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第三章 心の在処④

「本当によかったのか?ちゃんと話しなくて」

 薄暗い路地を一列に歩いている中で、前方から首を後ろに捻りながら霧島佳丞(きりしまけいすけ)は囁く。

 数分間、会話が途絶えていたからこそすぐに口は開かなかったが、逆に頭の中の言葉を整理できた気がしていた。


「うん、これ以上、冬夜に干渉しちゃったら気持ちが揺らぐ気がしたから」


 とリオナはダボっとした上着のフードを深く被り直した。

 すぐ後ろを歩く氷夏は眉を(ひそ)めながらも、口を縫い合わせているかのように沈黙を貫いていた。


 薄暗く、街灯も灯されていない。人が通行できないように設計されているであろうビル群の隙間を三人は抜けていく。


「まぁ、リオナがそれでいいなら何も言うことはないけどよ。儀式が始まっちまったらもう待ったなしだからな」

「後悔は、ないよ」


 小さく息が漏れる。

 自信のないような発言に聞こえているが、彼女の瞳は真っ直ぐに佳丞の視線にぶつかる。


「……そっか、ならいい。まぁアウトサイドの奴らの魔力を結界内で探知してからもう二日だ、どっちにしろこの街にはもういられない」


 大通りに繋がるタイミングで、佳丞は一度足を止め、通りを歩く人混みを一瞥する。仕事帰りのサラリーマン、下校後に遊びを満喫する学生、店の前では男性が溌剌とした声で通行人を店舗に客引きをしているのも見てとれる。

 特段、不穏な影なども見えない。いたって普遍的な街並みだった。


「本当に安全な場所ってあるの?」

 そんな疑問を抱えたリオナの声がそっと後ろから伝わると、ゆっくりと足を動かして人混みの中に紛れる。


「あぁ、一旦、この先に少し大きめのターミナル駅がある。そこから新都を抜けて中央特区に向かう。そしたらエアネストビルっていう高層ビルの二○階に清教徒が用意した一室がある。そこが儀式の祭壇になるんだとよ」

「そこが、私が私でいられる最後の場所なんだね」


 言葉に詰まる彼女を見て、氷夏はその手で背中を軽く摩る。


「不安がらなくてもいい、儀式はそんな大層なものでもない。むしろ楽にしていればすぐに終わるものだと聞く」

「そうだぜ、リオナが安心していられるように俺らも寄り添う」


 人混みの流れに沿いながら、ターミナル駅の方へと向かう。複数の路線が交わる駅ということもあり、先ほどまでいた区画よりも人通りは増していく。横断歩道を渡るとすぐに駅前の広場が視界に入る。開けた空間には整備された敷地、そこには敷き詰められた人工芝生とベンチが等間隔で配置されている。すでに陽の光はなく、街灯とビル群から漏れる光だけがこの街を彩っている。燦々とした光量に照らされる広場の中にも日中と変わらないほどの人々が、そこで体を休ませていた。

 また、駅の方から出てくる人も途切れることを知らず、もちろん敷かれたレールもなんてものもなく、縦横無尽に人々が行き交う。


「流石の人の多さだな、日本で一番人口の多い街なだけある」

「ふん、寧ろこれだけ人がいると奴らがどこから来ても可笑しくはない」


 飄々と呟く氷夏の発言は、一理あった。魔術師の中には偵察、暗躍に向く術式も存在する。数々の魔術による戦地を経験しているリオナは顔を動かさないまま周囲を見渡し、ピリつく緊張感を走らせる。


