第43話 もう一度、友達から
目を覚ましてからの数日間、白峰ユイナは毎日病院へ通った。
最初の日、病室に入ったときのトウマは、世界との距離を測るみたいな目をしていた。
「こんにちは」と声をかけると、返ってきたのは「……こんにちは」という丁寧すぎる返事だった。
知らない相手に向ける礼儀の温度だった。
胸の奥がきしんだが、ユイナは笑って椅子を引いた。
「私、白峰ユイナっていいます。同じ学校でした」
そう自己紹介し直すと、トウマは申し訳なさそうに「すみません。
ちゃんと覚えてなくて」と言った。
その一言だけで、忘れられてしまった現実がはっきり形を持った。
それでもユイナは、謝らなくていい、と答えた。
前のあなたは甘いものが少し苦手だったこと、でも食べきれないと文句を言いながら半分食べてくれたこと。
そんな小さな話をすると、トウマは不思議そうにしながらも「聞いたことないのに、嫌じゃないです」と言った。
その言葉だけで、ゼロではないのだと思えた。
二日目、雨の病室で、ユイナは小さなノートを持っていった。
忘れないように、というより、忘れても残るように。
そう思って、話したことを短く書き留めていくためのノートだった。
『雨の日の病室。白峰ユイナの話は嫌じゃない。』
そう書いて見せると、トウマはその文字をじっと見つめたあと、「こういう書き方、前にも見た気がする」と呟いた。
思い出したわけではない。ただ、手触りだけが残っているような言い方だった。
ユイナはそこへさらに、雨の日の廊下の匂いが好きだったことを書き足した。
トウマは窓の外の雨を見て、「今も、ちょっとわかる気がします」と言った。
三日目には、風間シュウの話をした。
見た目よりずっと泣き虫で、でも本当にやばいときは誰より先に隣へ来る人だと。
トウマは黙って聞いていたが、「ちゃんと会いたいです。
まだどう話せばいいかわからないけど」と言った。
その言葉に、失われたのは記憶であって、誰かとつながろうとする気持ちまでではないのだと、ユイナは少しだけ救われた。
四日目、ユイナは屋上でよく飲んでいた缶ジュースと一緒に、九条セナの話をした。
厳しくて、よく怒って、でも本当は誰より優しかったこと。
トウマは「その人のこと、俺、たぶんすごく大事だったんですよね」と静かに言った。
「大事だったよ」
そう返すと、彼は少し苦しそうに目を伏せた。
思い出せないのに、感情の痕だけが胸の奥に残っている。
ユイナは、そういう痛みも含めて、彼の中にまだ残っているものを信じたかった。
五日目、退院前日。
トウマはノートを開き、そこに増えていった短い言葉を静かに読んでいた。
白峰ユイナの話は嫌じゃない。
風間シュウは見た目より泣くらしい。
九条セナは怖くて優しい。
屋上で缶ジュースを飲んでいた。
夏祭りの写真がある。
そのどれも思い出せないはずなのに、「読んでいると、自分のものみたいな気がするときがある」と彼は言った。
ユイナは泣きそうになるのをこらえながら、「思い出さなくても、ちゃんと残ってるものがあるってことだよ」と笑った。
ベッド脇の写真を見つめながら、トウマは少し迷ってから口を開く。
「俺、あなたのこと、まだ何も思い出してない。でも、ちゃんと話したいって思う」
その一言で十分だった。
失ったものは戻らなくても、ここからまた作っていけるかもしれない。
そう思えたから、ユイナはただうなずいた。
「じゃあ、退院したらいっぱい話そう」
春の少し手前の光が、病室の白いシーツの上に静かに落ちていた。
三月の終わり、退院の日。
病院の外には春の匂いが混じっていた。
まだ風は冷たいのに、その先に少しやわらかい季節が待っているとわかる空気だった。
シュウが少し前を歩く。
泣いたことなんてなかったみたいに、「遅えぞ」といつものように言う。
でも、その声の奥にある慎重さを、ユイナは知っていた。
またここから関係を作るなら、こいつは絶対に最初からやり直せる。
そう信じている声だった。
隣を歩くユイナを、トウマは何度かちらりと見た。
知らないはずなのに、知らない感じがしない。
胸の奥に、理由のない懐かしさだけが残る。
病院の門を出たところで、トウマは立ち止まった。
「白峰さん」
「うん」
「俺、たぶんまだ、何も返せないです」
その言葉に、ユイナは一瞬だけ唇を噛んだ。
返せない。
たしかにそうだろう。
好きだと言ってくれた夜も、屋上の会話も、手を伸ばしてくれた日も、今の彼の中にはない。
それでも、その“返せない”という誠実さが、かえって苦しかった。
「大丈夫」
ユイナは笑った。
泣いたら終わる気がして、どうにか笑った。
「私、待つの得意だから」
トウマは少し驚いたように彼女を見る。
理由のない懐かしさに、戸惑っている顔だった。
風が吹く。
春の匂いが、ほんの少し混じっている。
「……白峰さんといると」
「うん」
「知らないはずなのに、胸があったかくなる」
その一言で、ユイナの視界が滲んだ。
思い出してはいない。
でも、何も残っていないわけじゃない。
クラウン・オーダーの本当の意味は、きっと支配じゃなかった。
最後まで人でいるために、誰かを守るほうを選び続けるための力だった。
それだけで、救われる。
トウマは少しだけためらってから、言った。
「もう一度、友達から……」
ユイナはとうとう笑いながら泣いた。
「うん。今度は、なくさないように、ゆっくりね」
新しい春が、二人のあいだに静かに差し込んでいた。
それが始まりだったのか、失くした季節のつづきだったのか、
そのときのユイナにはまだ分からなかった。




