第27話 命令できない夜
ユイナが泣いたところを、トウマはほとんど見たことがなかった。
笑う時も困る時も、彼女は大体、先に相手の気持ちを考える。
だから、自分の限界が来る前に何度も飲み込んでしまう。
その日、彼女のバイト先がネット上で晒された。
きっかけは些細なことだったらしい。
常連客とのトラブルを誰かが切り取って投稿し、そこに個人情報めいた書き込みが混ざる。
勤務時間、店名、制服姿の写真。悪意は小さく始まり、あっという間に拡散する。
「……最悪」
シュウがスマホを睨む。
「消せないのか、これ」
「通報はしてる。でも全部は追えない」
セナが答える。
ユイナはいつも通り「大丈夫」と言った。
けれどその日の放課後、屋上に来た彼女は明らかに疲れ切っていた。
「休んだ方がいい」
「休んだら、お店にも迷惑かかる」
「それでも」
「御影くん」
ユイナはフェンスの向こうの空を見ながら、小さく言った。
「守ってもらうばっかりは嫌だって言ったよね」
「言った」
「でも、今日はちょっとだけ、しんどい」
その一言で、胸が締めつけられる。
トウマは何か言おうとして、言葉を失う。
慰めは軽い。正論は残酷だ。
たった一言で全部を黙らせる力があるのに、目の前の一人にかける言葉の方がよほど難しい。
「……俺」
「うん」
「今、書き込んだやつ全部に“消えろ”って言えたらって、ちょっと思った」
「うん」
「でも通らない」
「通らなくてよかったのかもね」
彼女は少しだけ笑う。
その笑い方が、逆に危うい。
「私ね」
ユイナはゆっくり続けた。
「もし御影くんがその力で私の周りを全部静かにしたら、たぶん一瞬は楽になる。でも、そのあときっと、もっと怖くなる」
「……」
「だって、それで残るのは“あなたが支配した静けさ”でしょ」
正しい。
何も言えないほど、正しい。
夕暮れが屋上を薄く染める。
風が強く、ユイナの髪が頬にかかる。
トウマは伸ばしかけた手を止めた。
「命令じゃなくて」
ユイナが言う。
「あなたの言葉で守って」
それは懇願に近かった。
トウマはようやく、言葉を選ぶ。
「……つらい時、つらいって言って」
「言ってるよ」
「もっと早く」
「難しい」
「じゃあ、難しくても」
「うん」
「俺、聞くから」
言い終えたあと、顔が熱くなる。
こんなありふれたことを言うのに、どうしてこんなに勇気がいるのだろう。
ユイナは目を見開き、それから本当に少しだけ、泣きそうに笑った。
「ずるいな」
「何が」
「そういうの、たぶん今いちばん効く」
その夜、ユイナは祖母の家に帰らず、母の病院の待合でしばらく一人でいたらしい。
後でそれを知って、トウマはどうして迎えに行かなかったのだろうと後悔した。
しかし同時に、迎えに行っていたら、また“守るため”の言葉を探していた気もする。
帰宅後、手帳を開く。
前のページに書いたはずの『学校は隠した』は残っている。
だが、その下に自分で何かを書き足し、途中でぐしゃぐしゃに線を引いた跡があった。
意味は拾えない。焦りだけが残る。
トウマは新しく書く。
『白峰ユイナ 命令するな』
そして少し考え、続けた。
『言葉で守れ』
あまりにも簡単な文で、逆に泣きそうになる。
それでも今の自分には、その程度の短さでしか残せなかった。




