第6話 狂人が譲れないもの:女の服を脱がすときってのはなぁ。ゆぅーっくり、肩から順に下ろしてくのが正解なんだよ。相手が恥じらってる顔を、上から下まで、じっくり眺めながら脱がすんだよ!
その低い一言が、洞窟の冷気にすうっと溶けていく。
彼女はすでに踵を返し、闇の奥へ目を向けていた。
――負けられない。
負ければ、どうなる。
想像が一瞬だけ睫毛の裏で弾け、頬の奥にじわりと熱が灯る。
ぶるりと首を振った。銀髪が肩の上で大きく揺れ、薄く張り直された氷のような横顔の下に、その動揺ごとしまい込まれていく。
その横で、ザガンは舌の上で勝利の二文字を転がしていた。
揉み放題、抱き放題、その先の先まで。
にやけた頬を抑える気もなく、妄想が脳の裏側で爆ぜていく。
「ヒャッハーーーッ!!!」
ドンッ。
爪先が湿った岩肌を抉り、ザガンの体が前方へ弾ける。
双剣を腰から引き抜き、両の手に逆手で握り直した。
前傾、低く、地面を舐めるような姿勢のまま、闇の奥へ一直線。
視界に捉えるのは、最前列で這い寄る魔虫の群れ。
その後ろに、岩の天井から糸を垂らして降りてくる魔蜘蛛の一団。
D級と、C級。数は多いが、ザガンの相手にはならない。
双剣が魔虫の頭部を縦に裂き、返す刃で二匹目の脚を払って倒し、三匹目の腹を抉り抜いた。
「ワリィな、先手はもらっ――」
ちょうどその瞬間だった。
彼の視界の端で、五体の魔虫が同時に脚から凍りついていく。
膝の関節が氷に食われ、自重で崩れ、内側から薄く張り詰めた結晶に魂核ごと砕かれて、湿った音を立てて地に伏せていく。
砕けた魂核の光が、霧の中をふわりと泳ぎ、彼女の胸元へ吸い込まれていった。
「悪いわね」
ザガンが振り返ると、彼女は胸の前で指を組んだまま、一歩も動いていない。
長い銀髪が、自分の起こした冷気にゆるりと撫でられて、頬の脇で揺れている。
ザガンの口角が上がり、さらに前進、次々と魔族を切り刻んでいく。
「これで十体だ」
双剣を振って血と粘液を払い、横目で投げつけるように言った。
返ってくる声は、こちらを見もしない。
「私は十五」
吐息が、白い霧に変わる。
その霧の中から、結晶が一斉に地面を割って伸び上がり、氷漬けにされた魔族たちの骸を、墓標のように串刺しのまま宙へと押し上げていく。
透き通る氷の柱の中で、内臓と砕けた脚と魂核の欠片が、目の光をなくしたまま静かに固定されていた。
「やるじゃねぇか。強い女ほど、抱きがいがあるってもんだぜ」
跳びかかってきた魔蜘蛛の胴を、交差させた双剣が×字に裂く。
崩れた胴の上を蹴り、次の足場へ。
その背後、左右、上方から、糸と毒の術が同時に襲い掛かってきた。
粘液を孕んだ糸が縦横に張り巡らされ、紫色の毒霧が天井から雨垂れのように落ちてくる。
壁面に貼りついた魔蜘蛛が一斉に口を開き、各々の系統の魔術を吐き出す。
ザガンは天井から伸びてくる糸を双剣で薙ぎ払い、跳ねた反動で岩壁を蹴り、降り注ぐ毒霧の合間を縫って身を翻す。
床に転がる魔虫の死骸を踏み台に、壁の出っ張りを足掛かりに、洞窟そのものを足場として奥へと押し進み、二枚の刃が伸びては触れたものを片端から削いでいく。
「これで二十体だッ!」
「すごいわねぇ。私は、三十二」
「……あぁ?」
「ねえ、ザガン」
はじめて、彼女がこちらを向いた。
青い瞳が、薄く、しかし確かに笑っている。
胸の前で組まれていた指が、ほどけて、片方の指先がそっと自分の唇に添えられた。
「あなたが私を抱く未来って、本当にあるのかしら」
頭の奥で、ぱきり、と何かが鳴った。
双剣の柄を握り直す指に、勝手に力がこもる。
