第34話 朝の階段
創立記念合唱祭の朝、校舎の空気は妙に静かだった。
普段より丁寧に掃除された廊下。
いつもより多い職員室の出入り。
校門の前で笑顔を貼りつける教師たち。
全部が整っているのに、その整い方だけが不自然だった。
二時間目の休み時間、風間シュウに呼ばれて非常階段へ向かうと、そこに真壁ミナトが座り込んでいた。
膝を抱えて、俯いたまま動かない。昨夜ほとんど眠れなかったのか、目の下のクマがひどい。
「朝からここにいた」
シュウが低く言う。
「教室、しんどいって」
トウマは真壁の隣に座った。
冷たいコンクリートの感触が、制服越しにじわりと伝わる。
こういうとき、本当は何から言えばいいのかわからない。
励ましも正論も、疲れ切った相手にはただの重さになることがあると知っているからだ。
しばらく黙っていると、真壁がぽつりとこぼした。
「……俺、間違ってたんですかね」
「何が」
「言ったことです。先生のことも、上級生のことも。もう黙ってたほうが、みんな楽だったのかなって」
その声には、怒りより先に擦り切れた疲労があった。
責められ続けた人間の声だった。
「誰に何言われた」
シュウが聞く。
真壁は少しためらってから、小さく答えた。
「“お前のためでもある”って。騒ぎが大きくなったら将来困るぞ、とか。お前が黙れば丸く収まるんだ、とか。……同じことばっかりです」
シュウの顔が歪む。
「それ、お前のためじゃなくて、自分らが面倒なの嫌なだけだろ」
真壁は何も言わない。
言い返す力ももう残っていないのだと、その沈黙だけでわかった。
トウマは階段の窓から差し込む白い光を見た。
人を追い詰めるのは、殴ることだけじゃない。
“正しいことみたいな顔をした沈黙の強制”のほうが、ずっと長く人を壊すときもある。
「真壁」
呼ぶと、彼がゆっくり顔を上げる。
「丸く収まるっていうのは、傷ついた側だけが消えるって意味だろ」
真壁の目が少しだけ揺れた。
「それを収まるって言ってるやつらが、間違ってる」
まっすぐ言い切ると、自分の中の何かが少しだけ定まるのを感じた。
王冠なんてなくても、言葉で言えることはある。
それを忘れたくないと、ふと思う。
そのとき、上の階から足音が降りてきた。
斑目トオルだった。
トオルは一瞬だけ気まずそうな顔をしたが、すぐ壁にもたれた。
「……俺からも言う」
真壁が警戒したように身体を固くする。
トオルは舌打ちもせず、珍しく真っ直ぐ続けた。
「お前に黙れって言ってるやつら、結局、自分が楽したいだけだ。俺も前に似たような目に遭った。だから最初、榊の話にちょっと乗りかけた」
「榊先輩と?」
真壁が驚いて顔を上げる。
「学校の腐ったとこ暴くって話だよ。理事会の金の流れとか、握りつぶされた話とか、見せられた。嘘じゃなかった」
トウマはトオルを見る。
その横顔に、暴れたいだけの不良の顔はなかった。
納得できないものを前にして、どこへ怒りを置けばいいのかわからなくなった人間の顔だった。
「でもあいつ、最近おかしい」とトオルは続けた。
「痛みを証明するためなら、もう少し傷が増えてもいい、みたいな顔してる。俺はそこまでは行けねえ」
階段に沈黙が落ちる。
外では合唱祭の練習らしいピアノの音がかすかに聞こえた。
そのやわらかい音が、ここだけ別の世界みたいに遠い。
真壁が唐突に顔を覆った。
「……怖いんです」
その一言で、全部がわかった気がした。
正しいことを言ったのに、孤立させられる怖さ。
このまま一人で飲み込まされるかもしれない怖さ。
壊れる前に黙ったほうが楽なんじゃないかと、自分で自分を疑い始める怖さ。
シュウがしゃがみこんで、真壁と目線を合わせる。
「怖くていいよ」
その声は驚くほどやわらかかった。
「でも、一人で怖がるな。今日は誰かしら絶対そばにいる。俺でも、御影でも、白峰でも、誰でもいいから掴まれ」
真壁の肩が少し震える。
それは泣く一歩手前の揺れだった。
トウマはその横顔を見ながら、ふいに思う。
こういうとき、自分の能力で全部黙らせられたら楽だ。
黙れ。消えろ。
近づくな。
短い命令で、理不尽な声だけ止められたら。
けれど、その考えが浮かんだ瞬間、胸ポケットの便箋の感触が返ってきた。
最後まで、王にならないで。
トウマは目を閉じて、息を吐いた。
使わないで守る方法を、最後まで探さなくてはいけない。
階段を出る前、真壁が小さな声で言った。
「……ありがとうございます」
それは誰に向けたものとも限定できない、弱くて、それでも確かな言葉だった。
その一言に、シュウが「礼はまだ早い」と笑って返す。
その笑い方がやけにやさしくて、トウマは少しだけ救われた気がした。