「こんなに人が多いと、魔力探知の結界も上手く作動しなくなることもあるよ。それに視界だけに依存していると敵の思う壺になる時だって」

 リオナの言葉に被せるように「あぁ、でも影の魔術師はもういないんじゃないのか?」とふとした疑問が佳丞の口から漏れる。


「あの少年が影の魔術師を倒した後、何者かに回収されていた。こちらに危害を加えてくる可能性も充分ある」

 雑音が溢れる中でも氷夏の声はしっかりと届いた。


「にしても、すごいな。ただの一般人だろ? リオナが助太刀したことは別として、よく生きてられたもんだ」

「私が現場に着いた時には、すでに異質な力が芽生えていた」


 曇りがかったような声で氷夏は振り返る。影の魔術師と対峙した際に見せた力のことを。


「触れた術式がいとも容易くその構成を分解していた。それに発生した魔力を吸収していた……」

「分解に吸収か、単体で成立する魔術ならよくある話だと思うが、一つの術式でそんな巧妙な作りをするってのもあの容姿からは考えられないな」

「偶然発生したというよりも、何かがきっかけで“目覚めた”のが近いのかもしれない」


 一部始終を見ていた氷夏が言うのだからそうなのだろう、と彼女の証言を受け止める。


「すでにその力を使うなと釘は刺したつもりだが」

「多分、杞憂だよ」


 淡々と間に入るリオナの言葉に、二人は目を合わせる。


「冬夜はもう『日常あっち』を選んだから」口元で消えた一言は、両側に立つ魔術師二人には聞き取れないほど小さなものだった。

「…まぁ、何にせよ過ぎたことだ。俺らはアウトサイドの連中だけ気をつけてればいい」

「そう、だね」佳丞とは目を合わせなかった。

「奴らも有力な犯罪術師だ、これから本格的に動き出してくるだろうな」


 氷夏の言葉の中で見え隠れする危惧しているような態度を一瞥して、


「大丈夫だ、こっちに天穿剣女(クルセイダー)の御門氷夏様がいるんだぜ?困った時には助けてくれるさ」ケロッとした様子で佳丞から溢れた言葉を聞き、不服そうな顔を浮かべている氷夏とは視線が合わなかった。

「あまり私を当てにするな」

「おいおい、自信持ってくれよ、年下の男子がお願いしてるんだぜ?」

「調子付くことは言うな。この組織に入った順だと、私の方が後輩だろう」

「ん?なんだビビってんの?頼むぜ、『救いの協定(アストラル)』のエースなんだからよ」


 その一言が何かに着火する。


「そう言うなら、貴様が片をつければいい」

「いえいえ滅相もありませんよ」

「人の影に隠れるとはな。欧州に認められたほどの槍術使いの聖譚槍主(パラディン)の名が泣くな。まぁ、貴様の場合は実力ではなくスライド式の襲名だったかな」

 嫌味がリオナを飛び越して聞こえてきた。


「ははん、俺の称号がハリボテか何かだと思ってんのか?こう見えて、氷夏より二年も早く称号者に選ばれてんのよこっちは」

「たかが聖騎士団に拾われただけだろうが、弟子は師匠の半減だな」

「テメェ。呪詛殺しで著名になったのも偶然だろうが、自分の実力ってよりも受け継いだ術式核が立派なだけだろ」

「最年少での称号授与がそんなに偉いのなら、一生イギリスに籠って武勇伝を語っていればいい」

「何だとコラ」

「図に乗るな、たわけ」

「はいはい、ストップ、ストップぅ〜」

 白熱する二人の言い合いに肩身が狭くなっていくリオナは、ぱんぱんと小さく手を叩く。


「「ぐぬぬ」」息の合う二人の声。


「まぁまぁ、二人が強いってことは私が一番分かってるから」

 苦笑するリオナは交互に両者の顔を見合わせながら肩に優しく手を乗せる。


「このままじゃ気分悪くなっちゃうよ?」

 その言葉で、二人の冷静さは吹き返すように戻ってくる。両者、区切りをつけるように咳払いをしてみせ、呼吸を整える。

「悪い」と告げる佳丞に「あぁ」と小さく返す氷夏。


 ここで喧嘩をしている時間すら正直惜しいところではある。

 気を取り直して、進行方向に足を進めると開けた広場の先にターミナル駅の姿が現れる。

 新幹線を含む在来線が五車線を囲うように建てられた大きな門構え、駅に上がる階段とは別に地下に進む道の先にも地下鉄が三路線走っているという。そして駅は上に伸びるように高層ビルが複合して建設されている。そして右方から明かりと共に移動してくるのは、ビルを貫通するかのようにモノレールの路線が市街から弧を描いて伸びている。圧巻の建築風景を目の当たりにし、ついつい「おぉ」と目を輝かせながらリオナ声を漏らす。


