第37話 冬の合唱
午後、講堂は白い光に満ちていた。
壇上の幕は新しく見えるほど整えられ、客席には保護者と来賓が並び、生徒たちはクラスごとに静かに着席している。
校長の挨拶、来賓の祝辞、プログラムの案内。
表面だけ見れば、何も問題のない行事だった。
それが逆に怖かった。
トウマは運営補助の腕章をつけ、舞台袖へ回っていた。
シュウは誘導係。ノアは放送室近く。
トオルは機材搬入の手伝い。
真壁は一年の列にいて、今日は一人にしないよう周りに何人もつけてある。
ユイナは合唱部の列に並び、出番を待っていた。
舞台袖に入った瞬間、トウマは嫌な違和感を覚えた。
油の切れた機械の匂い。
上部から微かに聞こえる金属のきしみ。
反響板の制御盤の横に、本来なら貼られているはずの点検赤札の跡だけが残っている。
外した痕だ。
「これ、誰が外したんですか」
近くの教師に問うと、相手は露骨に目を逸らした。
「今日は来賓もいる。余計なこと言うな」
その言い方で十分だった。
危険は知っている。
知っていて、進めている。
客席を見渡す。
来賓席の端には、小さな弟妹を連れてきている保護者もいる。
後ろでは一年生が緊張した顔でプログラムを握りしめている。
日常の顔をしている場所ほど、人は無防備だ。
カン――。
左耳で小さく音が鳴った。
一拍だけ世界の音が遠のく。
見上げると、反響板を固定しているワイヤーの一本が、ほんの少しだけ揺れているのが見えた。
今すぐ落ちるほどではない。けれど、何か一つ噛み合えば崩れる。
そういう揺れ方だった。
トウマは非常扉の位置を確認する。
後方の片側には、搬入用の平台車が寄せられていた。
完全に塞いではいないが、人が一気に流れれば確実に詰まる位置だ。
それを動かそうとして、背後から教師の声が飛ぶ。
「触るな。終わったあと困るだろ」
トウマは振り返る。
言い争う時間はない。
短く、単純に。
一人にだけなら、まだ反動は軽い。
カン――。
男の頭上に、薄い王冠が浮かぶ。
「どいて」
一拍。
教師は自分でも驚いたように一歩退いた。
その隙に平台車を壁際へ寄せる。喉の奥に細い痛みが走る。
使うたび、何かが削れる。
大したことのない使い方のはずなのに、それでも身体が覚えている。
この先にもっと大きな命令が待っているのだと、嫌でもわかってしまう。
舞台では一組目の合唱が始まった。
まだユイナたちの出番ではない。
それでも、群れの中にいても彼女の位置だけは不思議と見つけられた。
何も起こらず終わってほしい。
その願いは、もう祈りだった。
講堂の後方で、小さなざわめきが起きる。
保護者の一人がスマホを見て顔色を変え、隣の人に画面を見せていた。
内部資料だ、と直感した。
ノアからも短いメッセージが届く。
流れた
保護者の一部に拡散してる
まだ小さいけど広がる
榊キョウヤは始めている。
壊すためではなく、隠されてきたものが隠れなくなる瞬間を、もっとも人目のある場所へ引きずり出すために。
舞台袖の暗がりで、トウマは胸ポケットに触れた。
便箋と写真。
その薄い重みだけが、今の自分を人の側へ引き戻してくれる。
このまま終わればいい。
誰にも気づかれないまま、何も失わず。
けれど、物語はいつだって、そう願った直後に崩れ始める。




