第17話 目覚めた嫉妬心!~狂人、ヴァンパイア、共に仕事中:「もっ、萌え萌えきゅきゅきゅん!」
彼女がメイド喫茶で働くようになったのは、ちょうど一週間前。
この店の前で起きた、たった一つの騒動にまで遡る。
*
昼下がり。パン屋で遅い昼を済ませた二人は仕事先を探すため、フィーナの広げた街の地図に額を寄せ合っていた……はずだった。
ふと視線を上げると、隣にいたはずのザガンの姿がない。
声のした方へ目を向ければ、案の定、ザガンがメイド喫茶の前で女性へ馴れ馴れしく顔を寄せていた。
そしてその間に、岩のように分厚い体つきの店長が、般若の形相で割って入っている。
「店員が可愛いのがいけねぇんだろうが!!!俺は単に抱きてぇって言っただけだ!それの何がわりぃ」
「常識ってのを知らんのか!こんなにも逆ギレされたのは、お客様が初めてですよ!」
要するに、ナンパである。
よりにもよって、店の看板娘に手を出し、あまつさえ咎められて開き直っている。
フィーナはすぐに状況を把握、地図を畳む間も惜しく、人混みを縫って駆け寄った。
「……っ、申し訳ありません。連れが、とんだご無礼を」
頭を下げ、隣のザガンの脇腹を肘で小突く。
「ほら、あなたも謝って」
「いいや、俺は間違ったことはしてねぇ。謝らねぇからな!」
謝罪に重ねて飛んでくる、堂々たる開き直り。
店長の額に、怒りマークがぴくりと浮かんだ。
「申し訳ありません。どうすれば、お許しいただけますか」
店長は太い腕を組み、奥歯を軋ませながら唸っていた――が。
そして、ふとフィーナの顔へ、初めて視線を落とした。
フードの陰から覗く、白磁の頬。
長い睫毛の下の、澄み切った青い瞳。
怒りに染まっていた店長の顔から一気に営業顔へと変化する。
「……ごほん。実はうちは今、人手が足りておりません」
咳払いひとつ。先ほどまでの剣幕は、どこへやら。
「お嬢さん。あなたがここで働いてくださるなら――今回の件、水に流して差し上げましょう」
店長の背後では、ナンパされた当の看板娘までが、何度も首を縦に振っている。
その目は「ぜひ!」と雄弁に語っていた。
余程人手が足りないのだろう。
フィーナの背筋を、嫌な予感が駆け上がった。
「賛成だ!前々から拝みてぇと思ってたんだよ、テメェのそういう恰好をよ!」
横合いから飛んでくる、能天気きわまる援護射撃。
彼女はぎろりと一瞥で男を黙らせた。比喩ではなく、足元を薄く凍らせて引っくり返してやりたい衝動を、辛うじて飲み込む。
「お断りします。詫び金でしたら、お支払――」
言いかけて、唇が止まった。
脳裏に、つい先刻、路地の陰で数え直したばかりの手持ちが浮かぶ。
銀貨、数枚きり。詫び金など、出せる額ではない。
それにちょうど働き口を探していた……。
働いた経験などなく、経歴は元奴隷。雇ってくれるところは少ない……。
現実がゆっくりと首を絞め上げていく。
「いえ。働かせてください……」
観念したような、低い声。店長の顔が、ぱっと輝いた。
「決まりですな!いやぁ、看板娘がもう一人増えれば、うちも安泰だ!」
その傍らで、元凶たる男が、得意げに胸を張っている。
「ハッ!俺のおかげで仕事にありついたじゃねぇか。感謝しろよ」
「……黙りなさい。あなたのせいよ、全部」
半眼で吐き捨てるフィーナの手に、店長が、いそいそとメイド服を押しつける。
差し出された純白のフリルを、彼女は親の仇でも見るような目で受け取った。
とにかく今は、金だ。
(そのためなら、人間に頭くらい――いくらでも下げてやる)
と脳みその半分が思っている一方、もう片方は……。
(これがザガンの好みの服……本当に似合うのかしら……)
と思っていた。
*
そして、現在。
「いっ、いらっしゃいませ。ご……ご主人様……」
こうして、フィーナは嫌がっていたメイド喫茶で働くこととなった。
純白のフリルが、一歩ごとに頼りなく揺れる。
剥き出しの肩へ、見知らぬ男たちの視線がぬるりと絡みつくたび、フィーナは奥歯をひとつ、強く噛んだ。
慣れない営業声に、自分で鳥肌を立てながら。
「お嬢ちゃん、お酌してくれよ」