「随分と来てないうちに変わるもんだな」

 佳丞の声に反応して、リオナは輝かしい瞳をそのまま向ける。


「え?日本って前からこうじゃなかったの?」

「私が日本を出たのは六年前だったか。その時はこんな建物もなかったし、ここもあまり景気のいい都市ではなかった気がする」

「俺はもっと小さい頃だったから十年前とかか? 氷夏と同じく、ここまで立派なもんはなかったし、昔は東京二三区とかって分けられてた気がする」


 過去の東京の街並みを思い返してみるが、今とは違った風貌の街であったことは覚えている。


「私が生まれた年くらいに区の廃止と再編成をされていた印象だ。丁度、二十年といったところか」

 顎に指を添える氷夏。

 新都ニュータウンという街が複数の区を合併して、自治体として成り立ったのも大体同時期の話であると、佳丞からの説明もあった。


「へぇ、じゃあここ十数年で発展したような感じなのかな?」

「んー、特にこの街が異常なんじゃないか?」


 そう言うと、佳丞がオフィスビルの方へと指をさす。その指先の方へと視界を動かすと、立ち並ぶビルの幾つかに液晶を備えた電子広告が飾られている。

 シワが目立つようだが、中年男性の映像が流れていた。

 どこかで見覚えのあるような印象だったが、リオナの曖昧な記憶からでは思い出せなかった。


「アイツがCEOを務めている企業が、この街の発展に貢献してるって訳だな」

 補足をするように佳丞が唱えると、「あぁ」という相槌と共に氷夏が続ける。


「龍城家当主、龍城総祇(りゅうじょうそうぎ)──」


 彼の名を知らない日本人はいない。

 疑問を浮かべるように見ているリオナの横から、続けて氷夏が答える。


「『十三の名家』、この都市の設立の際に、街に指導権を政治家だけでなく、古くから存在する十三家の当主が実権を握っている。彼らによって繁栄した地域だからこそ国に匹敵するほどの権力を持っている」

「領主が統治するって、何か前時代的じゃない?」と電子広告を見つめる氷夏の横顔に投げかける。


「そうかもしれないな。だが『十三の名家』は明治の時代にはすでに政治体系の中に組み込まれ、根強く政治には絡んでいた」

「でも今までは表立ってたわけじゃないんでしょ?」

「あぁ、再編成される際に、国会内では『中央(ちゅうおう)統制議会(とうせいぎかい)』が設けられた。国会に属する特別上位組織でありながら、通常の三権分立・行政機構からは半ば切り離された存在。管理下の都市においては実質的な政権を握っている」

 新都ニュータウンが誕生すると同時に、『十三の名家』の実質的リーダーでもある龍城家は、かつて領地として各名家に分配された地域の統治権の行使を政府に申請。実権を握ると同時に各市民の直接的な意見繁栄をしやすいような体制になったこともあり、その制度を認められている。


「理由は明確。ニュータウンは“通常の法体系では管理できない街“だからな」

「え?」


 そして打ち明けるように佳丞はゆっくりと開口する。


「【聖処女(せいしょじょ)遺体(いたい)】が眠ってる街なんだよここは」

 冷たい風が頬を撫でている気がした。


「国家が【遺体】を所持していれば、それを欲する組織体が訪れても可笑しくない。だからこそ、通常の法体系ではなく独自の都市構成と政治体制が必要なわけだ」

 その言葉に被せるように氷夏は伝える。


「この街が安全で住みやすい、というのも一種のプロパガンダに過ぎない。多くの人が住みやすいからとこの街に住まえば【遺体】を隠蔽できるし、中央都市への攻撃は国連条約で禁止されたからな」

「そうなんだ、知らなかった……」


 あまり他国の情報は知り得ないのも無理はない。

 日本自体が、国内のみに情報を制限しているほか、あまり海外も日本の自治体について取り上げることもない。

 電子広告に背を向け進み出した佳丞はそのままリオナに伝える。


「品川の事件っていうのも、『悲観目録(ユースティティア)』が【遺体】強奪のために引き起こしたテロ行為だ。それがあって条約が設定されたんだがな」

「…うん」


 その背を追いながら、忌々しい記憶がフラッシュバックする。

 リオナ本人が望んで行われた行為ではないと理解しているが、自身の手を汚してしまった事実に蓋をすることはできない。

 自分自身が一番よく分かっている。


「その一連の出来事があったからこそ、土地の領主たちが市民を護ろうとする動きに転じれた」

 足の動きが重くなるリオナの背中を軽く押す。

 氷夏の呟きに呼応するように、リオナは俯く視線を上げる。


「私、何も知らないんだ…」


 夜にも関わらず、賑わいが止まない周囲の様子を見渡して。


「自分がやったことなのに。その人たちのこと、何ひとつ」

 苦虫を噛み潰したように、リオナは告げる。喉元にまで上る狂気の記憶を咀嚼しながら、何もできない、やっていない自分を悔いる。


「気に止むことなはい、君が背負うのもここで立ち止まっていい理由にはならない」

 淡々とした声だったが、氷夏なりの気遣いだった。


 しかし、今のリオナにとってその言葉は逆に胸の奥を締め付ける言葉にすらなる。


「そうだね、早くここを出ないと」


 再び進む足を早め、佳丞の背を追う。

 行き先は駅の地下、三路線あるうちのひとつに乗り、隣駅まで行くのだと指示はあった。二人は人の波を縫うよにして地下鉄に続く階段へと足を向ける。


 まず先に佳丞が躊躇うことなく階段を下る。

 それに続いて氷夏もリオナと肩を並ばせた後、彼女を置いて階段へと足を伸ばした。

 しかし。

 リオナ足はそれ以上、進むこともなかった。


 雑踏の音が遠のいていくような感覚。二人以外の人影が左右で過ぎていく。

 そして、視線の先には階段を登ってくる人々と目が合うことはない、こちらも目を合わせることもない。

 横切る人々の顔ははっきりと見えることはなく、ぼんやりとしていた。

 というよりも、はっきりと見ることができなかった。


(私──)


