間章 記憶の中の温度①
2020年 3月28日 土曜日 晴天
AM 10:38
既に高い場所へと登る朝日が車窓から差し込み、規則的に揺れる振動が座席を伝わっている。
暖房の効いた車内は心地よく、冬夜のまぶたは何度も閉じかけては開くを繰り返していた。
昨晩、妹が興奮した様子で何度も部屋で海洋類のドキュメンタリー映像を流し見ていたからに違いない。
眠い。率直にそう感じていた。
隣の席に座る妹の小さい肩と何度か小さく触れる。
遠のきそうな意識の中でも、妹の雪那とさらにその奥に座る千香との会話はしっかりと耳に入ってくる。
「水族館楽しみだね、お魚さんいっぱいいると思うよ〜」
「…うん」
人見知りでもある雪那は、千香には心を開いており電車の雑音にかき消されそうな細い声で相槌をうつ。
「知ってる? イルカショーとか水槽がトンネルみたいになってるんだよ」
「…うん」
「あとね、ペンギンもアザラシも見られるんだって」
「……ほんと?」
雪那の声は相変わらず小さく、知らない人が聞けば機嫌が悪いのかと思うかもしれない。
だが、兄である冬夜が見る限りではその小さな手を膝下でぎゅっと握りしめる仕草は、意気揚々としている証拠に他ならない。
彼女は今、猛烈に上機嫌なのである。
車内のモニターから流れてくる映像では、水族館の内容のものが時折映される。その度に自然と千香から視線は外れては、魚たちやペンギンなどに心打たれていた。
冬夜と雪那の前には、千香の両親でもあるおじさんとおばさんが吊り革に掴まりながら、雪那の子供らしい仕草に微笑んでいるのが伝わる。
「あらあら、そんなに楽しみだったのね」
「天気もいいし、お出かけ日和だな」
二人からの声にも恥ずかしそうに、雪那こくりと小さく頷いていた。
「にぃ」雪那は電車の音にかき消されそうな声量で呟きながら、冬夜の袖をキュッと掴んでいた。
雪那が肩にかけているバッグに吊るされている、イルカのストラップが陽の光を反射しては冬夜の目を襲う。
「うん、起きてるよ、おじさんたちは雪那が楽しそうなのが嬉しいんだよ」
そう言うと、雪那はゆっくりとおじさんとおばさんの双方に視線を動かし、照れ臭そうに頰を小さく上げてた。
一緒の家にいても雪那は冬夜か千香の側から離れることはあまりしない。極度の人見知りは歳が離れた大人に適用されることが多く、グイグイと話しかけられるとフリーズすることが多々ある。冬夜は兄として、雪那の苦手意識を払拭できるようにその都度チューニングを試みている。
(もうすぐ10歳だしな、早く人見知りの癖を直してもらわないと)
ふと視線をあげると、おじさんは吊り革を握ったまま、何気なく車内モニターへと視線を向けている。モニターに映し出されている情報番組では、新都の街並みが空撮映像と共に映し出されている。
『──新都では昨年の出生率が過去最高を更新しました』
『新都13区で実施されている子育て支援制度の充実や治安の良さなどが評価され、全国から移住者が増加しています』
画面が切り替わり、年度別移住者調査の数値は年を重ねるごとに右肩上がりで増加している。
更に画面が変わると笑顔で歩く家族連れや公園ではしゃぐ子供たち、真新しいマンション群が次々と映し出されていく。
全てにおいて理想の都市空間と評価できる要素は大いにあることは、幼いながらも冬夜もそれは実感していた。
『犯罪発生率は全国平均を大きく下回り、安全都市としての評価も——』
「ほんと、平和な街だよな新都って」
ぽつりと漏らしたおじさんの言葉に、隣に立つおばさんが優しく笑う。
「まさかたまたま引越した先がこんなに安全な場所だったなんてね」
「俺の目に狂いはなかったってことだな」
「あら、この街がいいって言ったのは千香でしょ、自分の手柄みたいにしちゃダメですよ」
「お、そうだったかな?」
おじさんは肩を竦めながら、視線を外す。
そして、再び口を開けてはこう続けた。
「事件の一つや二つでも起きてくれた方が、ワクワクするけどな」
「あなたったら、やめてくださいよ。縁起の悪い」
