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第11話 狂人は知らないヴァンパイアの本性:ヴァンパイアは同じ者の血を大量に吸うと、その者に愛着が湧く♡「彼は……私のもの♡」

 朝日が、地平の縁から白く差し込んでくる。

 夜の間に乾ききらなかった血の湖が、その光を吸って、油じみた虹色に揺れていた。


 グゥ〜……。

 グゥ〜……。


 間延びした音が、二つ、ほぼ同時に鳴った。


「腹〜」

「……空いたわね」


 岩肌の上で半身を起こしたザガンが、自分の腹を片手で押さえながら呻く。

 少し離れた岩の窪みで丸まっていたフィーナも、片肘をついて、ゆるりと身を起こした。

 目を見合わせ、どちらからともなく、ふっ、と短い息が漏れる。

 二人の腹だけが、揃って同じ調子で空腹を訴えている――その間の抜けた連帯感に、薄く笑うしか、なかったのだ。


「……朝から、情けない音」

「テメェだって鳴ってんじゃねぇか」


 軽口を交わしながら、ザガンは岩肌に手をついて立ち上がる。

 失った左肩の断面は、夜のうちに薄く膜を張ったらしい。

 切り口の縁を覆う筋繊維は、まだ生々しい赤に光っていたが、血は一滴も滲んでいない。

 残った右腕を頭上に伸ばし、背筋をぐっと反らせる。

 ザガンは軽く準備を運動を開始し、体をほぐすいつものルーティン。


 その隣で、フィーナはゆっくりと髪に指を通した。

 指先から白い霧が一筋立ちのぼり、霧は瞬く間に凝って、薄青く透き通る一本の櫛を生成した。


「……ふぅ」


 吐息と一緒に、長い銀髪の先まで、丁寧に櫛が下ろされていく。

 岩の上で一夜を過ごした髪の絡みが、氷の歯にほろりとほどけていった。

 それを見たザガンの動きが、一瞬、止まった。

 朝の光に透けた銀の毛束と、青く凍った櫛の歯と、伏せられた長い睫毛。湿った岩と屍に囲まれたこの場所で、その一角だけが、別の世界から切り取って貼り付けたみたいに、しんと整っていた。


「……何よ」

「いや」


 慌てて視線を逸らし、ザガンは鼻の下を指の背でこすった。


「べっ、別に、見惚れてたわけじゃねぇからな」

「惚れなくて結構よ。で、何かしら?」

「単に気になったんだけどよ、ヴァンパイアって、普段、何喰ってんだ?」


 フィーナは銀の睫毛を一度伏せ、それから何でもないように、また髪に櫛を通し始める。


「魔族が人間を喰い散らかしてんのは、戦場で散々見てきたけどよ。俺、ヴァンパイアと会うのが、テメェが初めてなんだわ」

「……あなたたち人間と、そう変わらないわよ」


 ことり、と。声に、わずかな低さが落ちた。


「パン、肉、果実も食べるわ。違うのは、魔族の肉でも腹がふくれるのと――血さえあれば、しばらく食べなくても平気だってこと……今は、血のほうが、欲しいわね」


 言いながら、自分の指先に視線を落とす。

 自己再生で傷は塞がっても、抜けた血までは戻らない。

 ザガンは、すぐ脇にひたひたと打ち寄せる、赤黒い水面を顎で示す。


「ちょうど、血の池があるじゃねぇか」

「……正気?」


 フィーナの眉が、片方だけ持ち上がった。


「あれは血じゃなくて、もう泥よ。土と、ちぎれた肉と、死人の脂が混ざった、ただの汚水。ヴァンパイアは生きた血しか飲まないの。鮮度の落ちた血なんて、口に入れたら一晩中、胃が逆流するわ」