 胸の奥でゆっくりと何かが軋む。


(このまま、進んでいいのかな)


 視線が落ちる。


 階段の先は長く、薄暗い。

 地下へと続く先は、まるで底の見えない穴とでも言えよう。

 一歩踏み外せば、二度と登ってくることも叶わないかもしれない。


 そう思った途端、進めていた足が徐々に重くなっていった。

 きっと、霧島佳丞という男性も、御門氷夏という女性も自分自身を不安にさせまいと言葉をかけてくれるだろう。自分から望まなくとも、目の前の穴を知覚できなくなるように、布を被せてくれるだろう。


(選択したのは私、もう後悔しないって言ったのも私)


 そう言ってしまえば、覚悟が固まると信じていたから。

 清教徒にも、そう言えば文句など言われないと思っていたから。


(もう、これ以上、足踏みしたって変わらないんだ)


 スカートの裾をきゅっと握る。

 自分の好みで選んだわけでもない支給された布切れだが、皺がつくかな、なんてどうでもいいはずのことがやけに気になる。

 余裕があるわけでもない、でも、そうでもしないと、不安と恐怖で押し潰されてしまいそうだった。

 臆病で、勇気もない、何が取り柄なのかも分からなかった人生。


 言われるがままに、行動して。

 指示されたから、剣を振るっていた。


 小さい時も記憶すら、もう頭の中にはない。

 気がついたら、土煙の舞う場所で、阿鼻叫喚の叫びがただ耳を満たしていた。


 本当の自分すら、何者なのかも分からない。


 だから。


(私は、()()()んだ)


 ふと、そんな言葉が脳裏に浮かぶ。

 間違いでもない。きっと、言語化してしまったら私は責められるに違いない。

 責任を負えだの、罪を償えだの、幾千の言葉を羅列して、人々は非難するのだろう。


 それでも、死ぬ以外の選択肢を選べば、きっと地獄に戻るだけなのだ。

悲観目録(ユースティティア)』の魔術師が、どんな思考で、何に基づいて、どのように行動をしているのか、全て知っている。知っているからこそ、『死』という選択ほど合理的なものはないと思っていた。


 五年前に品川で起きてしまった騒動。焼け落ちていく街。二度と忘れない、忘れてはならない、残酷なまでに温かい血の残り香。

 自分が生きていたからこそ、起きてしまった。


 望んだわけじゃない。記憶も曖昧で誰に何を指示されていたのかも、記憶はもう風化して分からない。


(でももう、全て関係ない)


 唇が僅かに震えた。

 自分が殺めた魂たちにはそんな理由は関係ない。そこで剣を握り、振り翳したという事実さえあれば、悪役として認識されるには充分だった。

 大切な誰かを失った人間にとって、“仕方なかった”なんて言葉に、何の意味があるのか。

 それなのに。

 少しでも希望を抱いてしまった自分が憎い。

 そして、楽になろうとしている自分もまた憎い。


 兵器として生かされていた自分が、人を殺す道具に過ぎなかった自分が救われていいはずがないのに。どれだけ甘いことを言っていたのか。


 苦しみから逃げて、終わりを選ぼうとしている自分はもっと情けない。


 何をしたって。


(許されるわけ、ないのに──)


