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第42話 帰ってこない名前

目を覚ましたのは、その翌朝だった。


薄い朝日が病室に差し込み、白いカーテンの影を揺らしている。


トウマはしばらく天井を見ていた。


ここがどこなのか理解するまでに少し時間がかかっているようだった。


最初に声を上げたのはシュウだった。


「先生! 起きた!」


医師と看護師が入り、いくつかの質問が続く。


名前。年齢。


学校名。


答えられるものもあれば、途中で止まるものもある。


けれど、それよりつらかったのは、そのあとだった。


検査が終わり、病室に残ったシュウが恐る恐るベッドのそばへ近づく。


「……よう」


軽く言おうとしたのに、声が掠れた。


トウマは彼を見た。


知らない人を見るわけではない。


でも、知っている相手を見る顔でもなかった。


丁寧に距離を測るみたいな、他人行儀な目だった。


「すみません」


その第一声に、シュウの顔から血の気が引く。


「え」


「お見舞いに来てくれたんですよね。ありがとうございます」


敬語だった。


その瞬間、何かが本当に終わったのだとわかった。


忘れられるかもしれない、ではなく、忘れられてしまったのだと。


二人で笑った放課後も、喧嘩した日も、名前を呼び捨てにしていた距離も、全部ごっそり向こう側へ落ちたのだと。


シュウは口を開きかけ、結局閉じた。


無理やり笑おうとして、失敗する。


「……ああ。まあ、そう。見舞い」


それだけ言って、耐えきれなくなったみたいに病室を出た。


病室を出た瞬間、風間シュウは歩幅を崩した。


扉を閉める音が、やけに静かに聞こえる。


廊下の白さが目に痛い。


何人かの看護師が行き交っていくのに、その足音すら遠い。


自分だけが、何か別の場所へ置いていかれたみたいだった。


非常階段の重い扉を押し開ける。


冷たいコンクリートの匂いがした。


そこでようやく、人の目がないとわかって、シュウは壁へ背中をつけた。


「……すみません」


トウマの声が、まだ耳に残っている。


「お見舞いに来てくれたんですよね。ありがとうございます」


丁寧な、きれいな言葉だった。


失礼は一つもない。


ないからこそ、余計に痛かった。


前のあいつなら、そんな言い方しない。


「おう」とか、「何しに来たんだよ」とか、体調が悪くてももっと雑に返してきた。


勝手に人のパンを半分取るし、屋上で無言で隣に座るし、こっちが怒ってるときは「悪かった」より先に「でもお前も悪いだろ」と返してきた。


なのに今は、礼儀正しい他人みたいな顔で頭を下げた。


「……ふざけんなよ」


絞り出した声は、自分でも驚くほど弱かった。


怒っているわけじゃない。


責めたいわけでもない。


トウマが悪くないことなんて、一番わかっている。


わかっているのに、どうしようもなく悲しかった。


二人で笑った放課後があった。


喧嘩して、次の日には何となく元に戻っていた日があった。


黙っていても隣に来るやつで、こっちが冗談を言えば、ちょっと遅れて笑うやつだった。


「風間」


昔、自分の名前を呼ばれた声を思い出す。


教室でも、廊下でも、屋上でも。


呼び捨てで、当たり前みたいに。


その“当たり前”が、もう向こうにはない。


シュウは顔を覆った。


肩が震える。


息を殺しても、涙は止まらなかった。


「なんで、お前だけ……」


助かったやつは大勢いる。


講堂で泣いてた一年も、保護者の子どもも、舞台の前にいた合唱部も。


みんな普通に名前を呼ばれて、普通に家へ帰って、普通に明日へ続いていくのに。


なんでお前だけ、その代わりみたいに全部なくしてんだよ。


言えない。


本人には言えない。


そんなこと言ったら、トウマはきっとまた、自分が失ったことより先に周りを気にする。


そういうやつだと知っているから、余計につらい。


階段の踊り場にしゃがみこんだまま、シュウはしばらく泣いた。


声を上げないように噛みしめた奥歯が痛い。


泣くつもりなんかなかった。


ユイナのほうがもっとつらい。


だから自分まで崩れるわけにいかないと思っていた。


でも、無理だった。


「……っ、バカヤロー」


最後にひとつだけ悪態をつく。


それがやっと、いつもの距離に少しだけ近い言葉だった。


長く息を吐く。


涙を拭う。


何度かまばたきをして、赤くなった目を押さえる。


それから、誰もいない階段で、小さく言った。


「じゃあ、また最初からでいいよ」


声はまだ震えていた。


「お前が忘れても、俺が覚えてる。だから、また友達やるよ」


その言葉は、誰に聞かせるでもない誓いだった。


親友だった時間を、失われたから終わりにしないための。


ここから先、何度でも横に立ち直すための。


しばらくしてシュウは立ち上がった。


顔はまだひどかったが、それでも病室へ戻る前に一度だけ深呼吸する。


泣いたことは言わない。


たぶん、ユイナにも言わない。


でも、それでいいと思った。


親友が覚えていなくても、こっちは覚えている。


だったら、また名前を呼ばせるところから始めればいい。


扉に手をかける直前、シュウはもう一度だけ目を閉じた。


「待ってろよ、御影」


今度は泣かなかった。


その代わり、声だけがひどくやさしかった。


少し遅れて病室へ入ったユイナは、その空気を一目で理解した。


シュウの目が赤いことにも気づいた。


それでも彼女は泣かなかった。


泣きそうな喉を無理やり押さえ込み、いつものやわらかい声で言う。


「こんにちは」


トウマはベッドの上でわずかに身を起こす。


「……こんにちは」


その返事も、丁寧すぎるくらい丁寧だった。


ユイナの胸のどこかがきしむ。


名前を呼ばれない。


目の前にいるのに、まだそこへ辿り着いてもらえない。


それでも、彼女は笑った。


「私、白峰ユイナっていいます」


自己紹介し直すように、ゆっくり言う。


「同じ学校でした。たぶん、前から知り合いでした」


“たぶん”とつけたのは、トウマを責めないためだった。


失ったものの大きさを、いきなり突きつけないためだった。


トウマはユイナを見た。


そして、ほんの少しだけ目を細める。


「……すみません。ちゃんと覚えてないです」


「うん」


ユイナは笑ったままうなずく。


「大丈夫。私が覚えてるから」


その言葉を言うのに、ものすごく力がいった。


本当は全然大丈夫じゃない。


忘れられていて、苦しくて、今すぐ泣きたい。


それでもここで泣いたら、トウマはもっと自分を責めると思ったから、笑うしかなかった。

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