「ふぅーん。ならそこに転がっている魔族、騎士、奴隷の死体があるけど、あれも食わねぇってのか?」

「当たり前でしょ。汚すぎて食べられないわ」

「お嬢様じゃねぇか、テメェ」

「当然のことを言っているだけよ」

「ハッ。選り好みしてる場合かよ。このままじゃテメェ、体動かなくなんぞ」


 ――グ。

 一拍、フィーナの言葉が詰まった。

 頬の内側で、ぷくぅ、と空気が膨らんだ。

 眉が寄り、視線がふいと逸れ、櫛を持つ指先にだけ、行き場のない力がぎゅっと込められる。

 反論できない。それが、悔しい。

 初めてザガンに、正論を、それも図星を突かれた。

 そんな彼女を見ることもなく、ザガンの踵が湿った岩を蹴る。

 その体が、ひょいと血の湖へ飛び降りた。


「まあ、いいや、それでも。ようは、生きてる血が飲めればテメェは満足なんだな?」

「そうね」

「めんどくせーが、俺ぁ綺麗な女の方がタイプだかんな。別に構わねぇぜ」

「べっ、別にあなたのタイプになりたいってわけじゃ……って、どこいくの?」


 湖というには浅いそれを、ザガンは無造作にじゃぶじゃぶと渡っていく。 

 革靴の底で赤い水面が割れ、ぼたぼたと跳ねた飛沫が、ふくらはぎを点々と染めていく。

 本人は気にした様子もない。

 立ち止まった下には、誰かの手によって切り落とされたオーガの腕が、半ば泥に沈んで転がっていた。

 ザガンは右手でそれを掴み上げる。

 肘から先、人間二人分はあろうかという、ごつごつとした腕。

 片手で軽く振り、汚れを払い、それから――。


 ぐ、しゃ。


 大きく口を開け、肘の付け根あたりに、思い切り歯を立てた。

 骨の砕ける音。

 肉の繊維が、引きちぎられる、湿った音。

 ザガンは咀嚼している。

 ごく、と。魔族の腕を貪っていた。


「……」


 フィーナは、櫛を持つ手を、止めていた。

 人間が魔族を喰う、などという話は、聞いたことがない。

 けれど、ザガンなら、あり得るかもしれない――そう思ってしまった自分に、彼女は内心で小さく息を吐く。


「……朝から、疲れさせないでくれる?」

「あ? 何がだよ」

「何が、って。それよ」

 

 言葉に詰まり、ザガンの咥える腕を示す。


「人間が魔族なんて食べたら、体に異常をきたすわよ。お腹を壊したり、病気になったり。いくらお腹が空いているとはいえ、それは本末転倒よ」

「もう慣れたっつーの」


 ぼり、ぼり、と骨を鳴らしながら、ザガンは肩をすくめる。


「最初の頃はよぉ。そりゃもう派手にゲロ吐いたぜ。三日くれぇ何も喉通んなかったし、夜中に勝手に涙出てきたっけな」


 骨の断面に、ザガンは舌先を這わせる。髄の最後の一滴まで、惜しむように啜り取る。


「けどよ。気づいたら、何ともなくなってたんだよ。戦場で配られる飯なんざ、乾いたパン一切れと、犬でも残しそうな干し肉だけだ。あれだけで戦えってのが、土台、無理な話なんだわ」


 ぼり、と最後にもう一度、骨を噛み砕く音。


「不味ぃのなんの。けどな――腹は、ふくれる。魔族を喰って、腹ぁ満たして、また魔族を狩る。狩った分だけ、また喰える。これがな、十年このつらぁして奴隷続けてられた、俺の生存術ってやつよ」


 ぽい、と。残った骨が血の湖に投げ捨てられ、ぼちゃん、と小さな水柱が立った。

 ザガンはじゃぶじゃぶと血の湖を渡り、彼女のほうへ戻ってくる。岩の縁に腰を下ろし、右の袖をぐい、と肘の上まで自身の歯でたくし上げた。

 日に焼けていない内側の皮膚が、薄く晒される。


「ほら」

「……へ?」

「腹減ってんだろ?俺の血ー、吸わせてやんよ」

 