 先を歩いていた佳丞と目が合う。

 その様子を見て、氷夏もリオナの方へと顔を向ける。

 僅かに眉が寄せられる。


 これ以上、運命の歯車を止めてはいけない。そんな気がして、静止した足を動かす。

 喉が詰まるが、これ以上、何かを口にしてしまったら、その瞬間に全てが崩れそうな気がしていた。


 人でいられている今、そうせざるを得なかった。

 贖罪のために。


 後悔や未練などを捨て去って。


 一歩。

 踏み出す。





 ぐい、と。

 左手が、不意に強く引かれた。


「──え?」


 言葉と同時に視線は力の方向を向く。

 驚きに目を見開く。


 華奢で真っ白い腕。


 巻き付くようにリオナの左手を冷たく握る。

 それだけではない、彼女が絶句するに値する理由として一番大きいところはそこではない。


 腕から先が存在していない。


 まるで断裁されたかのように綺麗な切り跡、滴る赤黒い液体。暖かさを失った冷たい腕は、玩具なんかではなく、確かにそこには人間の肌の質感を保っている。


「な、なに……これ……?」


 狼狽する声と凍る空気感に気がついた氷夏が下の段からリオナの右手を引っ張り出して、宙に放り投げる。

 ふわり、と重力が一瞬、効力を失う。


 すると、その勢いで冷たい腕がするりと抜け落ちていく。


「腕…?」

 無造作に階段に叩きつけられる物体を眺めて氷夏は事実だけをこぼした。


 薄桃色のネイルと華奢で真っ白いそれは、まるで若い女性の腕にしか見えない。

 紛れもない本物の人の切断された腕に声にならない驚きがあった。


「おい── 、後ろだ‼︎‼︎」後方の佳丞の怒号が響く時にはもう遅かった。


 宙から華麗に着地したリオナと氷夏は互いに握っていた手で繋がっていた。

 そこには誰も入る隙間などなかったはずなのに。


 だから疑いもしていなかった。


 黒いフード付きのパーカーに身を包んだ長身の男の気配があったということを。


「ひょう────っ‼︎⁇」

 何者かに口を押さえられ、リオナは言葉の制御も呼吸ですら許されなかった。

 ワンテンポ遅れて氷夏が振り向くが、既に黒いパーカーの男の脚が鋭い速さで鳩尾に繰り出される。

「がッ……」


 背を階段に打ちつけ、リオナとの繋がった手が解ける。


 リオナはゆっくりと視線を動かす。

 そこにいた黒い服の男には既視感があった。深々とフードを被り、その隙間から見せる金色の瞳は、獲物を捉えた獣の如くリオナを睨む。しかし、その瞳には恍惚とした光もなく、まさにもぬけの殻、人の皮を被った『何か』とでも言える。


