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第29話 消えていく名前

最初は、ほんの一瞬だった。


朝、教室でユイナに声をかけられたとき、返事の前に名前が引っかかった。


顔は分かる。声も知っている。


柔らかな目も、少し困った時の笑い方も知っている。


なのに、“白峰ユイナ”という音の並びが、喉の手前で一拍遅れた。


「どうしたの?」


「……いや、何でもない」


笑って誤魔化したが、内心は冷えていた。


名前はまずい。


約束や会話の内容ならまだしも、名前はまずい。


それが抜け始めたら、もう“部分的な欠落”では済まない。


その日はずっと、世界の輪郭が少し遠かった。


シュウの名前は出る。


セナも、トオルも、ギリギリ大丈夫。


なのにユイナだけが危うい。


守りたい気持ちが強い相手ほど削られやすいのだとしたら、あまりにも悪意がある。


放課後、病院へ向かうユイナに付き添った。


彼女の母の容態が少し不安定で、検査が増えたらしい。


「ごめんね」


いつものようにユイナが言う。


「何で謝る」


「付き合わせてるから」


「それ、もう禁止にしよう」


「何を」


「すぐ謝るやつ」


「じゃあ努力する」


そんな会話をしながら、病院の自動ドアをくぐる。


受付の匂い。白い床。


遠くのモニター音。


どこかで子どもが泣いている。


待合で並んで座ったとき、ユイナがふと笑った。


「御影くん、最近ほんとに顔に出るようになったね」


「そう?」


「うん。前はもっと、全部しまってた」


そう言われて、少しだけ驚く。


隠しきれていないのかもしれない。


あるいは、相手がユイナだから気づかれてしまうのか。


「……怖い」


気づけば口にしていた。


「何が?」


「忘れてくのが」


「うん」


「もっと、でかいものが抜けそうで」


ユイナはすぐには答えなかった。


沈黙が嫌じゃないのは、たぶん彼女の前だけだ。


「じゃあ、今日は私がいっぱい話す」


やがてそう言って、少しだけ胸を張る。


「え」


「覚えておいてもらえるように」


「そんな都合よく」


「それでも、言う」


そして彼女は、ほんとうに他愛のない話をたくさんした。


子どもの頃に読んだ本のこと。母が元気だった頃、一緒に行った海のこと。


祖母が味噌汁をすごく薄く作ること。バイト先で失敗した日のこと。


どれもささやかで、どれもちゃんと生きている話だった。


トウマは一つ一つに頷きながら、必死に覚えようとした。


でも途中で、彼女の横顔を見ているだけで苦しくなる。


この人の名前を失くしたくない。


診察が終わった帰り道、交差点でユイナが立ち止まった。


「ねえ」


「ん」


「もし、ほんとに私の名前が出なくなったら」


心臓が嫌な音を立てる。


「その時は、ちゃんともう一回言うよ」


「……」


「白峰ユイナです、って」


笑って言う。


でも、目は少しだけ赤い。


「だから、そんな顔しないで」


「できるかよ」


「できなくても、して」


その優しさが残酷だった。


許されているみたいで、余計に苦しい。


帰宅後、手帳を開く。


今日は絶対に書かなきゃいけない。


短く、確実に。


『白峰ユイナ』


まず名前だけを書く。


その下に、


『病院』 『海』 『味噌汁 薄い』 『笑うと少し目が下がる』


書きながら、涙が出そうになる。


こんな書き方でしか繋ぎ止められないのかと思うと、たまらない。


最後に、強い筆圧で一行だけ足した。


『忘れるな』


でも、その言葉を誰に向けているのか、自分でも少し分からなくなっていた。

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