人が言うのと、ザガンが言うのとでは、もはや別の生き物だった。
「えぇ、あれは魔王様のお声ね」
「へぇ~。魔王ねぇ~」
ザガンは壁に寝そべったまま、両手で耳をほじっている。
吐かれた答えの重さに、まだ、頭が追いついていない。
「…………」
遅れて、洞窟の冷気が、彼の耳の奥に、ようやく言葉の形を結んだ。
「――は? まっ、魔王ぅっ!?」
大の字から、ばね仕掛けのように、跳ね上がる。
岩屑がぱらぱらと肩から零れ、慌てて立ち上がった足が、自分の血溜まりを踏みつけて、ぬるりと滑った。
「マジで言ってんのか、テメェ!? 何で分かんだよ、あの声が魔王だって!」
「私は魔族だもの、その種族の王である魔王様のお声は本能で分かるものなのよ」
「うへぇ……ということは、よ。あの声と同時俺たちが落ちたってことは……」
「十中八九、あのお方の力で私たちはここに落とされたわね」
乾いた唾を、ザガンが一つ、飲み下す。
軽口を叩く時間が、終わったのを、本人もどうやら理解したらしい。
人生最悪の展開……もしや、その魔王に殺されることなじゃ……と思ったからである。
「いっ、嫌だぁーーーー!!!」
絶叫が、洞窟の天井へ突き抜けた。
頭を抱え、両膝をつき、岩肌の上で、子どものように地団駄を踏む。
「俺ぁまだ、女のおっぱい一回しか揉んでねぇんだぞ! 童貞のままで、魔王に殺されるなんざ、勘弁してくれって話だろうがぁ!!」
「急に何をしているの?」
ザガンの勘ことなど知らない彼女は不思議そうに見つめていた。
そんな緩い雰囲気を切り裂くが如く、二人の背筋を再び凍らせる出来事が舞い落ちる。
【何だ? まだ、生きているではないか】
頭蓋骨の内側から、直接、爪を立てるようにして、声が響く。
ザガンの背筋を、生まれて二度目の、本物の悪寒が、舐め上げていった。
地団駄が、止まる。
彼女の睫毛の影が、青い瞳の上で、すうっと、固まる。
二人の動きを、たった一つの声色が、岩盤ごと、押さえつけていた。
【人間は殺せ……魔族の女は捕らえ、我の元へ連れて来い】
その声が通りすぎると、洞窟が静まり返った。
「また、あの声かよ……。おいテメェ、俺をこんなところに落としやがって、ただじゃおか……」
その怒鳴り声が、終わるより、早かった。
ぐらり、と。
二人の足元、岩肌の上に倒れ伏していた、巨体が、動いた。
たった今、ザガンの双剣で確かに胸を裂かれ、彼女の氷柱で確かに魂核を砕かれ、光を失った欠片を血溜まりの上に転がしていた、あのオーガが……。
立ち上がった。
丸太のような指が、ザガンの左の二の腕を、根元から、わし、と掴む。
ブチッ!!!!!!!!
「……は?」
ザガンの左腕が、宙を舞う。