「――ハッ。なら俺も、少し本気出すか」
ザガンは両足を肩幅に開き、踵を岩肌に深く沈めた。
膝が落ち、腰が据わる。
双剣を腋に絞り込むように引き寄せ、奥歯を噛みしめる。
「フゥーーーンッ!!」
間の抜けた掛け声が、洞窟の天井を震わせた。
その直後、足元の岩盤に蜘蛛の巣状の罅が走る。
ザガンの肩から胸、腕、腿の輪郭が、内側からじわりと膨らんでいく。
皮膚の下で繊維束が音を立てて捩じれ、薄い革装備の縫い目が悲鳴をあげる。
湯気に似た白い熱が、肌から立ちのぼり始めた。
「あなた……術を、使えたの」
聞かずにはいられなかった。
シヌヨーにはザガンは術を使えない双剣バカだとしか。
「術ぅ?」
ザガンは振り返らない。
「俺ぁ非適性者だぜ。んなもん使えるかよ」
罅の入った岩を踏み砕き、彼はぐるりと首を回す。
骨の鳴る乾いた音が、戦場の喧騒の中でやけにはっきりと聞こえた。
「これは――筋肉だ!」
・・・
「……き、筋肉?」
「筋肉だ!!」
二度繰り返した瞬間、ザガンの輪郭が消えた。
正確には、彼が一歩踏み出したのと、最前列の魔蜘蛛が縦に裂けたのが、彼女の目には同時に見えただけのことである。
血煙の中で、双剣が踊り始めた。
振り抜く、突き上げる、引き戻す、薙ぎ払う。
一拍ごとに魔族が一体、また一体と崩れていき、砕けた魂核の光が雪のように舞い散る。
その光は宙で散る前にザガンの胸へ吸い込まれ、彼の体をさらに熱く、さらに重く、さらに鋭く変えていく。
「五十二」「六十」「七十……ちっ、数えてられっかこんなもん。俺一人で残りぜーんぶ全滅させて、テメェを抱くだけだ!」
彼女は、唇を強く噛んだ。
胸の前で組んだ指が、無意識に解けて握りこまれている。
ザガンの背中が、どんどん遠ざかっていく。あの男に勝てない――その三文字が頭の隅に芽生えた瞬間、彼女の中で何かが粟立った。プライドではない。もっと幼く、もっと熱い、別の何か。
「……ふざけないで」
呟きと同時に、彼女は両手を頭上へ掲げる。
霧が膨らみ、半径数メートルが一瞬で純白に染まった。
「勝つのは、私。あなたになんて、抱かれないから」
天井から床まで、巨大な氷柱が一斉に降り注いだ。
十数本、いや、それ以上。
群れていた魔蜘蛛の上半身が片端から串刺しになり、宙に縫いつけられる。
彼女もまた負けじと魔族を殺し続けるが。
「悪ぃな、テメェの分まで俺がもらうぜ」
双剣の閃きが、彼女の視界の遥か奥を駆け抜けた。
氷柱に縫いとめられた魔蜘蛛の核が、彼女の術が完全に届くより一拍早く、ザガンの剣に砕かれていく。
一体、二体、三体。
砕けた光は、彼女ではなくザガンの胸へ流れ込んでいく。
目で追うのが、間に合わない。
双剣の軌跡だけが、霧の中に銀色の残像となって尾を引いていた。
彼女が術を一回唱える間に、ザガンは三体の懐へ潜り込んでいる。
――このままでは、負ける。
銀色の睫毛が、わずかに伏せられた。
本気を出すつもりは、なかった。この男に手の内を全て晒すのは賢明ではないし、何より自分の力には限りがある。
けれど、もう、出し惜しみしている余裕がない。
吐息が、深く落ちる。
頭上に集めた霧をさらに濃く、さらに冷たく――。
ぐらり。
彼女の片膝が、内側に折れた。
なぜ、と思う間もなく、足首の感触に気づく。
巨大な、ごつごつとした手が、岩盤の下から伸び上がり、彼女の足首をしっかりと握りしめていた。
「――っ」
声を上げる暇は、なかった。
次の瞬間、彼女の体は宙を引きずられ、洞窟の岩壁に叩きつけられていた。
ガコンッ。ドンッ。
「あがっ」