「いやぁ、平和なのはいいことなんだけどな。ここまで何も起きないと、逆に現実味がないというか。一昔前は、殺傷事件とか大きい交通事故、自殺とかニュースでやっていたけど、今やその影もない。他の県だとまだそういうことがあるみたいだけど、同じ日本であるのにどこか遠い国の出来事みたいに思えちまう」
「そういう毎日だから子供たちも安心して育てられるんですよ」
おばさんは雪那や千香の方へ視線を落とすと、楽しく談義に花を咲かせる二人に優しく微笑みかける。
「千香も、雪那ちゃんも」
「…そうだな」
二、三度口の中で言葉を転がすように何かを言いたげな様子だったが、おじさんはゴクリと唾を飲み込むと千香に語りかける。
「千香が今の雪那くらいだったかな」
「え?」
突然、話を振られた千香がきょとんとする。
「あれ覚えてるか? 遊園地で迷子になってさ」
「あっ……」
「知らない家族について行って、全然家の車と色も形も違う他人の家族の車に乗っちゃって、お父さん必死に駐車場まで探し回ったんだぞ」
「もう、その話いつもしてるじゃん!」
頬を膨らませる千香に、おばさんがくすくすと笑う。
「あの時は本当に焦ったわよね、別のご家族も気づかずに車に乗せてるんだもの」
「小さい頃は人見知りって言葉を知らないのかってくらい平気で誰にでも付いていってたっけな」
「今はもうそんなことしないよ」
きょとんとする雪那と薄ら目を開けながら話を聞く冬夜を尻目に小さい声で反応する。
「雪那ちゃんも他人を怖がらずにこのくらいずけずけ行ってもいいからな?」
「もう!変なこと教えないで!」
暖かな笑い声が冬夜たちを包み込む。その何気ないやり取りを聞きながら、冬夜は自然と頬を緩めていた。
大葉家は、本当に賑やかで、血は繋がっていなくても不思議と居心地がいい。
梓がもっと小さい頃に母を亡くしてから、身寄りのなかった二人をこうして家族のように接してくれる人たちがいる。
それだけで十分だった。
この家族に迎えられた当初、雪那は口数の少なく、冬夜以外の人間に心を開こうともしていなかった。だが、ここ数年で彼女は少しずつだが前向きに変わっている、そんな気がしていた。ゆっくりかもしれないが、兄である冬夜にとってはそんな徐々な変化が嬉しくもあった。
この家族の温かさが冬夜たちの心の底に眠る冷たい何かを溶かしてくれている気がしていた。
雪那の方を一瞥するも、あまり表には出てないがはしゃいでるのが表情から読み取れる。
すると視線に気づいたのか、雪那は冬夜の方に顔を向ける。
「にぃ、疲れてるの?」
「え?」
雪那は冬夜の顔を下から覗きながら、心配そうな声を出す。
眠気が取れずに変な顔でもしていたのか、余った手で自分の顔を触ってみると、
「冬夜」
ふと頭に大きな手が乗せられる。
おじさんだった。
「まだ着くまで少しある。眠いなら寝てていいぞ」
その一言に強張っていた肩の力が抜ける。雪那と視線が再び合うと、彼女は微笑みながら小さく頷く。
事ある度に冬夜の方を振り向くものだから、ずっと様子を見ておかないとと思っていたが、杞憂だったようだ。
「……うん、そうする」
眠気は、もう限界まできていたようだ。
電車の規則正しい揺れ。レールを刻む音。誰かの笑い声。暖房の温もり。
その全てが、意識をゆっくりと深い場所へ沈めていく。
自分の意思とは裏腹に強制シャットダウンするように瞼が閉じ、意識はぷつりと切れた。
◇◆◇
「……や、うや」
意識はないが、音が遠くから聞こえる。
「──冬夜」
真っ暗闇の中から引き上げられるように、目の前が光でいっぱいになる。
広がる光景を一通り眺めた後に、意識が後を追ってやってくる。
「冬夜、もう着くぞ」
その言葉の主はおじさんだった、優しそうな目でこちらを見つめていた。数秒経て今の状況を把握する。
電車はすでに品川駅に到着していた。
隣に座っていた雪那と千香、おばさんはすでにドアの前まで移動しており、ギリギリまで寝ていた冬夜は急いでおじさんと共に開いたドアをくぐった。
