第四話:食われた心臓
パニックだった。
教室が、完全に崩壊していた。
叫び声。怒号。椅子のきしみ。誰かの泣き声。
そのすべてが重なって、音の洪水みたいに脳を圧迫してくる。
……カエデが、ナナを襲った。
俺の目の前で。
ついさっきまで、体調が悪そうで、か細い声で「気持ち悪いだけ」って言ってたあいつが、今、目を濁らせて、爪から血を滴らせながら、ナナを襲っていた。
ありえないだろ。
そんなわけが――そんなはずが。
でも、目の前で起きてる現実は、俺の理屈なんか一瞬で叩き壊してくる。
生徒たちは我先にと出口へ走った。誰もが命を守ろうと必死だった。
けど――アキは違った。
あいつは、教室の隅でダルそうに座ったまま、カエデをただ一瞥して、「あー、始まったな」みたいな顔してるだけだった。
なんなんだ、あの余裕。
なんで、そんな顔ができる。
俺なんか、膝の裏が震えてるってのに。
そして、さらに意味がわからなかったのがテッペイ。
「カエデ、俺とやる?」って、なんだよそれ。
ふざけてんのか、こいつ。
そう思ったけど、顔はなんだか楽しそうだった。
喧嘩の構えで、一歩、カエデに近づこうとしてた。
あいつ、マジで頭おかしいだろ。
でも――そのとき、俺は別のことが気になってた。
ユノ。
ユノはどこにいる?
怪我はしていないだろうか。怖がっていないだろうか。
無事でいてくれ。頼む。
せめて、無事で――。
「みんな、落ち着いて聞いてくれ」
突然、教室に響いたのはヒロタカの声だった。
……なんで、そんな冷静なんだよ。
口調も、表情も、いつも通り。まるで緊急事態なんかじゃないみたいに。
俺はそんなヒロタカの態度が気に食わなかった。
「教室の外へ出ても無駄だ。シェルターは、この教室の下にある。ゾンビに注意して、落ち着いてシェルターへ避難するんだ」
その言葉に、生徒たちは一斉に教室の後ろの床へと向かい出した。
そうだ、あったな。床の非常扉。
不審者避難訓練のとき、先生が言ってた。あれを開ければ、シェルターに降りられるって。
でもまさか、あれが“本番”で使われる日が来るなんて、誰が思ったよ。
俺の横を、ハルマがハナヨの手をとって通り過ぎた。
ふたりとも、顔が青ざめてたけど――ハナヨはハルマを見ると少し安心したような顔をした。
……ほんとなら、冷やかしてやるところなのに。
なのに、今はそんな気分になれなかった。
なんでだよ。
なんで、こんなことになってんだ。
俺は、みんなの流れに逆らって歩き出した。
向かった先は、あのヒロタカ。
「おい、ヒロタカ。カエデとナナはどうすんだよ?」
自分でもびっくりするくらい、声が震えてた。
怒りとも、恐怖ともつかない感情が、胸の中でグチャグチャになってるのがわかる。
けど、ヒロタカは、全然変わらなかった。
あの無表情のまま、こう言った。
「放置する。今の俺たちで処理するなんて、技術的に無理だ」
は?
何言ってんだ。俺が聞いたのはそう言うことじゃない。
どうして、そんな簡単に見捨てる言葉が出てくるんだよ。
「なあ違うだろ!助ける方法はねえか聞いてんだよ!カエデもナナも、俺らのクラスメイトだ!お前は自分の仲間をそんな簡単に見捨てるような薄情なやつだったか!?」
怒鳴ってた。
声が裏返ってた。
でも、ヒロタカはそれでも眉一つ動かさずに言った。
「お前の方こそ状況が読めてないみたいだな。カエデはもう、俺たちにとってはただの化け物でしかない。そしてナナはもう手遅れだろう」
……その言葉で、何かが、折れた。
俺の中で、何かが、砕けた音がした。
言い返せなかった。
何も言えなくなった。
そしたら気づいたんだ。
周りにはもう、誰もいなかった。
ナナは、胸の辺りが空洞になって、倒れてて。
カエデは、その空いた穴から、何か柔らかくて黒いものを引きちぎって、咀嚼していた。
それが――ナナの心臓だと、理解したときには。
もうヒロタカが、俺の腕を掴んでた。
「行くぞ、スグル」って。
俺はただ、引きずられるようにして、シェルターへと降りていった。
カエデが、ナナの心臓を、食べていた。
目の裏に、あの黒が焼き付いて消えなかった。




