第39話 最後の命令
ユイナたちのクラスの出番が始まる直前だった。
舞台の前に並ぶ生徒たち。
客席の前方では、内部資料を見た保護者たちのざわめきがもう隠せなくなっている。
そのすべての上で、反響板がゆっくりと、けれど確実に傾いていた。
乾いた破断音が鳴る。
一本目のワイヤーが切れた。
何人かが顔を上げる。
悲鳴になりかけた息が、講堂に広がる前の一瞬。
その一瞬で止めなければ終わる。
逃げろ、と叫んでもだめだ。
人は一つの出口へ殺到する。
長い命令は通らない。複雑な誘導はできない。
だから選べる言葉は、一つしかなかった。
カン――。
左耳を裂くような金属音。
世界の音が一拍ぶん沈む。
講堂前方、舞台と通路に近い数十人の頭上へ、黒金の王冠が一斉に浮かび上がる。
ひび割れた冠が、暗がりの中で静かに光る。
対象が多い。
身体が理解するより先に、本能が恐怖を返した。
これをやれば、今まででいちばん大きく何かを失う。
たぶん、戻らない。
それでも、ユイナがいる。
シュウがいる。
真壁も、トオルも、泣いている小さな子も、何も知らず並んでいる保護者もいる。
守りたいと思ってしまった時点で、もう選べない。
トウマは肺の底から息を吸った。
――クラウン・オーダー。
「動くな」
たったそれだけだった。
次の瞬間、前方の流れが一拍ぶん凍る。
立ち上がりかけた保護者も、舞台へ出ようとした生徒も、出口へ向かいかけた列も、その場で静止する。
その一拍で十分だった。
「前列そのまま!」
ユイナの声が飛ぶ。
合唱部の澄んだ声ではなく、必死に誰かを助ける声だった。
「後ろから出てください、押さないで!」
シュウが別方向から怒鳴る。
「一年、こっちだ!」
真壁が泣きそうな声で誘導し、トオルが補助扉を蹴り開ける。
ノアが放送室から冷静な避難案内を流す。
止まった世界が、人の声で再び動き出す。
反響板はそのまま舞台中央へ落ちた。
轟音。
木と金属が砕ける音。
白い埃が一気に上がる。
けれどそこには、誰もいなかった。
……通った。
助かった……。
その理解だけが先に来る。
代償は、その直後だった。
視界が大きく揺れる。
耳鳴りではなく、音そのものの消失。
客席から何か叫ぶ声がする。誰の声か、判別できない。
胸ポケットの中で、写真の角と便箋の端だけがやけにはっきり触れていた。
自分は、何をした。
大勢を止めた。
助かった。
それはわかる。
けれど次に浮かぶはずの顔が、うまく出てこない。
白――
風――
九――
どれも途中で切れる。
名前の先が、霧の中へほどけていく。
膝が抜けた。
上部通路の手すりに肩をぶつけ、そのまま舞台袖の暗がりへ倒れ込む。
誰にも見られない位置だった。
それでよかった、とどこかで思う。
こんなふうに壊れていくところを、大勢の前に晒したくはない。
遠くから足音が近づく。
でも、それが誰なのか認識する前に、意識が底へ沈みはじめる。
最後に見えたのは講堂の天井じゃなかった。
夏祭りの夜に少しぶれて写った、笑っている誰かの顔だった。
その人が誰なのか、わからないまま、暗闇が来た。