肺の中の空気が、全部押し出される。
視界が一瞬白む。落ちかけた意識を歯を食いしばって繋ぎ留め、彼女は岩肌に背を預けたまま、片手を前に突き出した。
その白い指先が霧を孕む前に、上から、左から、右から、三本の太い腕が同時に伸びてきた。
「ぐっ……うぅ」
両手首と、首。
オーガの三本の腕に絡め取られ、彼女の体が岩壁に縫いつけられる。
正面の魔族ばかりを刈り取ることに集中していた自分への、当然の報い。
オーガはC級。
普段なら、彼女の敵ですらない。
彼女の指先に、薄い霜が走る。
掴まれた箇所から、オーガの三本の腕は順々に凍りついていく。
指の関節が白み、皮膚の表面に氷の結晶がじゃりじゃりと広がっていく。
力を、失うはずだった。
しかし。
ぎち、ぎち、ぎち、と。
凍ったはずの腕の力が、なぜか、強くなり食い込んでくる。
「な、んで……」
息を呑む彼女の眼前で、オーガの口元が嗤った。
三本の腕の一本が、ふと方向を変えた。
彼女の手首を離れ、薄い奴隷服の胸元へと――。
ビリッ。
粗末な布が、肩口から鎖骨にかけて、一筋、長く裂ける。
彼女の白い肌が露わになった……。
双剣を魔蜘蛛の腹に突き立てていたザガンの耳が、ぴくりと跳ねた。
布の裂ける音。
「まさか?」
バンッ!
次の瞬間、彼の姿は魔蜘蛛の群れの中から消えている。
岩盤を蹴り抜き、洞窟の床を切り裂くようにして、彼の体は一直線にオーガたちの真横へ飛び込んでいた。
双剣が交差し、開く。
ザバッ、と。
六本のオーガの腕が、ほぼ同時に肩の付け根から切り落とされ、岩肌の上に湿った音を立てて転がる。
指先はまだ彼女の服を握ったままで、ぴくぴくと痙攣していた。
支えを失い、岩壁から滑り落ちる彼女の体を、ザガンの右腕が下から抱き留める。
「おい」
ザガンは今怒っている。
腕を失ってのけぞり、悲鳴を上げているオーガたちへ、彼は双剣の切っ先を一本ずつ向けた。
「テメェら。俺の女に、何しやがんだ。あっ?」
ドクン。
彼女の胸の奥で、何かが、一度だけ大きく跳ねた。
俺の女、という雑な四文字が、こんなにも体温を上げるものなのか。
岩壁に叩きつけられた痛みも、絞めつけられた首の感覚も、一瞬だけ遠のいていく。
「ザッ……ザガン」
「今この女と俺は、超重要な勝負をしてる最中なんだよ」
双剣の一本を担ぐように肩へ預け、ザガンはもう一本の切っ先で、オーガの一体の眉間を軽く小突いた。
「俺が勝ったら、抱く。そういう勝負だ。急に横から割り込んできやがって。テメェらにこの女はやらねぇぞ」
「ザガン♡」
ドクン、ドクン。
胸の鼓動が、止まらない。
助けに来てくれた。守ってくれた。
あんなに下品で、あんなに最低で、あんなに女の敵のような男が、こうも真っ直ぐに「俺の女」と――。
銀の睫毛が、潤む。
ザガンの胸元に支えられた指が、無意識に、彼の革装備の縁をきゅっと掴んだ。
「それになぁ~。テメェらは美学が足りねぇぜ」
「美学……えっ?美学?」
少しときめきかけた彼女に、唐突に訪れる事実。
「女の服を脱がすときってのはなぁ。ゆぅーっくり、肩から順に下ろしてくのが正解なんだよ。相手が恥じらってる顔を、上から下まで、じっくり眺めながらな脱がすんだよ!」
「……」
彼女の指から、ゆっくりと、力が抜けていく。
「いきなりビリッと破ってボロンって出すのも、悪かぁねぇ。悪かぁねぇけどな」
血の付いた剣の腹で、彼は自分の肩をぽんぽんと叩く。
「それは、俺がやるときの話だろうがッ! テメェみてぇな汚ねぇ魔族がしゃしゃり出てくる場面じゃねぇんだよなぁ!?」
「……えぇ~……」




