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第4話 狂人はおっぱいの誘惑され……

 そう言葉を言い残し、フィーナの片手が頭上へ跳ね上がり、その指先から術を放つ、白い霧が音を発した。

 霧はみるみる凍り付き、宙に薄く透き通る傘――氷の天蓋を張った。

 傘は風を抱きこみ、彼女の体をわずかに、しかし確実に上へと押し上げる。

 結果、ザガンの方が先に落ちる形となった。

 角度の問題である。

 仰ぎ見るほどに、彼女の足の付け根の白はより開示される。

 白く太い太ももの奥、凝縮された神聖なる世界を見上げた彼は――。


「ガチでありがとうございますッ!!!!」


 重力を完全に無視した、見事なまでの空中土下座。

 罵倒ですら、ご褒美である。

 だが、ザガンの幸福は、長くは持たない。


「……あ、やべ。地面来る」


 頭を下げた拍子に視線が真下を向き、その先――数秒の距離に、落下の終点が口を開けている。

 黒い岩肌。湿った闇。

 ザガンの瞳孔が、ふっと細くなる。


「よっと」


 その一言だけが、彼の口から漏れた。

 次の瞬間、ザガンの動きは、傍目には、もはや人間のそれではない。

 空中で体をひねり、ぐるりと一回転、大の字に開く。

 双剣の柄を逆手に持ち替え、まず、すぐ脇を落ちていた騎士を手で引き寄せ、片足を軽く乗せる。

 重心を一瞬だけ預け、騎士を下へと蹴り飛ばす。

 「ぐはっ」と短い呻きを残し、騎士の鎧が視界の底へ消えていく。

 次に、その下を落ちていた奴隷の頭頂部に、もう片足が降りる。

 後頭部の髪を掴み、ぐん、と体を引き戻す。

 奴隷の首が嫌な角度に曲がる音がしたが、ザガンは何も気にしない。


「女があのヴァンパイアだけってことは分かってんかんな。遠慮なく使わせてもらうぜ」


 魔族の肩や背中、味方の盾、頭蓋。

 ザガンはそれらを順番に、まるで川面の岩を渡るように軽やかに踏み抜いていく。

 一段ごとに体の落下速度は削がれ、最後の一段で、彼はとうとう、ふわりと猫のように身を翻した。

 ガッと横の岩壁へ伸ばした手のひらが、湿った岩肌を捉える。

 革靴の底が、ズルズルと最後の数間を擦り、刻むようにして滑り降りていく。

 その一方で……。

 べちゃり。ぐしゃり。ぐじゃ、ぐじゃ。

 踏み台にされた者たちが、踏み台にされなかった者たちと一緒に、まとめて岩肌に叩きつけられた。

 床のあちこちで、肉と骨と鎧の混ざる重い音が連続する。

 鎧が拉げ、骨が砕け、内臓が破裂。

 それでも――この世界の理に従って――誰一人、絶命はしない。


「いでぇ……いでぇよぉ……」「あ、足が……足が反対側に、ついてる……」「誰か……からだが、うごかねぇ……」「いやだ、いだいのは、もういやだ……」「ぐ……殺して、くれぇ……たのむから、誰か……」


 暗闇の底で、無数の声が湧き上がってくる。

 血の匂いと、湿った岩の匂いと、潰れた臓物の匂いが、冷えた空気に混じり、ねっとりとザガンの鼻孔に絡みついた。

 動けぬまま意識だけを灯し続ける肉塊たちの呻きは、波紋のように重なり合い、洞窟の奥へ奥へと、果てしなく転がっていく。

 ザガンは、その声の海の真ん中で、ふう、と一つ息を吐きながら地面に着地。


「一時はどうなるかと思ったら、いやはや、良いもんが見れたぜ~役得役得~」


 周囲の者など居ないかのように無視し、首をぐるりと回し、頭上を見上げた。

 遥か高みに、丸く切り取られた青がある。

 欠けた銅貨ほどの大きさになって、それでも頑なに光を落とし続けている地上の空。あそこから、自分は落ちてきた。

 目を細めて、距離を測る。

 測ったところで、答えはひとつしかなかった。


「こりゃ、無理だな」


 双剣の柄頭で、こつん、と自分のこめかみを軽く叩く。

 届かない。どう考えても這い上がれる高さではない。

 登るのは諦め、ザガンはぐるりと首を巡らせる。


 灰色の岩盤が、ドーム状にせり上がる広大な空洞だった。

 その柱と柱の間に、口を開けた穴が幾つも見える。

 穴の奥はどれも、墨で塗り潰したように黒い。

 どの穴へ進んでも、何が出てくるか分かったものではない。


「……何で、あなたが無事なのよ」


 彼女の声がした。

 いつの間に降りていたのか、振り向いた先には、たった今着地したらしい銀髪が立っている。

 氷の傘はすでに散らされ、白い霧が彼女の足元で薄く解けていく途中だった。


「死んでしまえばよかった、のに」

「ハッ。こんな状況でも、テメェのひでぇ態度は変わらねえなぁ。逆に安心するわ」


 ザガンは肩の埃を払いながら、にやりと唇を吊り上げる。


「まぁ、パンツ見せてもらったしな。許してやるよ」

「――な、っ」


 次の瞬間、彼女の白い頬に、ぽ、と熱が射し耳の先までが朱に染まる。

 その表情は、戦場で氷の矢を雨と降らせていた女と同一人物には到底見えない。


「あなた……本当に最低ね。記憶から消してもらえるかしら」

「いいぜ~。条件次第ではな」


 ザガンは双剣を腰の鞘に納め、指を二本立てて、ひらひらと振ってみせる。


「一つ、俺に傷を負わせたこと、ちゃんと謝れぇ。二つ、そのおっぱい、揉ませろ。そしたら今この瞬間、テメェの可愛らしいワンちゃんパンツの件、記憶ごときれいさっぱり消してやるよ」

