第12話 狂人とヴァンパイア:彼女の願い
そう胸の奥で囁いた声に、自分でも気づかぬまま、フィーナの赤い瞳が、内側からじわりと熱を変えていった。
澄んだ深紅が、淡い桃色へ。
瞳の中央で揺らめいた光は、やがて柔らかい弧を結び、ひとつの♡の形を編み上げていく。
思考は、ピンク色の霞に包まれていた。
腕に立てた牙がもう一段、深く勝手に沈んでいく。
「お、おい、ちょい、強くね?」
ザガンの声が、すぐ上から落ちてきた。
その一音で桃色の霞が、ぱきん、と硝子のように割れる。
フィーナの肩が、はっと跳ね、慌てて牙を引き抜いた瞬間、ち、と細く糸を引いた赤が、彼の腕の上に名残の尾を残した。
舌は、それを迎えに行こうとして、一瞬手前で踏みとどまる。
彼女は顔ごと勢いよく逸らし、ごくん、と一度だけ喉を鳴らした。
飲み下した唾の中には、まだ甘さが、しつこく居座っている。
「……ごっ、ご馳走様」
頬の朱を残したまま、伏し目がちに、彼女は告げる。
牙の隙間から零れた血が、唇の端を細く濡らしていた。
「腹いっぱいになったか?」
「えぇ、おかげさまで」
「ハッ。どういたしまして、っと」
ザガンは大袈裟に腕を回しながら、わざとらしく顎を撫でる。
「俺もまぁ、なんつーか、悪くねぇ気分だしよ。さーて、と。これからどう動くか、そろそろ決めねぇとなぁ」
「そっ、そうね」
(もう一度、吸いたい)
頭の中でせり上がってきた声を、フィーナは銀髪を勢いよく振り払うことで散らした。
長い指で耳の後ろへ髪を流し、人差し指の先で、まっすぐに地平の西を指す。
「ここから西に、いちばん近い国があるわ。歩いて七日ほど。そこへ向かいましょう。付いてきなさい」
岩の縁から地面へと、ふわりと飛び降りる。
革靴の踵が乾いた土に着くと、彼女は振り返らずに歩き出した。
瞳の色は徐々に青を取り戻しつつある。
「俺も付いていっていいのかよ。意外だな。てっきりここで、じゃあな、で別れると思ってたぜ」
ザガンは間延びした声で言いつつ、銀髪の背中を追って歩き出す。
いや、追っているというより、釣られている、と言うほうが正しかった。
奴隷服の粗い麻地が朝日に薄く透け、彼女が一歩を踏み出すたびに、布の裏側で太腿の付け根が静かに弾む。
その上に乗った、完熟した果実みたいに丸い尻のラインが、左、右、左、右と一定のリズムを刻んでいた。
前のめりに、ロックオン。
一歩ごとに、こちらの重力が、明らかに彼女の方向へ傾いている気がした。
「常人以上の血を持っているあなたは、私の食事になるもの」
前を歩くフィーナが、振り返りもせず、淡々と告げた。
「国までは、まだそれなりに距離があるわ。その間、あなたには私の食料になってほしいのよ」
「えー、なんだよぉ、もっとなんかこう、あるだろうよぉ。一晩を共にした仲じゃねぇか」
「そんな関係じゃ、まだないから」
以前の彼女なら、こんな欲望塗れの男と歩くなど、考えもしなかった。
人間は嫌い、裏切るから。
男は嫌い、強欲だから。
両方を兼ね備えた相手が現れたなら、なおさら遠ざける。
「じゃ」と一言だけ残し、振り返らずに別の方角へ消えていく――それが今までの彼女。
なのに、今はその男を自ら連れて歩いている。
血を吸って愛着が湧いた(彼女は気づいていない)と言うのもあるが、理由は他にもあるのだ。
「それにね。あなたには、まだ――私の願いを、叶えてもらっていないから」
ぴた、と。
半拍、後ろの足音が止まる。
踵の下で、乾いた小石がぱきりと鳴き、続いて、わざとらしい咳払いがひとつ、朝の空気に放り投げられた。
「……あー、そうだった。そういや、そういう約束、だったな、うん」
ぼりぼりと頭を掻く音、それから視線が斜め上、誰もいない朝の空へと逃げていく。
「仕方ねぇ。テメェの願い、叶えてやるよ」
諦めたように、ザガンが彼女の前へ回り込み、正面に堂々と立った。
今度はお尻ではなく、おっぱいを見たいと思ったからである。
次は彼女の胸にロックオンをしながら耳を貸す。
「言っとくが俺ができる範囲のことだけだかんな。無理なものは無理だからな!」
「分かっているわよ」
フィーナは、ふぅと息を吐いた。
なぜ、あの洞窟で勝負などを挑んだのか。
勝者が何でも願いを叶える――などという危うい賭けを、よりにもよって自分から差し出したのか。
もし、負けていたら……。
目の前の男が口にしていたであろう願いを、彼女なりに想像してしまう。
ぽわん~ぽわん~ぽわん~。
「抱くのはいいけれど、私、初めてだから。優しくして」
「テメェの面が可愛くて、手加減できねぇかもな(王子様風ザガンの顔)」
「ちょっと、顔、近いわ♡」
「俺が気持ちよくさせてやるよ(彼女にはとてもカッコよく見えております)」
「……ばか♡♡♡(キス待ち顔)」
パァンッ!!
派手な音を立てて、フィーナの脳内で薔薇色の風船が破裂する。
飛沫は遅れて頬の裏側に散り、ついでに腹の奥のもっと深い場所で、じわ、と熱が居座る。じっとしていられず、フィーナは長い指先で耳の後ろへ髪を流す。
(私が勝ってよかったわ)
自分でも思わぬ想像をしてしまい、つくづく勝ってよかったと思った……。
熱はしぶしぶと退いていく。
革靴の踵が、乾いた土をきゅ、と噛んだ。
立ち止まる。
銀髪が朝風にひとふさほどけ、頬の脇を流れた。
危うい賭けの天秤にまで載せて、この男の前へ差し出したかった、たった一つの願い。
それは……。
「ザガン……私の奴隷になりなさい」




