第10話 狂人の勘は決して、外れない。では、人生最悪の展開とは?【 何だ? 】
血の湖と屍の山の上を、夜風だけが、ゆっくりと撫でていく。
遠征軍は、騎士に奴隷、合わせて百を超える編成だった。
今日が、その帰還日だったはずだ。
あと数週間もすれば王都に着き、魔王城周辺で得た情報を、王の御前で読み上げる――そういう手筈になっていた。
その遠征軍の、生き残り。
奴隷が、二人。
ザガンは月を見上げたまま、舌打ちを一つ落とす。
仮にこのまま王都へ戻ったとして、待っているものは、ろくなものではない。
貴族たるシヌヨーが死に、その配下の騎士たちも全滅し、奴隷だけが、のうのうと帰還した。
その事実がどう解釈されるかなど、考えるまでもなかった。
「――これ、このまま帰ったら、俺たちが、シヌヨーを殺して逃げたって話に、なるんだろうな」
「……でしょうね」
シヌヨーが何者かに殺されたことは喜ばしいことだ。
二人は晴れて自由の身。
だが、その目撃者も犯人も見当たらないのはマズイ。
仮にシヌヨーの頭だけを持ち帰り、誰かに殺されてました!と進言したところで、誰も奴隷二人の意見に耳を貸さず、即死刑になるのがオチ。
自由の身になったものの、王都に帰ることはできず、生きていると知られれば、追われる身になるかもしれない。
それはザガンも、彼女も分かっていたことだった。
さらに、シヌヨーや騎士が乗っていた馬も殺され、ここは魔王城に近い戦場。
危険な場所に身を置いているのは分かっているが、体はボロボロ、すぐに離れることもできない。
食料も水もない。
「まぁ、とりあえず――」
ザガンは大きく伸びをして、それから、その勢いのまま近くの平らな岩に頭から倒れ込んだ。
「つーーーかーーーーれーーーーたぁーーーー」
「……ふふっ」
吐き出された情けない声に、彼女の口の端が、自分でも気づかぬうちに、ほんの少しだけ綻ぶ。
夜風が銀髪を撫で、その下で、彼女もまた静かに目を細めた。
「魔族は追ってこねぇみてぇだしよ。ここで寝て、明日考えようぜ」
「……同感ね。私ももう、眠いの」
言葉の終わりに、ふわぁ、と小さなあくびがこぼれる。
長い銀髪が肩の上で揺れ、薄く開かれた唇から、白い吐息が一筋、夜気の中へ溶けていった。
その仕草の幼さに、ザガンの背筋がぴくりと跳ねる。
「俺の隣で寝るかい? ベイビ~」
ふざけた声色で囁き、片目をつぶってみせる。
決まった、と本人は思っている。
「あっちに行って」
「冷てぇーー!」
しばし不毛な押し問答が続き、やがて、ザガンは諦めたように近くの岩にもう一度寝そべる。
ふと、思い出したように首だけを起こし、横目で彼女を見上げた。
「……そういや、テメェの名前って、何なんだ?」
「あら。言っていなかったかしら」
「言われた覚えがねぇよ。教えてくれねぇなら、これからはエロ女、って呼ぶことにするけどな」
「何で、そうなるのよ」
「だってよ。ほれ」
顎で示された先――月光の下に、薄く晒された白い肌があった。
あの洞窟で、オーガの手に裂かれた奴隷服の胸元。
Dカップに育ちかけた谷間が、今もぱっくりと、夜気にさらされたまま。
戦いと逃走の最中、気にしている余裕など、欠片もなかった。
フィーナの白い指が、慌てて胸元を押さえる。
頬の奥に、じわりと熱が灯った。
「……だから。さっきから、私と目を合わせる時に、鼻の下が伸びていたのね」
「ハッ。気づくのおせぇーよ」
「……最低」
彼女は深く長いため息を一つ落とし、それから、観念したように銀の睫毛を伏せる。
「フィーナ、よ。私の名前。……これで、エロ女と呼ばないで」
「フィーナ、ねぇ」
ザガンは、その名前を舌の上で何度か転がした。
「いい名前じゃねぇか。覚えてやるよ」
「……どうも」
返事は、ぶっきらぼうだった。
けれど――銀髪の隙間で、フィーナの耳の先が、ほんの僅か、朱を帯びていたことには、ザガン本人は気づかない。
夜風が、もう一度、二人の間を渡っていく。
屍の山の向こうに、月が傾き始めていた。
「……なぁ、フィーナ」
寝転がったまま、ザガンが、独り言のように呟く。
「今日って、もう、終わるよなぁ」
返事はなかった。
眠りに落ちかけたフィーナの寝息が、夜気の中に、薄く、薄く、混ざり始めている。
ザガンは月を見上げたまま、片手を自分の左胸に当てた。
奴隷紋の消えた、平らな胸板。
その下で、何事もないように脈打つ、自分の魂核。
――人生最悪の展開が、待っている。
ザガンはその「最悪」を、ずっと、自分の死だと信じて疑わなかった。
だが今、月は静かに傾き、自分のた魂核は砕かれてなどいない。
死の危機にはあったが、死んでいない。
ならば。
「結局、何だったんだ。人生最悪の展開ってのはよぉ」
この時、ザガンはまだ知らなかった。
己の勘が囁く【 "人生最悪の展開" 】とは――
命を失うことより、ずっと、ずっと、恐ろしい何か。
そして、それは既に、今日、起きていたのだということを。