近くの階段を登り、改札付近まで移動しつつ、周囲を見回してみると人でごった返していた。オフィス街だが、複数の路線が集う駅ということもあり、人々があらゆるホームに向かうために縦横無尽に移動している。
初めて降りたということもあり、色んなものが目新しく感じる。辺りをキョロキョロ見渡していると自然と歩く速度が遅くなる。それに気がついたおじさんは冬夜の腕をしっかりと掴み、改札の方へと誘導する。
「あ、ごめんなさい」
「はは、お前らやっぱ兄妹だな。同じ動きしてるぞ」
頬を緩めるおじさんの視線は少し先にいる雪那たちの方に向いていた。するとそちらもでも、周囲を見渡す雪那の手を千香引く姿が目に入った。
「あはは、ほんとだね」
「早く移動して、休日を満喫しないとな」
ニカっと笑うおじさんを見ると心が温かくなった。
確か、おばさんから聞いた話だが、おじさんはどうやら息子が欲しかったらしく、一時期は「男の子が欲しい」がずっと口癖になっていたようだった。
冬夜たちは母親を失ったと同時に父親もどこか遠いところへ行ってしまったという。父親という存在はどこかぼんやりしていて、はっきりと思い出せない。
だからこそ、自分たちのことを息子娘同然に扱ってくれるおじさんの存在は大きな拠り所になっていた。
改札を抜けると、西口方面に抜ける階段付近で千香たちは案内板の前で立ち尽くしていた。
「柘榴坂の方、一部通行止めだって」千香が振り向き様におじさんに伝える。
「えーなになに? 『危険物輸送車両通過のため、一部通行規制を実施いたします』?」
目の前の警告文のように書かれた案内版を読み上げる。
「危険物輸送車両、今の時間だけ封鎖してるんだな」
「私たちが行くところは別に封鎖している場所と関係ないわ、さぁ水族館に行きましょ」
おばさんは気にも留めず微笑み、千香と雪那の背中を軽く押す。
誰一人として、その言葉を疑うことはなかった。
駅から出ると大通りの手前では横断歩道の信号待ちをする人たちで溢れていた。
「休日なのにこれだけ人がいるんだね、びっくり」
「ご飯屋さんも映画館もあるからね、仕方ないわ」千香の呟きに応えるようにおばさんが続ける。
「にぃ」先程まで千香に手を引かれていた雪那が、いつの間にか冬夜の後ろに立っていた。
想定以上の人混みにやられたのか、冬夜の服をキュッと掴みながら隠れるようにびったりと背中にくっつく。
「もうすぐつくからな、少し辛抱してくれ」
青信号のランプが点灯した瞬間に、停滞していた人々が一斉に動き出す。雪那も後方にいる人々に押され、びくりと肩を揺らすとまるで木々に掴まる蝉のようにがっしりと冬夜の体にしがみ付く。
「ちょ、雪那っ、歩きづら」
「……あっちまで運んで」
「あのなぁ」
冬夜はガッチリとホールドする手を解くと、小さな手を握り直し、雪那を引っ張る。
「これでいいだろ、ほら行くぞ」
「…うん」
小さな力で引っ張ると、雪那はこちらに着いて来ようととてとてと歩き出す。
冬夜よりも後ろを歩く雪那の表情は読めないが、握り返している手の感覚で何となく彼女の心が分かる気がした。
「よっぽど楽しみなんだな」
「…うん、みんなで…お出かけだから」
「兄ちゃんも楽しみだよ」
「……たくさん」
「ん?」後ろを振り向くことはなかったが、耳を雪那の方へ向ける。
「たくさん、お魚見ようね」
「あぁ」
簡単でいい。
それ以上の言葉を話さなくても、雪那がどう思って、何をしたいかは何となく分かっていた。
何となく、妹が後ろで微笑んでる気がした。
冬夜は少しだけ歩く速度を緩めた。
背後から聞こえる小さな足音が、きちんと自分についてきていることを確かめる。
前方では千香が振り返り、こちらへ向かって手を振っている。
「冬夜〜早く〜! 雪那ちゃんも早くおいで〜!」
「分かってるよー」
千香の声に反応して、雪那の歩幅がほんの少しだけ大きくなる。それを見ていた冬夜は、思わず笑った。
ついさっきまで人混みに怯えていたくせに、千香の声が聞こえればちゃんと前を向く。分かりやすい妹だ。
