第35話 夏祭りの写真
昼休み、ユイナは何も言わずトウマを屋上へ連れ出した。
風は冷たいのに、空だけはきれいに晴れていた。
校庭では合唱祭の案内係が看板を立て、体育館側からは吹奏楽の音合わせがかすかに聞こえてくる。
何も起きない一日の、ただの途中みたいな光景だった。
ユイナはフェンス際で立ち止まり、制服のポケットから一枚の写真を取り出した。
「これ、持ってて」
手渡された瞬間、トウマは目を見開く。
夏祭りの日の写真だった。
少しだけぶれている。
それでも、浴衣姿のユイナと、見慣れた自分の笑い方がちゃんと写っている。
画面の端には遅れてきたセナもいて、少しだけ呆れた顔でこちらを見ている。
あの夜の空気が、一枚の紙に閉じ込められていた。
「……返す、じゃないのか」
「最初はそう思った。でも、やっぱり違うかなって」
ユイナはフェンスに指をかけたまま、空を見上げる。
「忘れないように持つっていうより、忘れても残るように持っててほしい」
胸が少し痛くなる。
忘れる前提で渡されていることが悲しいのに、その悲しさをまっすぐ口にできないやさしさもまた、苦しかった。
「白峰」
「うん」
「俺、この前、ちゃんと返事したよな」
花火が上がる直前。
少しだけ揺れた声で、でも確かに言ったはずだ。
“好きだよ”と。
「うん」
ユイナは即答した。
「ちゃんともらった。だから、あれをなかったことにしたいなんて一回も思ってない」
トウマは写真の端を撫でた。
紙の感触だけが妙に現実的だった。
「でも、今の俺にその言葉の続きをちゃんと持てるかって言われると、わからなくなるときがある」
「うん」
「好きだって言った責任まで、忘れたくないのに」
ユイナはしばらく何も言わなかった。
下手に慰めるほうが、この場では残酷だと知っている人の沈黙だった。
やがて彼女は、トウマの胸ポケットを指で軽く叩いた。
そこには写真のほかに、セナの便箋が入っている。
「じゃあ、忘れたくないものは、そこに入れといて」
「それだけで足りるかな」
「足りなくなったら、私が足す」
トウマが顔を上げると、ユイナは少しだけ笑った。
「前にも言ったけど、私、何回でも話せるよ。屋上で何飲んだとか、シュウがパン食べながら喋って怒られたとか、セナが怒ると怖いとか、そういうの全部」
「……白峰」
「今さらもう一回“好き”って言えって意味じゃないからね」
その言い方がやさしくて、逆に泣きそうになる。
「ただ、もし抜けても、あなた一人で“なかったこと”にしないで。私は覚えてるから」
風が強くなり、写真の端がかすかに揺れた。
トウマはそれを胸ポケットへ丁寧にしまう。
便箋と写真が重なる感触があった。
過去に間に合わなかった想いと、今まだ手を伸ばせる想いが、同じ場所に触れる。
「今日、無事に終わったら」とユイナが言う。
「うん」
「また春の話、しよう」
春。
その言葉だけで、なぜか胸の奥が熱くなった。
春というのは、何かが続く人だけの季節みたいに思っていた。
けれど、失いながらでも、そこへ辿り着きたいと思っている自分がいる。
「……うん」
トウマはうなずいた。
「今度はちゃんと聞く」
ユイナは返事の代わりに、少しだけ目を伏せた。
泣きそうなのをこらえているのだと、その仕草でわかった。
たぶん彼女も怖いのだ。
今日が何事もなく終わらないかもしれないことも、無事に終わってもその先で抜け落ちるものがあるかもしれないことも。
それでも、笑っている。
そういう強さに、トウマは何度も救われてきたのだと思う。
思い出せる範囲より、ずっと多く。
昼休みの終わりのチャイムが鳴る。
扉へ向かう直前、ユイナが小さく言った。
「御影くん」
「うん」
「今日だけは、“大丈夫”より先に、人を呼んで」
トウマは少しだけ笑った。
「……わかった」
その約束が守れるかどうか、正直、自信はなかった。
でも守りたいと思った。
一人で崩れるしかない終わり方は、もう誰にも望まれていないのだと、やっと少しだけわかったから。




