第七話:ゆるがぬもの
放送が止まり、アキラ先生の早口な説明が終わって、耳の中にようやく“静けさ”が戻ってきた頃、俺は、言いようのない息苦しさに襲われていた。
自由になったはずなのに、自由じゃなかった。
俺の中には、言葉にできない何かが、ずっと引っかかっていた。
焦燥?怒り?不安?
いや、それら全部がごちゃ混ぜになって、心の奥で泥みたいに溜まっている感じだった。
そして、それは自然と“ある名前”へと向かっていった。
カエデとナナ。
あいつらの顔が、目の裏にこびりついて離れない。
あの恐怖と罪悪感が、今でも心臓を締めつけてくる。
なのに、ヒロタカは……。
「ヒロタカ、お前は本当に、あいつらをそんな簡単に見過ごすことができたのか……?」
その言葉は、自然に口をついて出ていた。
いや、正直、もうあれは言葉じゃなかった。
ただの、衝動だった。
俺は、右手でヒロタカの胸ぐらを掴む。
この手が震えていたのかどうかも、覚えていない。
けど、ヒロタカは微動だにせずに、ただ静かに言った。
「もうあれは人間じゃない。化け物に構っていたら、俺もお前も命が危なかったんじゃないのか?」
その言葉が、俺の中の最後の理性をブチッと切った。
俺たちが同じものを見て、同じ空気を吸って、同じ場所から逃げてきたのだとしたら、どうしてそんなふうに言えるんだ?
どうして、あんなにも冷静に、仲間を切り捨てられるんだ?
ヒロタカの口から出てくるのは、いつも“正論”だった。
だけど、それが俺には、どうしようもなく冷たく感じた。
俺の左拳は、もう勝手に動いていた。
殴るつもりだった。
感情なんかじゃない。
理屈もない。
ただ、ぶん殴りたかった。
何かにこの手をぶつけてでもしないと、俺の中で何かが壊れてしまいそうだったから。
でも――。
「落ち着いてくださいスグルさん!」
左腕を掴まれた瞬間、現実が一気に押し寄せた。
「っ……!」
左に振り返ると、視界の端に自分の左手首の朱色のミサンガが映る。
そのせいでか、俺はなんとなく落ち着きを取り戻していった。
俺の左腕を掴んだのは、ヨツハだった。
「スグルさん。きっと、ヒロタカさんもスグルさんが大切だったから、あの二人を置いて逃げる選択をしたんですよ!それは間違っても、ヒロタカさんがあの二人を大切に思っていない根拠にはならないです」
……分かってるよ。
頭では。
そういうことを言う奴がいるってのも、その理屈も、分かるには分かる。
「でもな、ヨツハ……」
口を開いたけど、どう言葉を続ければいいかわからなかった。
俺が本当に怒っているのは、ヒロタカの判断じゃない。
たぶん……自分自身の方だ。
どうしてあの時、俺は振り返らなかった?
どうして、叫ばなかった?
どうして、見捨てるって選択肢を“黙認”した?
あの瞬間、俺は生き延びることしか考えてなかった。
もうそういうことなのか?
「ヒロタカさんだって!本当はあの二人を助けたかったはずです!でも、二人を置いて逃げざるを得なかったんだと思います!」
ヨツハの声が真っ直ぐで、綺麗で、まぶしかった。
正義感でできたみたいなその言葉が、今の俺には逆に、うっとおしかった。
そんな言葉で許されるわけないだろ。
そんな理屈で、二人が救われるわけないだろ。
俺の右手を振り払って、ヒロタカは静かに言った。
「勝手にしてくれ」
そして、その場を去っていった。
その背中を見てるうちに、また、あの感情がぶり返してくる。
怒り。
悔しさ。
無力感。
それらが全部まとめて、喉の奥で詰まって吐き出せなかった。
「あ……」と漏らしたヨツハの声が聞こえたけど、俺は何も言わずにその場を離れた。
ヨツハの言葉も、ヒロタカの背中も、今の俺には、全部遠く感じた。
それよりもずっと、胸の中でくすぶっていたのは、「自分が誰かを見捨てた」という確かな記憶だった。
それは、誰かのせいじゃない。
俺自身の罪だ。
そして、それが、今のこの世界で生きていくために避けられなかった現実なんだとしたら――俺は、きっと、まだまだこの世界に、適応できていないのかもしれない。