「ほら、千香も待ってるぞ」
「……うん」
二人で歩く。
その先では、おじさんとおばさんが何かを話しながら、こちらを待っていた。
風が吹く。三月の終わりにしてはまだ少し冷たい、けれど、頭上から降り注ぐ陽射しは暖かかった。
空を見上げるが雲一つない、綺麗な青空だった。
今日はいい日になりそうだ。
理由なんてなかった。ただ、そんな気がした。
「あ……」
丁度、横断歩道を渡り切る直前だった。ぐっと、後ろに手を引っ張られる気がした。
違和感を感じた冬夜はそこで初めて雪那の方を振り向いた。
すると、雪那も後方を見つめながら立ち止まっていた。その視線は道路の方に向いており、数m後ろの方にバッグに付いていたイルカのストラップが落ちてしまっていたのだ。
どうすべきか首を前後に往復させ、迷っている雪那の様子を一瞥し、冬夜は人の流れを逆らう形でストラップを拾いに進んだ。
キラキラと水晶のように光を反射するイルカのストラップを掴むと付いてくる雪那の掌にそれを乗せる。
「ほれ、もう落とすなよ」
「……ごめんね」
「いいよ、あ、信号点滅してるぞ」
俯く雪那の頭に軽く手を乗せ、再び動き出す。
そんな時だった。
冬夜の視界の端で黒い影が動いた。
一拍置いて。
鼓膜を割くような轟音が響き渡る。
何か巨大なものが激しくぶつかるような重厚で鈍い音。
一瞬にして品川駅前は静寂と動揺が支配する。
周囲の人々も何が起こったか理解していない。静寂という凪が引いた後に、ざわつく人々の声があちらこちらに飛び交う。
流動的だった人々の流れは、轟音を機に静止させられる。冬夜も周囲を見渡すが、すでに歩道の信号は赤く点灯している。しかし、時が止まったかのように人々と車は動こうとしない。
周囲の人々の視線は駅の方へと一気に集められている。
それもそのはず。冬夜の視界の端で蠢いていたそれは、普段見ることもないいわゆる装甲車と呼ばれる車両そのものだった。
迷彩柄の装甲が何かに擦れたのか、所々に黒い擦り傷がついており、その車体が駅に突き刺さる形で衝突していた。
唖然。それ以外に感情が見当たらない。
そばにいたはずの雪那は視界から外れ、地べたに座り込んでしまっていた。
明らかな異質な空間だった。
そして、
じじじ、と。小さな音だったが何か火が着いたような音。
不均一で曖昧な音がただただその空間にじんわりと広がる。
数秒の静けさを持て余した後。
刹那、強烈な爆発音が耳を襲う。
同時に周囲の人々の悲鳴、叫びが同時に脳に流れ込んでくる。
静止していた空間は張り詰めた緊張の糸をぷつりと切るように、一気にあらゆる騒音が空中に解き放たれる。
「──冬夜ッ!!!!」
阿鼻叫喚の叫びが耳の中で渦巻く中、自身を指す言葉が一直線に届く。
振り向くと、今まで見たことない形相でおじさんがこちらに全力で向かってくるのが分かった。
そこで我に返る。
「おじさん!!!!」応えるように叫ぶ。
まだ子供の未成熟な声。あらゆる音でかき消されてもおかしくない。それでも反射的に喉から漏れる。
そして、側で座り込んでしまっている雪那の腕をしっかりと掴み、おじさんの方へと引っ張る。先程と違って彼女が進もうとしている意思はそこにはない。
普段の雪那から感じたことないような重み。おじさんの元へと行きたいけど、全然前に進まない。
「早く離れるぞ!」
こちらに駆け寄るおじさんは、強引に冬夜と雪那の腕を掴むと、先程までびくともしなかった雪那の体を最も簡単に抱え上げる。そして冬夜の腕を引っ張り千香とおばさんの待つ方へと足を進める。
何が起こったのか分からない。
頭が真っ白になる感覚に見舞われ、自分がどこに向かっているかも正直見当も付いていない。
「冬夜くん! 雪那ちゃん!」おばさんたちの元へと辿り着くと、おばさんは涙を浮かべながら冬夜たちを強く抱擁する。
それを皮切りに隣の雪那も喉から搾り出すように嗚咽し始める。
「とにかくどこかに避難しよう、ここは危ない」
千香は冷静に周囲を見渡しながら、すぐ近くの商業施設の方へと指を指す。