 ザガンの日に焼けた肌が、目の前にある。

 ヴァンパイアの目は、見たくないものまで見てしまう。

 皮膚の薄い層の下、いま彼の心臓がひとつ脈打つたびに、その血管の中をどくり、どくりと押し進んでいく流れの色まで、はっきりと。

 ――綺麗。

 魔族の腕を骨ごと貪った男の血……本来なら、もっと濁った色をしていてもおかしくない。

 けど、彼の血管を流れているそれは、夕暮れの、いちばん深いところの赤に似ていた。

 フィーナの青い瞳が、内側からゆらりと深紅に変えていく。

 澄んだ蒼を、薄い紅が押し退け、やがて瞳孔の縁まで、深く染め変える。

 昨日、洞窟の底で、この男の血が、舌の上でほどけた瞬間の記憶が、生々しく蘇る。

 あれは、美味しかった。

 獲物を仕留めるための偽りの微笑みの下で、自分の体が、ほんの一瞬、本当に蕩けた瞬間があった。

 あの感触を、彼女の体は、もう覚えてしまっている。


「本当に、いいの?私、あなたの血、結構な量、もらうわよ」

「いいから早くしろっつーの。腹減ってんだろ。ほれ」


 彼女は小さく喉を鳴らす。

 白い両手で、ザガンの右手首を、そっと包み込む。

 唇を、彼の腕の内側に寄せる。

 牙を立てる、その寸前。


「……いただきます」


 ぷつ、と。

 二本の牙が、青い血管の上に、静かに沈み込んだ。


「……っ」


 甘い。

 唇を伝って広がっていく熱に、フィーナの肩が、こく、と一つ揺れた。

 ザガンの腕を抱える指先に、自分でも気づかぬまま、力がこもる。

 ち、ち、ちゅ。

 唇を、ぎこちなく動かす。牙の隙間から、ひとくち、ひとくち、ゆっくりと、惜しむように。

 血の温度が舌の上で蕩け、喉を伝って、空腹で軋んでいた胸の奥に、じわりと灯りが点っていく。


「アッ、気持ちいいぜ〜」


 間の抜けた声が、すぐ上で漏れた。

 頬を寄せたまま、フィーナの片眉が、ぴくりと跳ねる。


「……変な声、出さないで」

「いやだってよ、なんつーか、こう、すーって抜けてく感じが、たまんねぇんだわ」

「だから、それを口に出さないでって言っているの」


 唇を離して睨むのも勿体なくて、彼女は牙を当てたまま、低く咎める。


「ぅお、こう、なんだ、腰のあたりがゾワゾワしてきやがった……っ」

「――ッ」


 白い指先が、ザガンの手首を、ぎゅっと締め上げた。

 軽く、けれど確かに、牙の先が一段深く沈む。


「ぁいでっ」

「黙って、して。私まで、変になるじゃない」


 最後の声は小さすぎて、ザガンの耳には届いていない。


「へぇへぇ」


 ちゅ、と。

 もう一度、唇を吸い直す。今度は、なるべく優しく。

 牙の角度を変え、血管の流れに沿って、ゆっくりと吸い上げていく。

 零れそうになった一滴を、すうっと迎えに行くように、舐め取り、かぷりと噛みつく。

 その時だった。


 ――癖に、なりそう。


 こう感じるのは、無理もない。

 ヴァンパイアは同じ者の血を大量に吸うと、その者に愛着が湧く♡。


 彼女は今まで、同じ者から血を吸った経験が無く、このことを知らない。

 ザガンの血を初めて吸った時、殺すため、常人の血が空になるほど吸いつくした。

 そして、今、その者の血をさらに吸っている……。

 つまり、彼に不思議と愛着♡が湧いている状態なのだ。


 (彼は……私のもの♡)


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