 突き刺すような瞳がリオナの喉の筋肉を緊張させ、言葉通り凍りついたかのように動きを止めさせる。


「あ、あなた…あの時の影の…」

 そんな言葉を言ったところで動きが止まるわけでもない。

 さらに男の力は強くなり、柔らかなリオナの頬が潰されるように握られる。余計に呼吸が難しくなり、足掻こうと男の手を力一杯退けようとしてもぴくりとも動かない。


「テメェ…、放しやがれ」

 怒りに満ちた声の主でもある佳丞は、既に男の背後に回り込んでいた。

 そして、有無を言わさぬ速さで佳丞の掌が男の脇腹へと叩き込まれる。


 男の体に触れる瞬間、掌に魔力が展開される。圧縮された魔力は、触れた瞬間に解放されたわけではない。

 一瞬だけ“溜め”を作り、刹那に内側から膨張するように炸裂した。


 骨が軋む音と同時に、衝撃は逃げ場を失い、肉体を内側から押し広がる。

 男の指が、ほどける。

 リオナの頬を掴んでいた力が抜け落ち、その身体は支えを失ったまま宙へと弾き上がった


 無造作に宙に投げ出される体は、制御を失い、地面へと自由落下する。



 ──筈であった。本来であれば。


「……っ、まじか」佳丞の目が僅かに細まる。


 冗談だろ、と口から漏れているのもやむを得ない。その男は、意図しない体勢のまま空中で静止していた。

 跳ね上がったはずの身体は、あたかも重力の存在を忘れているかのように固定されている。


 受け身でもなく、浮遊でもない。

 ただ、“誰かに掴まれている”ような違和感だけを残して。


「なんの手品だ、こりゃ」

 佳丞が囁くと、次の瞬間、糸で引かれるように地面へと引き戻される。

 ゆっくりと、ゆっくりと。

 男が地面の階段の段差付近まで下がってくると、ゆらりと立ち上がる。しかし、その瞳と身体には意志が宿っているとは到底思えない。

 ただの“空洞”とでも言うべきか。まるで、死体を無理やり動かしているようだった。


「……操られてる?」リオナが告げる一言に、他の二人もその異質な光景を目の当たりにし、喉が締まる。


 すると、男の背後からだった。

 ぞわり、と。

 異質さの元凶、もう一つの気配が空気を撫でる。


「ドス黒い邪悪さが滲み出ているな、用があるならさっさと出てこい」

 氷夏の声が鋭くなり、男の背後に潜む“何者”へと向けられる。


 一瞬、音が消された後に。


 ぱち、ぱち、ぱち。


 乾いた拍手が、駅構内の地下通路に響き渡る。反響する音はやけにゆっくりと、淡々としていた。

 この場にいる三人の魔術師を嘲笑うかのように。


 男の背後。

 ただの平凡な高校生に敗れた影の魔術師の背後。


 どこからともなく出現した黒く渦を巻く霧の中から人影が姿を現す。

 コツコツと、タイルと靴が擦れる音が静かに接近する。


 影の魔術師はまるでカーテンを捲られるように背後から伸びる手によって、地面へと倒れ込む。


 黒いスーツ。

 漆黒のハット。


 フォーマルでシワひとつ存在しない紳士服に身を包む男性の姿があった。


 服の下に見せる肌は異様なほど白く、真っ赤な鮮血のような双眸。

 ハットの下から揺らめく銀色の頭髪。


 日本人とは言い難い顔の骨格が、余計に異物らしさを感じさせる。


「……おい、冗談だろ。よりによってここでかよ」


 佳丞は息を飲み込む。

 同時に、氷夏の瞳も僅かに見開かれる。


 一拍。遅れて脳が状況を理解する。

 強く握られる拳の震えを堪えて、氷夏は呟く。


「アウトサイドの、リーダー……」


 スーツの男はゆっくりと口元を歪めながら。


「──キバ=シンラ。どうぞ、お見知りおきを」



 ◇◆◇



「やれやれだな、厄介な奴とここで鉢合わせるなんて」

 佳丞は慨嘆する。

 低く息を吐き、肩の力を抜くように首を鳴らす。衣服の下を弄るようにゆっくりと背後に手を回すと、体に密着する装具に触れる。

 指を差し入れるようにして引き抜き、金属音が微かに弾ける。取り出したのは、無駄な装飾の一切を削ぎ落とした、照らされる光を悉く反射させる二本の銀色の棒。


 掌に収まるその質量を確かめるように、軽く振るうと空を裂く音がキバにも伝わる。


「ほう、棒術か」

「──Licht, Das Durchbricht. 突き抜ける光って意味らしいぜ、メキシコ産の純銀にドイツの妖精(コボルト)独自の魔術回路を用いることでシームレスで無駄のない魔力供給を可能にした武具(ハンドメイド)

 言葉を連ねる佳丞の指先から魔力が滲み出る。銀の表面に薄く彫られた刻印をなぞる様に青白い光が走っていくそれは、瞬く間に棒全体へと行き渡り、淡い光を帯び始める。


 まるで内部に灯りがともる様にも見える。


 ──『銀の炬火(L.D.D)


 次の瞬間、佳丞は姿勢を一気に落とす。脚部に溜められた力がバネのように押し出される。

 両手に備えた棒状を掌で滑らせ、グリップを握り直すと同時にすでに打撃はキバの眼前へと繰り出されている。


「速度と強度は申し分ない」


 しかし、その攻撃はキバには届いていなかった。

 ベールのように薄く黒い霧がキバの頭部と『銀の炬火』の間に挟まる。


 驚愕している暇すら見せず、左手にあるもう一方の『銀の炬火』がキバの腹部へと強襲する。


「攻撃は始まる前にすでに終わっている」


 結果は同じだった。その二撃をも黒い霧は許すことはなかった。


「け、これで倒されてもこっちが満足できねぇよ」

 吐き捨てるその声には、挑発と覚悟が混ざり合う。



 一方で。

 その様子を後方から一瞥する氷夏は、静かに一歩、前へと出る。

 確実にリオナの前へと立ち位置をずらし、その身を壁のように差し込む。


 右手が僅かに持ち上がると、その手には微小の魔力が収束し、青白く温かいものが発する。

 それを左脇の懐へと潜らせると、何もないはずの空間に波紋が広がる。


 小さく波打ち、空間そのものが揺らいでいく。

 歪みは一瞬で戻ることもなく、静かに、ただ確かに“そこにあるはずのない領域”を形作る。

 躊躇はなく、氷夏はその歪みに腕を差し入れる。肘の先まで空間に浸かる感覚を無視し、その奥へと手を伸ばし──何かを掴む。


 空間の裂け目から現れたのは、一振りの刀。

 しかしそれは、日本刀と言えるような伝統的なそれとは一線を画していた。刀身には微細な光の線が走り、まるで内部に脈動するエネルギーを封じ込めているかのように明滅している。無機質でありながら、機能的な構造の技巧の結晶。どこか禍々しい存在感。


 氷夏はそれを無言で握り直す。

 刃が、僅かに鳴いた。


「──下がっていろ」


 振り返ることなく告げる声音は、冷たく、重い。その言葉に込められているのは、命令ではない。


 だが、それ以上は彼女は進まない。その上、握られた刀は鞘から抜かれてすらいない。

 静観するように佳丞とキバを見つめる。


 何かを“待つ”ように。


 その間にも、佳丞は『銀の炬火』を幾度も繰り出しては、黒い霧状の何かが邪魔をする。

 攻撃は決してその先の魔術師には届くことはなかった。


 空気中を漂うように黒い霧は揺らぎ続けている。


 氷夏の対角線上、直線の位置で何度も二つの影が重なり合う。

 張り詰められた緊張に、リオナは息をすることも唾を呑み込むことすら忘れてしまう。


 瞬きすらしない氷夏は数m離れているこの場所から虎視眈々と、キバの様子を伺う。

 そして、数秒の沈黙を経た後。


「──飛翼(ヒヨク)