おじさんたちは互いに目配せをすると、冬夜と雪那の背中を押しながらビルとビルの隙間を抜けて商業施設へと向かう。
冬夜はおもむろに後方に目をやる。
そして驚愕した。
先程と同等の形状の装甲車が、宙を舞っていた。
文字通り、晴れた空を背に迷彩色の装甲車はその大きな車体ぐるりと回転させ、線路へと飛び込んだのだ。
(夢でも見てるのかよ……)
そしてホームに停車している車両と鈍い音を挙げながら接触し、数秒へて再び爆発音が品川駅周辺に響き渡る。
今度は破裂した車体の破片が一度空に舞い上がり、粉塵と共に雨のように降り注ぐ。
細かな破片から、大きな装甲部が人々の上部に落ちる。
冬夜は人生で初めて、人間が潰れる光景を目の当たりにした。
齢12歳になる冬夜でも、今起こっている状況の悲惨さは理解できていた。
そこからは鳴り止まない悲鳴とクラクションだけが耳に残った。
前を向き直し、千香の指さす施設へと足を早める。
「冬夜、もう振り向くな。それ以上は見なくていい」
おじさんの低い声が諭すように告げる。
「……うん」
強張った喉から出たのは酷く掠れた声だった。しかし、先程の光景は冬夜に忘れることのできない瞬間だった。瞼を閉じても何度もフラッシュバックする。
掻き消そうにもそれ以外の記憶が引き出されない。
ただただ、手が震えた。
商業施設の入り口まで辿り着くと冬夜たち同様に避難した人々と、状況を理解していない人々でごった返している。興味本位で現場に足を運ぶ人々と肩同士がぶつかる。
しかし、ビルの隙間からは人々の叫び声がひたすらに流れてくる。
「…やだ、…やだ」
小さな声だった。両耳を手で覆いながらしゃがみ込む雪那の姿が視界に入る。今までに見たことないくらいに怯えた表情だった。その小さく丸まった背中を摩りながら千香は何度も「大丈夫」と言い聞かせる。
「ここなら安全か…? 一旦様子を見よう」
「えぇ、雪那ちゃんも動揺しちゃってるし、落ち着くまではここにいましょう」
するとおばさんと目が合う。
「冬夜くんは大丈夫? お水飲む?」
「ううん、俺は大丈夫だよ、おばさん」
「最悪だよ、こんな休日に。何の事故なの?」
千香の問いかけに明確な答えなんて見出せなかった。車が宙に浮いて駅に衝突して爆発なんて、非現実すぎる光景に言葉すら見失う。
「少し、様子を見てくるよ」
「気をつけてね、あなた」
おじさんは冬夜の腕から手を離し、商業施設の自動ドアを抜け、人混みの中へと姿を消した。
正直、心配であるがおじさんが怪我をするとは思えない、謎の安心感もあった。
今は安全な場所で待っている他なかった。
壁に寄りかかると全身の力が一気に抜け、沈むように地面へと座り込んだ。
「何なんだよ」
すると横で座り込む雪那は小さな手で冬夜の右手を握った。
涙が溢れ続ける瞳は少し赤く、下瞼も若干腫れている。
「……大丈夫だよ」
そんな保証どこにもなかったが、ただ妹を安心させたかった。
こくり、と静かに雪那は首を縦に振る。
千香とおばさんは何か話し合っているようだが、どこか声が遠く聞こえる。
張り詰めた緊張感が徐々に薄まり、瞼も下がってくる。
疲れた。
そう思った矢先だった。
──パァンッ
甲高い音が響いた気がした。
何か聞いたことあるような感覚。
テレビドラマやアニメでも聞いたことあるような音。
数秒、考えたのちにふと過った。
発砲音。
銃声。
沈みかかった意識が一気に引き戻される。
そしておばさんと千香の表情も曇っていく。
その時だった。
施設の入り口から物凄い形相で辺りを見回すおじさんの姿が目に入る。
こちらに気がつくと、激しい剣幕で叫ぶ。
「ここから逃げろッ!!!! 殺されるぞ!!!!」
その声は冬夜たちだけでなく、周辺にいた人々にも伝播する。
先程の銃声、そして叫ぶおじさんの声はその場にいた全員の緊張感を一気に高めた。高まった緊張感は膨張し、破裂するように人々は一斉に恐怖に飲み込まれた。
横断歩道で感じた人々の悲鳴と動揺がここでも弾ける。