「……かしこまり、ました」
硬い笑みのまま、銀髪の少女が、見知らぬ客の杯へ酒を注ぐ。
その頬には、屈辱と羞恥のものとも知れぬ朱が、薄く差していた。
引きつった笑みの裏で、フィーナの指先が、ほんの少しだけ白い冷気を漏らしていることに、上機嫌の客は気づかない。
接客は、人目に立つ仕事だ。
フードを脱いだ顔を毎日、不特定多数の客に晒すことになる。
だからこそ、彼女は裏で手を打っていた。
この一週間、宿屋からこの店までの道を、毎日違う経路で歩いてみた。
万にひとつ、自分を追う者がこの街に紛れていないかを、その足で確かめるために。
加えて、術で握り拳ほどの小さな雪だるまをいくつも編み、街の路地という路地へ、人知れず徘徊させている。
氷の偵察兵だ。
雪だるまの捉えた景色は、薄くだが彼女の脳裏へと届く。
怪しい影、武装した者、自分の顔を探すような視線――そうしたものの有無を、店の床を磨きながらにして確かめることができた。
数日かけて、彼女は確信を得た。
……少なくとも”今”この街に、自分を狙う気配はない。
それでも警戒は緩めず、雪だるまは今この瞬間も、石畳の隙間を音もなく巡り続けている。
「おっ、嬢ちゃん。酒注ぐだけかい?あれ、やってくれよ。美味しくなる呪文ってやつを」
卓の客が、にやにやと顔を寄せてくる。
フィーナの指が、瓶の首をぴくりと握り直した。
――やはり、来た。
断れるものなら断りたい。だが、これは仕事……。
彼女は深く、長く息を吸い込み、覚悟を決めて――満面の、ぎこちない笑みを、顔に貼りつけた。
「もっ……萌え萌え、きゅ、きゅきゅん……」
両手で作った♡と可愛らしいポーズをとる。
その瞬間、店内が、どっと沸いた。
「おおおおーーーっ!(サラリーマンたち)」
「クールで冷たい子のこの恥じらいよう、たまらんねぇ(どこかの社長)」
「いいギャップだ(ハンターの男)」
「銀髪最高!(変態作者)」
歓声を一身に浴びながら、フィーナの口角は、笑みの形に張りついたまま。
ただし、その目だけが、完全に据わっていた。
(この屈辱、一つ残らず覚えておくわ)
誰に向けるともしれぬ殺意を、胸の奥へ沈めた。
夜。
最後の客を送り出し、店の灯が落とされる。
宿屋への道を、フィーナは一人、とぼとぼと歩いていた。
慣れない笑顔を貼りつけ続けたせいで、頬の筋が、じんと強張って痛む。
石畳の隅では、彼女の生み出した雪だるまが、相変わらず音もなく見回りを続けていた。異常なし。それだけが、今日のささやかな収穫だった。
部屋の扉を開ければ、安宿の固い寝台が、二つ。
壁の染みも、軋む床板も、もう見慣れたものになりつつある。
たった一週間で、この狭い一室が、二人にとっての“帰る場所”になっていた。
「つーかーれーたぁー」
その片方に、ザガンが作業着のまま、仰向けで大の字に寝転がっていた。
粗い麻の作業着は、あちこちに乾いた泥と木屑をこびりつかせている。
胸板には汗の跡が地図のように浮き、それでも当人は満足げに、ぐでりと手足を投げ出していた。
フィーナが街に来た初日に職を見つけたように、この男もまた、ちゃっかり働き口を確保していた。
土木建築の作業員。
木材を運び、柱を立て、家の建築から修繕までをこなす仕事だ。
今はまだ荷物持ちしか任されていないが、片腕一本で常人の倍の木材を軽々と担ぐその筋力は、現場でもちょっとした名物になりつつあるらしい。
それを面白がる声も、疎む声も、当人はどうでもと思っている。
「ちゃんと服を脱いでから横になりなさいよ」
フィーナはフードを外し、押し込めていた長い耳を、ようやく解放した。
ぱさり、と銀の髪が肩へ落ちる。
一日中フリルと作り笑いに締めつけられていた体が、ほどけていくのが分かった。
「俺のベッドだ。俺の好きなように使うぜ。てか聞いてくれ~明日の仕事よぉ~。また朝早いらしくてよぉ~。めんどくせーんだ、これが」
「我慢しなさい。私だって、我慢しているんだから」
誰のせいでこの服を着る羽目になったと思っているのか。
そう睨みを利かせるが、当の男はすでに天井を見上げて、のんびりとしていた。