 居合の一閃。

 すでに握られているから鞘から刀刃は抜かれており、その刃が照明の光を反射させる。


 弧を描いた斬撃の軌道に乗せられた魔力の糸は、目にも止まらぬ速度で佳丞の間を縫い、直線上のキバへと向けられる。

「ッ!?」魔力の余波すら感じさせないその斬撃を前に、キバはその黒い霧すら起動させることなく身を捻る。


「へぇ、認識できなきゃお得意の霧すら出せねぇってか?」佳丞の挑発的な発言がキバの耳に届く。

 だが、言葉に揺らぐこともなく静かに頬を上げる。


「上手く連携が取れている、美しいな」


 そして、捻った体の動きのまま、遠心力を活かして左手を佳丞の胸元へと繰り出す。その左手には何層にも黒い霧が重なり、多大なるエネルギーがそこに集中する。

 危険を察知した佳丞は二本の『銀の炬火』を交差させる。黒き一撃と銀色に輝く棒がぶつかり合うと、佳丞は想像以上の力によって後方へと押し出され、氷夏とリオナのいる位置へと戻される。


 二人の前に立ちはだかる影。そして、その奥で微笑む男。

 張り詰めた空気の中で、三人の呼吸だけがやけに鮮明に響いていた。


穿天剣女(クルセイダー)、そして聖譚槍主(パラディン)。流石は、清教徒が誇る大達人(アデプタスメイジャー)と言ったところか」

「そんな俺らをいなしちまうような、アンタは化物か何かか?」

「ただの魔術師さ」深くハットを被り直すと、キバは簡単に吐き捨てる。

 周囲から滲むような真っ暗な力を覆い隠すように余裕の笑みが溢れる。


「何にせよ、我々の前に出てきた以上、倒させてもらうぞ」

 刀を鞘に戻し、再度、術式発動に備え、魔力が鞘に供給される。

 それを合図に『銀の炬火』も魔力を帯び始める。


「さぁ、第二ラウンドと行きますか」

 グリップを強く握り直し、佳丞は肩の力を抜いて先ほどの体勢を再現する。


「──悪いが茶番はここまで」


 パチン、とキバの指先から音が発せられる。

 それと同時に駅構内の照明全てが不均一に点灯を始める。点滅は徐々に加速し、通路内には一切の光が消失する。


「は?」

 佳丞の口から声が漏れる。


 異質な暗闇の空間が広がり、次第に世界から光と音が消える。



















「氷夏!佳丞!避け───」

 驚くくらいの静けさの中から少女の声が響き渡る。


 だが、音の速度を超えて、『闇』の一撃は繰り出される。


「ぐがぁぁぁぁぁぁぁぁああああああ‼︎」

「──がッ‼︎??」


 佳丞と氷夏の腹部に、壮絶な重みが躊躇なく襲いかかり、激しい痛みが全身を包み込む。

 リオナの隣にいたはずの二人の声は、一瞬にして側ではなく、遥か後方の方へと流される。


 薄らと視界に光が取り込まれる。

 だが、まだ状況が飲み込めない。


(何が起こったの?……五感じゃ感じえなかった途轍もない魔力の塊が)