冬夜たちは周囲の人の波に身動きが取れず、おじさんとの合流も容易にできない。
中央のエスカレーターは上り、下りどちらからも人が降りてきては、川の流れのように人々は入り口に向かって走る。
「す、すごい人っ、お父さん!」
千香の叫びも人々の声でかき消される。
「私たちも外へ出ましょう」おばさんは冬夜と雪那の腕を掴み、立ち上がらせる。
引っ張られるがままに冬夜たちはおじさんの元へと足を早めた。
何が起こっているか分からない、でもとにかく逃げないといけない。
おじさんの元へ辿り着くと、商業施設を抜け、ビルの隙間から大通りの方へと引っ張られる。
先程入ってきた方向だった。
しかし。隙間を抜けると、先程までの光景とは打って変わり、変わり果てた光景がそこにはあった。
大通りは先程まで信号待ちをしていたであろう車の数々が、歩道に乗り上げては、窓ガラス全てが粉々に割れている。
そして、その下には逃げ惑っていたであろう人々が下敷きになっている。薄肌色の人の腕が地面と車体の隙間から伸びている。
赤い水たまり。
小さく呻く声。
見てはいけないとは分かっているが、視線はそこに離れようとしなかった。
そして駅から上る黒煙は、凄まじい勢いで空を覆う。
火が立ち上り、小さな破裂音が不規則に流れる。
冬夜たちはおじさんに手を引かれながら人の流れに沿うように大井町、大森方面へと南下する。
柘榴坂を背に走り出すが、後方からは先ほどよりも激しい炸裂音、銃撃音が品川市街に反響する。
振り向くと、駅に突っ込んだ装甲車と同じ車両が不揃いに停められている。その陰から防弾チョッキを着用する人々が柘榴坂の方向目掛けて機銃を発砲する。
まるで戦場と言っても過言ではないその状況に冬夜はただ固唾を飲むことしかできない。
ただひたすらに人の流れに合わせて足を動かす。
正直、これ以上周囲の状況を把握はできない。おじさんが商業施設で叫んだ「殺されるぞ」その一言で冬夜の脳内は真っ白に染まってしまっていた。
今は、ただただ逃げることだけを考えよう。
すると、冬夜たちの進行方向と逆走する形で車道ではパトカーや装甲車がいくつかとすれ違う。
激しいサイレンやクラクションが鳴り響く。おばさんに手を引かれる形で斜め前を走る雪那は涙目になりながら、空いた方の手で耳を押させている。
冬夜よりも恐怖に支配された表情。怯え切った肩はあまりにも小さく見えた。
そんな時だった。
車道に一台のトラックが冬夜たちと同じ方向に走り出していた。
通常の貨物車両とは異なり、やけに大きく特殊な輸送車両、そんな雰囲気を感じていた。
その車両が冬夜たちを追い越し、10m、20mと瞬きをする間に先に進んだ後に、空が一瞬にして赤く染まる。
瞬間、より濃い紅の光はレーザービームの容量でその車両を狩るようにの背後から捕える。
光が輸送車両に届くと、輸送車両は火花を散らしながら粉々に弾け飛んだ。強烈な猛風と共に跡形もなくなった車両の残骸が逃げ惑う人々に突き刺さる。
その猛風は最も容易く冬夜の未成熟な体を持ち上げ、空へと打ち上げる。
体の自由を奪われながらぐるぐると空を舞う冬夜の四肢は、そのまま地面に叩きつけられるが幸いにも道路に倒された街路樹の葉に上手くキャッチされる。
だが、やはり強く体を打ちつけたか背中の節々に激しい痛みが走る。
「痛……、何なんだよ…」
言葉は出る。痛みも感じる。宙に打ち上げられたが何とか生きていることを実感する。
改めて辺りに目をやるが、冬夜と同じく何人かの人々はあの猛風によって体を宙に浮かされていたのか、人々が雨のように地面に激しく叩きつけられる。
べしゃり、ぐしゃり。
歪で鈍い音が不揃いに耳に届く。
人が潰れていく。
「おばさん! 千香! 雪那!」
声を発するが、背中の節々に激しい痛みが伴う。声を出すも上手く周囲に届かない気がする。
「おじさん!!!!」
さっきまで側にいた皆の姿が確認できない。
一気に不安と恐怖が纏わりつく。
体の痛みに堪えながら、倒れた木々に葉を分け、道路の方へと進んでいく。