フィーナは小さく嘆息し、自分の寝台の縁へ腰を下ろす。
「まぁ、仕事はめんどいけどよ。今日、良いやつと会ったんだよな~」
寝転がったまま、ザガンが、ふと思い出したように呟く。
その何気ない一言に。
ピクン。
フィーナの耳の先が、わずかに跳ねた。
膝の上で組んでいた指が、自分の意思とは無関係に、きゅっと布を握り込む。
「……それって、女の人?」
問いかけた声が、ほんの少しだけ、いつもより硬い。
自分でも、なぜそんな問い方になったのか、分からなかった。
「ん? ちげーよ。男だよ男。細身の癖に意外と力持ちでよ。俺、片腕だろ?だから不便な時があってよぉ~、そん時に手伝ってくれた奴なんだ」
彼女はふぅ、と細く息を吐き、片手をそっと胸に添える。
「それはそうね。あなたが女性と仲良くなれる訳がなかったわ」
「おい、聞き捨てなら……」
それ以降のザガンの言葉は彼女の耳に届かなかった。
一瞬だけ跳ね上がった心拍が、ゆっくりと凪いでいく。
後に残ったのは、なぜか、安堵によく似た、温い何かだった。
(……なんだったのかしら、今の)
胸の内側に灯ったその熱の正体を、彼女はうまく言葉にできない。
できないまま、銀の睫毛を一度だけ伏せて、固い寝台へ、ことりと身を横たえた。
天井の染みを見上げながら、その夜は、なかなか寝つけなかった。
*
それから、二日が過ぎた。
その日は、フィーナの仕事が、思いのほか早く片づいた。
団体客の予約が無くなったとかで店長が「もう上がっていいよ」と悲しそうに手を振ったのだ。
メイド服を脱ぎ、いつもの軽装に着替えて表へ出れば、まだ夕方だった。
こんなに明るいうちに店を出るのは、働き始めて初めてのことだった。
宿への道は、いつもの通り。
――のはずが、彼女の足はその分かれ道で、ふと止まった。
(そういえば……今日の現場は、宿のすぐ近くだと、言っていたわね)
別に、深い意味はない。
ただ、たまたま帰り道に近いだけ。
それに、あの男のことだ。一人にしておけば、また誰かと揉めて面倒を起こしかねない。
彼女は胸の内でせっせと言い訳を並べていた。
並べながら、宿とは逆の道へと、一歩を踏み出す。
その足取りが、夕暮れの石畳の上で、いつになく軽いことには、本人だけが気づいていない。
現場が近づくにつれ、彼女の思考は、勝手に、甘い色を帯びていった。
ぽわん~、ぽわん~、ぽわん~。
「ザガン。迎えに、来てあげたわよ」
「お? わざわざ悪ぃな、フィーナ(ザガンの顔がキラキラと輝いています)」
差し出された、骨ばった手のひら。
その手に引かれるまま、彼女の体が、ふわりと路地裏の影へと攫われる。
背に、ひやりとした煉瓦の壁。
逃げ場を塞ぐように、男の右腕が、すぐ脇の壁へと突き立てられた。
「やっぱりよぉ~、三年なんて、待てねぇぜ」
いつもの軽薄な声が、甘く掠れている。
「テメェのその可愛い面、毎日見てたらよぉ――おかしくなっちまう」
「だっ、ダメに、決まっ――」
継ごうとした言葉を、ザガンの指が、すい、と唇へ添えて塞いだ。
顎を、くいと持ち上げられる。
「いいじゃねぇか。今夜は、寝かせねぇぜ」
「だっ、だめ、よっ……♡(とろけた顔)」
頬の朱が、耳の先まで滲んでいく。
とろけそうになる瞼を、それでも閉じきれずに、彼女はうっすらと、目の前の男を見上げ――。
パチンッ!と薔薇色の霞が弾け飛び、滲んでいた景色が、急速に、現実の輪郭を取り戻していく。
フィーナが立っていたのは、ただの建築現場の、柵の前。
いつの間にかザガンの職場に来ていたのだ。
夕陽に長く伸びた自分の影を踏んで、棒立ちになったまま。
せっかくだからと、柵に手を掛け、中の様子を伺う。
(あっ、いた)
作業着のザガンが、柵の向こうで、見知らぬ誰かと親しげに笑い合っている。
肩を寄せ、何やら冗談を言い合って。
「……えっ?」
ザガンの隣にいる人物を見た瞬間、フィーナの瞳から、とろけていた熱が、すうっと、音もなく引いていく。
「あれ、どう見ても――女、よね」
ぽつり、と落ちた呟きに応じて。
彼女の足元の石畳が、ぴしり、と白く凍りついた。
柵が凍り付く。