 ゆっくりと光が元の場所へと戻る。

 視界を取り戻してから、リオナは周囲の状況を確認する。

 やはり側には二人の姿はなく、後方20mほどの場所まで吹き飛ばされた二人はぴくりとも動かず、脇下辺りからじんわりと赤い液体が広がっている。


「い、いや……」

 震えた声が体の中で反響する。足もすぐには動かせなかった。


 一歩。踏み出そうとしたところだった。


「行かせはしない。『星々の乙女(アストレア)』」

 凍えるような一言が耳元で囁かれる。


 振り向くと漆黒のスーツがリオナの元まで迫っていた。

 銀色の靡く髪の隙間から、貫く様な紅の眼光が余計にリオナの動きを止める。


「っ……」後ずさるように自然と足が後ろに動く。


 仲間が打ちのめされた驚きか、それとも眼前に広がる脅威に対する恐怖か。言語化できない感情が脳内に渦巻く。


 男の目的なんて分かっている。

 抵抗しなければ、きっと兵器としての運命に逆戻りになると。


 人間ではなく、魔術霊装として駆動する終焉の鍵。


 だからこそか、反射的に右手で広げた魔力の粒子をイメージに沿うように構成。身の丈ほどある大剣は瞬く間に精製される。

 何の躊躇いもなく、その刃を自身の首目掛けて走らせる。


 何分待てど痛みはそこにはなかった。

 重たい瞼を徐々に開けるが、その刃は首へは到達しない。見覚えのある黒い霧状の何かがリオナの自害すらも拒絶する。


「貴重な素体を無駄にはできない」

 キバは嘲笑するかのように頬を上げる。

 冷たい笑顔が脳裏に焼きつく。


「どんなことをやっても無駄だ、君は魔皇戦姫(かんぜんたい)となるように運命を手繰り寄せている。喜べ、人間を超越しうる存在になれるんだ」

「私はそんなこと望んでなんかない」

「いいや、君が望まなくとも世界がそれを望むんでいる」


 ただ、ただその言葉が重たく胸に刻まれる。


「君は選ばれたんだ」


 悔しい。

 悔しくて、たまらなかった。


「なんで…」


 大剣を握る力が徐々に抜けていくと同時に、地面に向かって大剣は進み、光の粒子となり分散される。


「誰にも到達できなかったんだ、素晴らしいことだ」


 自分はなぜ生まれてきたのか。

 どうしてこんなことになってしまったのか分からない。


 人を殺すことも、世界に終わりを(もた)らすことも、超常の力すら望んではいなかった。

 血すら通ってないように見える白い手が、リオナの頰へと伸びてくる。


 ひんやりとした指先が、彼女の体温を奪っていくように輪郭を撫でていく。触れられた箇所から、じんわりと感覚が薄れる。

 頰から顎へと移動する指が、くい、と少しばかり持ち上げられる。


 無理やりに目線が合わされる。

 獲物を睨み殺すような真っ赤な瞳に、リオナの顔が反射する。なんて、空虚なものだろうか。


 光が失われている。

 希望も、抵抗も、怒りですら、すでに削ぎ落とされたかのような中身のない双眸。

 ただ、“諦めた人間の顔“だけがそこにあった。


「結局、逃げられないんだ」


 落胆した声が無自覚に発せられているのを、リオナ自身気がついてもいない。


 思考はすでにフリーズし、どこまでも彼女を見放す運命の歯車をひたすらに呪った。


「さぁ、共に新世界へと行こう」


 リオナはゆっくりと瞼を閉じる。

 これ以上、男の顔を見たくはなかった。これ以上、自分という存在を見せつけられたくなかった。


 何より。



(何もできない自分が憎い。もう、いい)



 思考が、静かに途切れていく。


 抗う理由も。立ち上がる意味も。逃げる勇気も。生きる価値すら。

 何もかもが、彼女を拒絶し、その場から遠ざかっていく。







 ──数秒。


 けれど。


 何も起こらなかった。


「……………?」


 胸の中でざわつき始める違和感だけがはっきりと分かる。


 全てがそこで終わって、自分の希望や解放の糸口すら失われる、そんなはずだった。


 瞼を閉じていても感じることはできた。キバ=シンラはこちらを見ていない。すでに別の方面に視線と意識を持っていかれていた。

 その眼は背後を射抜いていた。



「──離れろよ、お前」



 低く、掠れた声。

 しかし、その声色には確かな芯がある。


 リオナはその声を覚えていた。聞き間違える筈もない。


「これは、興味深い客人だ」淡白な言葉の中でも、キバの抑揚から内なる喜びのようなものすら感じる。


 駅構内には数千人の人間の認識を阻害してしまうほどの強力な結界が張られていた。そんな箱の中にはキバ含め、自分たちしかいなかったはず。

 音すら死んでいるこの空間に、“外側の存在”が入り込む余地など到底考えられなかった。

 相手は少数精鋭の魔術師集団のリーダーである。容易に結界に人を招くような術式構成をしているとも思えない。


 それなのに。


「聞こえなかったか、その手を離せって言ってんだよ」


 今度は、はっきりと怒りを孕んだ声が空気を凍らせる。

 しばらく、リオナは呼吸をすることさえ忘れてしまっていた。じんわりと、口の隙間から入る酸素がじんわりと体に取り込まれる。


 ゆっくりと振り返るが、その視界はぼやけ切っていて鮮明には映らない。

 それでも、何度も瞬きを繰り返しては無理やりに焦点を合わせる。


 ──理解した瞬間、思考が追いつかなかった。


 いるはずがない。ここに来るはずがない。来てはいけない存在。


 日常に戻ったはずの少年。

 自分が、もう関わらないと決めたはずの人間。これ以上、危険に晒してはいけない。大事な人。


 それなのに。そこに、立っていた。


 紺色のブレザーに、無造作に整えられた黒髪。



「どうして……」

 喉の筋肉がこわばり、締め付けられる。

 どこか浮かれ切った表情のキバを睨み返すかのように、じんわりと一歩、一歩と距離が縮んでいく。


 奧村冬夜。そう呼ばれる少年が、そこに存在した。

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