幸い、足は動く。今すぐ皆を探さないと、早く逃げないと、そんな本能が体を動かす。
相変わらず周囲には轟音と銃声、人々の叫び声が鳴り止まない。
さっきまでの晴天は土煙や黒煙に覆われ、数m先でさえも薄暗く見えづらい。
「冬夜! ここだ! 俺たちはここにいるぞ!!」
その声が耳届く。
風に煽がれると土煙の先に、聞き馴染みのある声が聞こえてくる。おじさんの声に違いなかった。
その声の元へと走り出す。
「おじさん!」そう叫ぶと土煙によって隠されていたシルエットが顕になり、服装が汚れに塗れたおじさんが佇んでいた。
「冬夜。……よかった……よかった」
涙が滲む瞳と視線が合う。
冬夜の無事を喜ぶように駆け出し、しゃがみ込みながら小さな冬夜の躯体を強く抱きしめる。
「い、痛いよ、おじさん」
「あぁ、痛くていい。生きてる証拠だ」
抱擁しながら何度も冬夜の背中を摩る。
「み、みんなは?」
「あぁ、俺も母さんも無事だが、千香と雪那ちゃんは少し打ち所が悪くて気を失っちまってる。俺と母さんは二人をおぶって逃げる、冬夜は一人で走れるか?」
「うん、俺は平気だから早くここから──」
再びだった。
紅き閃光が空を覆う。
(まただ、また何かがくる──)
今度は先ほどよりも近かった。
紅き閃光は冬夜たちのすぐ側に向けて放たれる。
閃光が冬夜たちの視界を支配すると、先ほどとは比べ物にならない衝撃波が襲う。
冬夜の小さな体は簡単に弾かれると、背後にあったビルの壁へと打ち付けられる。
「が、はっ………」
体の中でばちり、と何かがちぎれる音が野太く響く。
喉の奥から何かが制御を振り切り、押し上げられると、それは口から外界へと吐き出される。
コップ一杯分程度の赤い液体。それがアスファルトに落ちる。口の中が一気に鉄の味で広がる。
何が口から出たのか把握するのに数秒の時間がかかった。
膝から崩れ落ち、その小さな両手で口元を抑える。
「血、血だ……俺、今…」
また土煙と黒煙の混ざり合った粉塵が冬夜の視界を封じる。
何が起こっているか全く分からない。
ここがどこなのかも整理がつかない。
「なん、何だよ……」
袖で口元を拭うと、赤い絵の具でも塗ったかのように自身の血液がびっしりと跡を残す。
何度か瞬きをする。
けれど、目の前の景色は何も変わらない。
黒煙。
土煙。
炎。
倒壊した建物。
逃げ惑う人々。
耳を澄ませば、遠くから絶え間なく銃声が聞こえてくる。
ふと、先ほどまで目の前にいたはずのおじさんの姿が見えないことに気づく。
「っ……、おじさん…? おじさん! おばさん! 千香ッ!」
声を張り上げるが、先ほどまでのような返事はない。
「雪那ァァァ──── !!!!」
再度、叫ぶ。自身の中に芽生える不安の種を覆うような声で。
けれど、返ってくるのは遠くで響く爆発音と、誰かの泣き叫ぶ声だけだった。
ただただ、嫌な予感がした。
胸の奥と喉が締め付けられる。
足を引きずるようにして、先も見えない煙の向こうへと進む。
一歩、また一歩。
視界を覆っていた灰色の煙が、風に流されるように少しずつ薄くなっていく。
そして。
「……っ」
自然と進めている足が止まった。
倒れた街路樹と、崩れ落ちた瓦礫。
砂塵が視界を少しばかり防ぐが、確かにそこにいたのに気がついた。
「おばさん……?」
すぐに返事は返ってこなかった。
よく見ると、その身体は二人の少女を覆うようにして倒れていた。
千香、雪那。
静かに瞼を閉じている二人。
先ほどまでおじさんが言っていた気を失っている二人。
その言葉を信じつつも、本当は息なんかも止まってしまっているんじゃないか。
そう思えるくらい二人の表情は冷たく思えた。
確認するように、さらに一歩近づいた。
「──来ちゃ、だめ……」
かすかな声。声の主は二人に覆い被さるように突っ伏しているおばさんだった。
「おばさん!」
「冬夜くん……」
頭からゆっくりと垂れる血液が見えると一気に心拍数が跳ね上がる。
額から頬を伝った赤い液体は、顎先からぽたり、ぽたりと地面へ落ちていた。
それでもおばさんは、自分の身体のことなど気にしていない。
