第33話 便箋の二行
九条セナと別れた駅の風景だけが、どうしても薄くならなかった。
夕方のホームに吹いていた風の冷たさ。
閉まりかけたドアの向こうで、最後まで何か言いたげにこちらを見ていた横顔。
けれど肝心の会話の細部は、霧の向こうにあるみたいに曖昧だ。
思い出そうとすると、胸の奥が鈍く痛んで、そこから先へ進めなくなる。
その夜、御影トウマは机の前に座ったまま、長いこと動けずにいた。
引き出しから取り出した便箋は、何度も折り目をなぞられたせいで、紙の端が少しだけ柔らかくなっている。
駅でセナが別れ際に手渡してきたものだ。
改めてその内容を読み返す。
『最後まで、王にならないで。
……ずっと、好きだった』
息が止まる。
好きだった。
たったそれだけの言葉なのに、胸のどこか深い場所へ、刃みたいにまっすぐ落ちてきた。
今好き、ではない。
好きだった。
言い直さない覚悟をした人の過去形だった。
もう隣には立てないと知った人の、最後の告白だった。
「……最低だな、俺」
自分の声が、妙に他人行儀に聞こえる。
セナのことは大事だった。
たぶん、自分が認めていたより、ずっと。
叱られたことも、止められたことも、背中を押されたことも覚えている。
けれど、それらがどんなふうに一人の人間へ結びついていたのか、その一本の線だけがところどころ白く抜けている。
好きだった、と言われてはじめて、自分が返せなかったものの形を思い知る。
涙は、すぐには出なかった。
泣くより先に、喪失が来た。
返したかった。
でも、もうそのための記憶がきれいに残っていない。
残っているのは、取り返しがつかないという感覚だけだった。
スマホが震える。
三雲カオルからだった。
明日の創立記念合唱祭、保護者も来賓もかなり入る
学校側は裏で理事会向けの説明資料も整えてる
榊がそのタイミングを狙ってるかもしれない
私はまだ学校に入れない。だから気をつけて
トウマはすぐ電話を返した。
数コールで繋がる。向こうは少しざわついていた。
カオルは外にいるのだろう。今も謹慎中で、校内へは入れないはずだ。
「先生、榊は何をする気なんですか」
『そこまではわからない。でも、あの子は“壊れれば隠せない”って考え方に寄ってる。悪意で人を殴るタイプじゃない。だから余計に危ない』
カオルの声は疲れていた。
でも、その疲れの下にある焦りだけははっきり伝わってくる。
『御影。明日、何かあっても、絶対に一人で抱え込むな』
机の上の便箋が、視界の端で揺れた。
最後まで、王にならないで。
セナも、カオルも、言っていることは同じだった。
けれど、誰かが落ちる前に手を伸ばせるのが自分だけなら、結局その言葉に背いてしまう気がする。
それが自分の弱さなのか、正義感なのか、もうよくわからない。
通話を切ったあと、トウマは便箋を胸ポケットへ入れた。
まだそこにあるのは、セナの残した二行だけだ。
ユイナの想いも、夏祭りの夜も、自分の中には確かにあったはずなのに、今は形として握れるものがない。
だからこそ、その薄い紙切れの重さが痛かった。
眠れないまま、窓の外が少しずつ白んでいく。
トウマは便箋の上から胸を押さえた。
好きだった。
その過去形の痛みが、自分を人の側へつなぎ止める最後の楔みたいに思えた。