「ッ……っ、かぁぁ~~~ッ!」


 言葉にならない声が、彼女の喉の奥から漏れる。

 頬どころか、首筋まで朱に染まっていた。

 普段の刃のような冷たさが、たった一枚の布切れによって、ものの見事にして崩壊いる。

 そんな自分を恥じるように、彼女は長い銀髪を片手でかきあげ、視線を逸らした。

 ザガンには、見えない。

 その横顔の奥で、唇が音もなく、別の言葉を言う。

(あの日、シヌヨーに捕まらなければ……こんな男と、組まされることもなかったのに)

 呟きは、洞窟の冷気に呑まれて消えていく。

 そして――銀髪の隙間で、彼女の青い瞳が静かに閉じ、こう決意する。

(殺す)

 迷いは霧のように引いていった。


「……いいわ」


 顔を上げたとき、彼女の表情は一変していた。

 頬の朱はまだ残っている。

 けれど、その上に薄く塗り重ねられたのは、妖艶な微笑。

 唇の端だけが、ほんの少し、釣り上がっている。


「は……?」

「あなたが言ったんじゃない。揉みたいって」


 彼女は両の腕をゆっくりと胸の下で交差させ、誘うように、その膨らみを下から押し上げた。

 粗末な奴隷服の胸元が、内側からの圧に従って、たわむ。

 Dカップに育ちかけた谷間が、深く、湿った影を孕んでザガンの視界に晒される。

 拠点で出会った時よりも、明らかに深い。


「……いいの、よ?」

「は」

「あなたが、欲しがっていたものでしょう。さあ」


 唇から、囁きが滑り落ちる。蜜のように粘る声。

 ザガンの脳のいちばん理性に遠い場所が、ぐらりと前に倒れる音がした。


「……マ、マジで言ってんのか?」

「いいから、早く、しなさいよ」

「……はっ、ハハッ、おいおい、女ってのは怖ぇなあ。手のひらクルックルじゃねぇか」


 膝が、勝手に一歩、前へ出る。もう一歩。

 ザガンの目はとっくに、彼女の青い瞳を捉えていない。

 その下、二つ並んだ柔らかな丘の影を、舐めるように見つめている。


 ――変態は、狩りやすい。


 彼女がそう胸の内で笑っていることなど、知る由もない。

 これはヴァンパイアが獲物を仕留めるときの、最も古く、最も確実な手口の一つである。

 美しい肉体と、人を惑わす声と、慈悲深く見える微笑み。

 三つを餌にして、自分のテリトリーへと引きずり込む。

 ザガンの一歩が、彼女の白い指の届く距離に踏み入った、その瞬間。

 彼女の両腕が、ふわりとひらいた。

 迎え入れるように。母が我が子を抱きしめるように。

 そして、その腕がザガンの首の後ろへ回る。


「ぅお、お、おい、これマジで揉ませ――」

「死ィ~~~~」


 唇に、白い指が一本、添えられた。

 言葉を塞がれる。

 至近距離で、銀の睫毛が静かに伏せられた。

 次に、その睫毛がゆっくりと持ち上がったとき――

 隙間に灯っていたのは、青では、なかった。

 澄み切った蒼を、内側からじわりと滲ませて押し退ける、薄紅の光。

 彼女の唇が、ザガンの首筋へ、すうっと寄せられていく。

 小さな牙を出し、ゆっくりと……。

 

 ぱくっ かぷり チュ~~~~。


 それは、クールな見た目とは相反する、ゆるきゃらのような可愛らしい吸血行為だった。

 この世界において、体中にある血を全部吸われたところで、死ぬことはない。

 ただし、体の機能は停止する。

 心臓は鼓動を忘れ、四肢は重りのように沈み、瞼を持ち上げる筋肉さえ動かなくなる。

 残るのは、意識と、痛みだけ。

 血を吸い尽くされた獲物は、生きたままの肉塊として、ヴァンパイアの足元に転がる。

 あとは好きなときに魂核を砕けばいい。


「ッ……ぁ。変態と言えど、血は美味しかったわ」


 吐息が漏れる。

 ザガンの首筋を吸い上げる唇の隙間から、止めきれずに零れた。

 冷たかったはずの吐息は、いつの間にか、熱を帯び、甘く、荒く、湿っている。

 澄まし顔の奥に押し込めていた何かが、血の味と一緒に、舌の上で勝手にほどけてしまったらしい。


「ごちそう、さま」


 舌先で、ザガンの首筋の傷をひとなめする。

 名残惜しさを、自分でも気づかぬまま、薄紅の瞳が一度、細められた。


「さっ……さっ……」


 普通の人間が体内に宿している血の量を全部吸いつくされた、ザガンは痙攣していた。

 その場から一歩も動け……。

 

 モニュ。モニュモニュ。


「ひゃっ」


 彼女は自信の目を疑った。

 なぜなら。

 たった今、機能の全てを停止させたはずの獲物の両手が。

 血を抜かれ、痙攣しているはずのその指が。

 彼女の胸を、左右からきっちり、ぐっ、と。

 鷲掴みにしていたからである。


「最高じゃねぇかぁぁーーーーー!!!!」

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