「二人は……?」冬夜の震える声を聞くと、ゆっくりと口を開ける。
「……大丈夫。気を失ってるだけ……たぶん」
震える声だった。
いつも家で聞いているハキハキとした声ではない。
あまりにも弱々しかった。
「おばさん、頭から血が…それに、足も……」
おばさんが視線を落とす。
そこで初めて気がついた。
隣接するビルから崩れ落ちた巨大な瓦礫が、おばさんの両足を完全に押し潰していた。
「……っ」
冬夜の喉から声にならない音が漏れる。
「動かせないの……」
「待って、今どかすから!」
冬夜は瓦礫に手をかけた。
しかし、子供の小さな手で持ち上げるには、あまりにも重すぎた瓦礫は、冬夜の希望をかき消すように静止している。
「くっ……!」
両手を使う。全身の力を込める。
それでも、瓦礫は僅かに揺れることすらしてはくれなかった。
「冬夜くん……」
「待ってて! 今、助けるから!」
「……いいの」
「よくないよ! だって…!」
思わず声を荒げた。
「雪那も千香もいるんだよ! 絶対に助けなきゃ…、みんなで、みんなで家に帰ろうよ」
「冬夜」
その声に、冬夜の動きが止まった。
初めて、名前で呼ばれた。
「私はもう動けないし、もう疲れちゃったから」
そう優しく微笑みながら答えた。
そして、不安と恐怖に怯える冬夜の頬に優しく手を重ねる。
「ここは危ないわ。二人は私が絶対守る。だから、あなたはここを抜けて、他の大人たちに私たちがいることを知らせて」
「でも、でも…」
「あなたは優しい子ね、本当のお母さんじゃないけど。あなたをずっと誇りに思うわ」
瞳から何かが込み上げてくる。
おばさんの姿がじんわりと歪む。
「っ……、必ず戻ってくるから」
「うん。あなたならできる」
ゆっくりと歪む視界を直すように、袖で何度も顔を拭う。
そしてはっきりした視界でおばさんと目を合わせる。おばさんも目の周りが赤く染まっていた。何かを悟ったように下唇を噛み締め、震えるおばさんの言葉を頭の中で何度も言い聞かせる。
そのまま立ち上がり、周囲を見渡し、足を進めるべき方向へと体を傾ける。
自分自身も呼吸を深くするたびに、肺のあたりがずきずきと痛む。
すると、周囲を取り囲む粉塵が何かに煽られるように渦を巻く。
「……く、前が見えない」
右腕で目を守りながら、左腕で手探りに煙を払って見せる。
そして、風が通り過ぎる。灰色と砂埃で濁っていた煙は、急いで逃げるように空へと払われる。
瞳をゆっくりと開く。
少し離れた場所。数m先。
先ほど粉々に吹き飛んだ輸送車輌があった場所。
地面に叩きつけられたように変形している輸送車の残骸。
残骸の隙間から噴き出す炎は、左右に不規則に揺れている。
その炎のベールの中に、誰かがいた。
最初は、ただの人影にしか見えなかった。
炎の熱で景色が歪んでいる。炎の先からは、黒い煙が立ち込めている。
それでも、その人影だけは妙にはっきりとして見えていた。
炎の向こうから男が歩み出る。
その肌は異様なほど白かった。
いや、白いというより──青白い。
皮膚の下を走る血管が、まるで浮き出ているかのように透けて見えている。
そしてゆっくりとその顔も現れになっていく。
冬夜は思わず息を呑んだ。
その異常な瞳に。黒と白が、逆になっている。
本来、白いはずの場所が黒く。
本来、黒いはずの瞳が白い。
明らかに同じ人間とは異なる、異質な存在。
まるで人間の皮膚を被っている異邦人、人間というには些か不気味すぎる容姿を目の前に悪寒を感じる。
そして、その異様な眼球と冬夜の瞳が重なった。
驚愕する表情を眺めた後、男は口元だけを、不気味なほどに緩めた。
「おやおや、こんな所にいては危ないですよ」
口を開けたのは男の方からだった。
「お前、何なんだよ」
声は届かなかった。
独り言のように男の手前で声が落ちていくのが分かった。
しかし、男は目を細め、冬夜の口の動きをじっくりと観察する。
そして、再び口元がゆっくりと上がる。
「──通りすがりの魔術師、ですよ」




